世界経済危機の真っ直中にある今、日本は以前にも増して明るい未来に向けた構想力を必要としている。筆者の専門とする「空間経済学」の視点から、アジアを中心に危機後の新しい世界を展望し、日本の発展の方向を検討する。
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空間経済学とは、多様な人間活動が近接立地して互いに補い合うことで生まれる集積力(生産性と創造性の向上)に注目し、都市、地域および国際間の空間経済システムのダイナミックな変遷を分析する経済学の新しい分野である。2008年にノーベル経済学賞を受賞した米プリンストン大学のクルーグマン教授らを中心に、1990年代初めから精力的に開発されてきた。
その観点で今回の経済危機を眺めると、危機の背景をなすのは、モノ・ヒト・カネ・情報の国際移動に伴う広い意味での「輸送費」が過去半世紀で大幅に低減したことだ。これは、ジェット機やコンテナ船に代表される輸送技術やインターネットのような情報通信技術(ICT)の飛躍的発展、さらには自由貿易の伸展で実現した。輸送費の低下で特定産業が特定地域に集積し、規模の経済を利用して低コストで大量生産し、他の需要地に低い輸送費で輸出することが可能になる。その結果、国境を越えた生産・交易・投資活動が飛躍的に伸び、世界経済全体が高成長した。
特に過去30年、世界では2つの巨大な産業集積が形成された。まず東アジアは、組立型製造業を中心に高度な生産ネットワークと産業集積を築き、「世界の工場」となった。一方、世界最大の経済力と軍事力を持つ米国は、基軸通貨ドルの絶大な魅力に支えられ、世界最大の金融拠点・資産市場を形成した。
だが「世界の工場」東アジアと「世界最大の金融拠点」米国を双対のエンジンとする90年代以降の世界経済の急成長は、世界貿易の不均衡拡大と表裏一体だった。東アジアや産油諸国の膨大な経常黒字は米国に環流し、巨額の経常赤字を補い過剰消費を支えた。これは長期的には持続不可能で、結局、米国の住宅バブル崩壊とともに、グローバル経済危機を引き起こす。
現在、世界経済は「小康状態」にあるが、先行き予断を許さない。一方、中長期の観点では、世界経済全体を持続可能な新たな均衡成長経路に向けて再構築する必要がある。その際、グローバル不均衡の是正、アジア経済の長期的発展、「脱化石燃料社会」の実現といった世界的な課題に加え、日本にとっては、少子高齢化への対応も課題だ。注意すべきはそれらすべてが、アジアの持続的発展をどう実現していくかに大きく依存していることだ。
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アジアの高い経済成長は当分の間続くとみられる(図)。既存産業の革新や脱化石燃料社会に向けた様々な技術開発を含め、米欧アジアそれぞれが独自の産業集積を新たに形成しつつ、市場競争と国際協調のもとに発展していくことが期待される。その中で、アジアは、「世界の工場」あるいは「世界の製造拠点」としての一層の発展に加え、「世界の市場」さらには「世界の創造拠点」として、米欧と比較しうる成熟した経済社会に脱皮していく必要がある。
現在、広域東アジアは世界の半分近く、30億人を超える人口を有するが、新興国では都市への集積度合いがまだ低い。適切な地域政策の下、集積が高まれば、高い経済成長が達成され、消費市場も大幅に拡大しよう。同時に高質の資産市場が形成され、産業と住宅をはじめ、交通を含む大規模な社会インフラへの投資が進むと期待される。またアジアの人々の知的創造力を最大限活用すれば、世界の創造拠点としても発展しうる。
それにはアジアの地域協力が大前提になる。様々な角度から政治・経済両面で一層の協力が不可欠だ。東アジア共同体を長期展望しつつ緊急性や必要性の高いものからどんどん協力を具体化すべきだ。
さらに重要なのは、アジアが「世界の工場」から「知識創造社会」へ脱皮することだ。その過程で日本は大きく貢献できるし、日本自身も大きく発展できる。今世紀、先進国や多くの新興国での主要な経済活動が、大量生産に基づく「ものづくり」から、広い意味のイノベーションや知識創造活動へ移行する。実際、アジアでも知識創造社会へ向けた素地はできつつある。例えば、経済協力開発機構(OECD)の調査によると、日中韓の07年の国別特許取得件数は、日本が世界の1位、韓国が3位、中国は5位である。主要国の(軍を除く)研究開発費もGDP比で日本が1位、韓国2位で、中国も急上昇している。
ただし国ごとの取り組みだけで東アジアを世界の知識創造拠点にするのは難しい。先端知識を欧米からうまく吸収し、それを適当に改変・改善するだけではなく、今後は知のフロンティアの開拓が求められよう。これは、東アジア各国・地域の異なる歴史・文化を背景とした多様な「頭脳集団」からの相乗効果を最大限に生かすことで、はじめて実現できる。それには、現在の東アジア生産ネットワークの一層の深化と並行して、文化を含む幅広い分野でのアジア大の知の創造・交流のための密なネットワークを構築する必要がある。もちろん、そのネットワークは世界に広く開かれるべきである。
日本が主要なハブ(結節点)としてアジアとともに成長するには、世界中から多様な人材を吸収しつつ日本全体がイノベーションの場としての集積力を高める必要がある。ハブ形成でカギを握るのは、過去の日本の実績とともに、将来に対する期待である。日本が将来、「科学立国」として発展すると皆が信じれば世界の優秀な人材が集まる。政府自ら、それを否定するような行動は許されない。「科学立国」として発展すると信じるに足る、具体的な施策を通じた強いメッセージを持続的に発信していくべきである。
その際、狭い意味の科学技術での研究開発だけでなく、全員参加型の広い意味でのイノベーションを志向すべきだろう。その例は身近に見つけることができる。例えば徳島県上勝町は、山や畑でとれた木の葉や小枝を、料理に添える「つまもの」として全国大都市の高級料亭向けに出荷する「いろどり」事業で、「葉っぱをお札に変えた町」として有名だ。この事業は、平均年齢67歳(女性が大部分)の約150人の農家を中心に、コンピューターを駆使し、1人当たり平均年収は170万円と、事業開始前の農家の1人当たり平均年収の10倍以上である。高齢化率では県内1位だが、寝たきり老人は皆無に近く1人当たり年間医療費も格段に低い。同様の「むらおこし・まちおこし」は全国に膨大にある。
超高齢化社会に突入しつつある日本は、医療・介護産業を伸ばすだけでなく、上勝町のような革新的なビジネスモデルを通じ、高齢者が生涯いきいきと活躍できる社会を志向することが重要なのだ。
最後に、社会を豊かにする上で、文化面の発信の重要性を指摘したい。日本の映画・漫画・アニメにとどまらず、最近、東京・渋谷を中心に発展した「ギャルファッション」はアジア各国で流行している。ギャルファッションの殿堂、渋谷109には年間900万人近くの若者がアジア各国からも含め訪れる。関連するファッション雑誌や映画も含め「ギャル産業革命」と呼ばれ、内需だけでなく外需も取り込みつつ発展している。このように、文化的にもアジア全体で相互作用し、双方向でイノベーションを起こすことが重要になろう。
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日本が長期不況の最中にあった90年代、「日本の将来はいったいどうなるのか」と尋ねられた英国のサッチャー元首相はこう答えた。「明るい未来を自ら構想できなければ、明るい未来はやってきません」――。今こそ明るい見取り図を描き、実現に向け全力で努力すべき時である。
2010年1月5日 日本経済新聞「経済教室」に掲載