1950年の日本──「日の丸」に見た集団結束性
先日、1950年に初めて日本の土を踏んだ日の日記を掘り出した。ロンドンからの7週間の航海。神戸にたどり着いたのは、3月21日のすばらしい晴れの曙で、神戸の裏の山々はなんとも美しく目に映った。
上陸して、東京への夜行列車を待っている間、町を歩いていると、ある通りでは、各家に日の丸の旗が翻っている。なるほど、祭日だ。すでに8年間日本語の勉強をしてきたから、「お彼岸」のことぐらいは知っていた。それが明治以降、「春季皇霊祭」などの形で、神道化、国家化されていたこともどこかで読んでいた。
喫茶店に入ってそこのおばあさんに話を聞くと、今は春分の日として生まれ変わったが、依然として祭日であって、「祝祭日国旗掲揚促進協会」とかいう団体が、愛国心涵養運動を起こしているということが分かった。その狙いは、一方では、日の丸は敗北の象徴だと思う人に日本人としての誇りを取り戻させ、他方では、日の丸は国民を圧迫してきた天皇制の象徴だと見る労働組合の「赤」い危険思想勢力に対抗することだった。ある町に国旗がいっぱいあって、ある町には全然なく、またある町にはあったりなかったりだったのは、隣組の申し合わせの如何によるだろうとの、喫茶店のおばあさんの話を聞き、なるほど、ルース・ベネディクトなどの「日本人論」でいろいろと読んできた、例の日本人の集団的結束性はこれだと思った。
その喫茶店を出てもう少し行くと、学生がメガフォンを手にして、激しい口調で、米帝国主義を弾劾していた。ある大学の先生が免職させられたのに抗議していたらしい。占領軍が学問の自由を踏みにじり、正義のために戦っている先生たちを「思想が悪い」と称して、学園から一切追い出そうとしているという。
従属国の悩み
その後の半世紀の──「進歩」というべきか、価値判断を抜きにして「変化」というべきか──をどう評価するかといわれると、難しい。
とにかく、祭日というのは、国旗を翻すべく、国家という集団の祭事、つまり「まつりごと」の一部であるという意識が薄れて、今や1人1人の遊ぶ日となったことは結構なことだが、学校の国歌・国旗問題がいまだ尾を引いていて、歴史教科書における第二次世界大戦の位置付けが、教育界のイデオロギー論争の中心点となっていることなどをみれば、愛国心のあり方の問題、敗戦国の歴史認識の問題はまだまだ清算されていないといえる。
小泉純一郎首相のポピュリズムには、オペラやポップ・コンサートの趣味を持つ政治家が若者の間に人気を博しているということ以外に、石原慎太郎都知事流の、変な「国民感情」に迎合する要素もある。といっても、「迎合」しているのか、彼の本心なのか。特攻隊の話をすれば涙が出るそうだから、本心だろう。とにかく、そうした要素がなければ、自民党の総裁として務まらないというところに、国際社会における日本の役割を大いに規制する要素がある。
ナショナリズム・愛国心には、いろいろある。熱心な国益追求もあれば(傍若無人型も、妥協的共存型も)、自国の制度や文化伝統に対する漠然とした誇りをもとに余裕綽々と他国に対処する姿勢もある。また、もう1つの種類として、自国を不当に圧迫・攻撃・脅迫・批判している外の世界、あるいは特定の国に対する憤りに基づいたナショナリズムもある。
どうも日本のいわゆる「国民感情」は最後の部類に入る場合が多く、合理的な外交の足かせとなることが多すぎるように思う。幸い、マスコミはこのごろ北方領土問題に飽き飽きして、ロシアとのパイプライン交渉などをあまり邪魔しなくなった。しかし、最近の国民感情優先の例として、拉致問題が典型的だ。G7の首脳会議に持ちこむほど拡大した結果、北朝鮮の核問題を巡る6カ国協議で日本が大きな役割を果たせなくなったが、自業自得であろう。
歴史認識の問題でも、中国や韓国が歴史を日本叩きの道具とすることに対して開き直りたくなる気持ちは当然だ。だが、靖国神社に参拝する首相が、参拝が自分にとってどういう姿勢を象徴するのか、歴史についてどういう命題に賛成で、どういう命題に不賛成か、論理的な説明を全くせず、ただ国民感情を汲んで無言で参拝するというのは、最悪の開き直り方であり、小泉政権が続く限り日中関係を毒する大きな要素となりそうだ。
しかし妙なことには、国民の7割が米国のイラク攻撃に反対だったのに、政府が同盟関係を優先して米国を全面支持したことが議論される場合、「国民の世論」という言葉は出てくるが「国民感情」は出てこないようだ。「北朝鮮の核があるから米国の抑止力に依存するしかない」という言い訳が安易に受け入れられる。「国民感情」はどうも、過去の戦争のしこりが関係するアジア諸国に向けられるもので、米国という覇権国に向けられるものではないようだ。
ドイツにも似たような「複雑な国民感情」現象はあることはあるのだが、ドイツのほうが日本に比べて、敗戦国としての歴史認識問題の清算に成功していると思う。どう違うかというと、主な違いは、自国に対する誇りの根拠を、過去の歴史ではなく、国家が現在国際社会で演じている役割に置けるかどうかだろう。ドイツがいま、米国と対抗しうるヨーロッパの一部分になっていて、率先して米国のイラク政策を根本的に批判した国であるのに対して、日本は、米帝国主義云々とあの学生が悲鳴を上げていた占領時代から半世紀経っても、依然として、アジアにおける米国の最も忠実な従属国である──「忠実な」というべきか、「面従腹背の従順な」というべきか。
最近では、ASEANを中心とする東南アジア友好協力条約(TAC)への加盟を巡る動向がその結果のよい例である。2003年10月にインドネシア・バリ島で行われたASEAN会議で、中国とインドは加盟したが、日本は米国との関係を害するのではないかという心配が決定的で、断った。中国に先を越されて、あわてて東京で会議を開いてイニシアチヴを取り戻そうとしたりして、「アジアの孤児」になるまいという、一種の焦りが見えてきた。
核拡散防止条約改定の05年に向けて、日本の核武装論者が、依然として右翼的で国威発揚などしか考えない、「新しい歴史教科書を考える会」などと同じ傾向の人物に限られていることが不思議だと思う。むしろ、米国への依存から抜け出して、将来明らかにアジアの主要国になる中国と、現在の太平洋の軍事覇権国・米国との間で、その権力バランス移行の期間を通じて、日本が両国とも独立的でバランスの取れた関係を保ち、両国の葛藤がアジアの平和を脅かすことを防ぐ役割を果たす条件として、最低の核抑止力保持が必要だと主張する人も、出てきてよさそうに思うのだが。
人的交流で深まった米国文化の浸透
そうした発想は、日米親睦体制が国の中核部分にまで浸透している現代の日本では、とうてい出てきそうにない、ということだろうか。私が神戸に上陸したあの日からこの半世紀の最も顕著な、そして長期的影響を持つ変化は、日本の米国文化圏への編入だと思う。私は神戸に着いたあの日から、サンフランシスコ対日講和条約締結の51年9月まで、1年半日本に滞在したのだが、占領時代の日本人の米国文化との接触はかなり皮相的なものだった。
流行歌だとか、恋愛結婚を出発点とする男女平等の結婚生活など、マスコミが掲げていた近代的な「文化生活」は、確かに米国をモデルとしていた。憲法も、米国の18世紀的自由主義に、ニューディール型社会主義を加味した価値観に沿って改正され、社会科など、米国の教育哲学が多少教育課程を変える効果もあった。
しかし、外国生活を経験した大学の先生、官僚、経営者たちには──特に大学の先生には──米国よりヨーロッパ帰りの人が多かったし、高等学校で英語でなくドイツ語を第一外国語とする人も多かった。「近代化の本質」とか「主体性の確立」などについて、大学の先生たちや我々学生が、夜を徹し目の色を変えて論じ合ったのは、ウェーバーはどうの、カントはこうのといったような、ヨーロッパの偉人を権威とする問題だった。米国は権力のシンボルだったためでもあろうが、私は白人の顔をして英語をしゃべりながらも、米国人ではなく英国人であったことで珍しがられ、よけい歓迎されて、大いに得をした。
日本の知的風土をより基本的に変えたのは、占領ではなく、援助留学や生産性本部使節団で始まり、最近の洪水のような大学・ビジネススクール留学に至る、米国留学である。特に日本の経済・政治を変えたのは、米国の経済学大学院で修士号や博士号を取り、官僚や一流大学教授、政府審議会の有力メンバーになった人たちである。
労使関係における「1955年体制」
滅私奉公的な1人の会社員の人間像を描いたくだりはあるし、戦後のヤミ物資で大儲けした戦争成金で、豪奢な家に住んでいた中小企業オーナーのひどい人の使い方を、彼の運転手が克明に話したインタヴューの記録もある。私の問題意識は何かといえば、当時の日本の殺伐とした敵対的労使関係が進化して、英国労働党のような、組合と政党を合わせた社会民主主義勢力が日本でもやがては政権を取るか否かということくらいであった。
私ばかりではないと思う。日本人でも、都市化が進むにしたがって、農村を拠点とする自民党が必然的に票を失い、いずれ社会党に政権を譲るようになると思った人が多かった。
60年代になってもそうだった。65~66年ごろだったか、ロンドンの研究会で──三菱商事の現会長である槇原稔さんがその研究会の幹事だったが──英国と日本の階級と政治の比較についてペーパーを発表したことを覚えている。やや「左翼的」と言われていた石田博英労相がたまたまロンドンに来ていて、槇原さんがその研究会に連れてきた。石田さんはまさに都市化の影響と自民党の将来を心配する人の1人で、すごく興味を示し、そのペーパーを日本語にして出したいと言った。自民党からドーア著のパンフレットが出たといえば、「まさか」と言う人が多いだろうが、出たのは事実だ。
「1955年体制」と言えば、主として政治のことで、保守合同、社会党の再統一、つまり2大政党制でなく1.5大政党制の確立をさすのが普通だが、労使関係面での「1955年体制」も同じく重要な意味を持っていると思う。
学者では元一橋大学学長で中央労働委員会委員長も務めた中山伊知郎、財界では日本興業銀行の中山素平、組合では総評の太田薫など、優れた交渉力に加えて、「公益」というか、個々の利害を超えた社会の望むべきありかたについてヴィジョンを持っていた人たちがいたお陰で、新しい労使関係体制が55年を頂点として、50年代を通じて作られていった。55年には官労使の協力の場としての日本生産性本部が作られたし、「春闘」の制度化が緒について、賃金上昇をある程度までマクロ経済政策と整合させる効果を奏するようになっていた。同時にたいていの大企業において、54年の日産自動車、60年の三井三池炭鉱の長期ストをヤマ場として、だんだんと、根っからの敵対的労使関係から、一歩距離を置いた協調的労使関係に移っていった。
「日本的経営システム」をめぐる3つの解釈
私が初めて工場調査による労使関係の研究を始めた65年には、もうすでにかなり安定したシステムとなっていた。J・アベグレン氏の『日本の工場』という本のお陰で、私が研究を始める5~6年前から、「終身雇用」という日本語の新語が普通の用語となり、日本の長期雇用制度が、企業別組合と年功序列賃金制とともに(後になって三種の神器といわれたが)、日本の特徴であるということが常識となっていた。
しかしその「特徴」には大まかに3種類の解釈がついた。アベグレン氏はおおむねそれは、日本の文化的伝統を近代産業社会に対応するように焼き直した、割に安定した「日本独特」のものだとした。それに対して、当時の多くの日本の学者は、むしろ、まだ近代化しきれない封建的・家父長的遺制の表れにすぎず、過渡的な特徴だと規定した。彼らは、いずれは流動的な労働市場や、より「他人的」雇用関係、企業を超越する産別組合という「欧米型」システムへ進化することが必然的でもあり、望むべきことでもあると主張した(総評も主として──封建的でなく近代的な──階級意識の涵養の観点から、ほとんど最後まで「企業別組合からの脱皮」を唱えていた)。
私の第3の解釈は(73年に出た『イギリスの工場・日本の工場』においてだが)、後発工業化を遂げた日本が運良くたどりついた、高度技術社会にうまく合うシステムではないかということだった。伝統的な要素に起因する面もかなりあるのだが、高度技術・大組織・学歴選別などを特徴とする社会には、労使の密接な協調も、個人の安定的雇用も要求される。欧米もそれらの要求に応じて、ゆくゆくは日本と同じようなシステムに近寄っていくであろうと論じた。
伝統文化論、不完全近代化論、高度技術・大組織対応論。今から振り返ってみて、どれが正しかったか。フランス革命の歴史的意義はどうかと周恩来が聞かれて、「まだ決定的な判断を下す時期が来ていない」と答えたそうだが、いわゆる「日本的経営システム」の評価も然り。
バブル最盛期の90年ごろには、圧倒的に「伝統文化説」あるいは「伝統文化説=日本人優等生説」の天下となっていた。しかし97年以降の常識、および制度的・法制的動向を見れば、「不完全近代化論」者の明らかな勝利である。そのレトリックは、自己責任、透明性、労働市場の柔軟性、悪平等の是正、株主重視、くたばれ終身雇用、くたばれ年功序列制、くたばれ持ち合い株一点張りで、直接金融、IR(インベスター・リレーションズ)活動、ストック・オプション、社外重役、業績給、裁量労働などの導入をしたり、CEOだのCOOだのと重役たちの名称を変えたりしない企業は、企業の数に入らない、時代遅れの企業だとされている。
最近の企業変革は実質というより「はやり」
一方、特に経済産業省や財務省では、米国のビジネススクールや大学院経済学科から帰ってきた若手官僚が主導権をとって、米国をモデルとした委員会等設置会社制の選択を与える商法改正や、M&A専門家が要求する、企業資産評価の便宜を図る時価会計制度の導入など、制度の改革が進んでいる。
否、ある程度まで進んでいる。労働市場の流動化となると、政府総合規制改革会議(宮内義彦議長)を拠点とする改革論者が、リストラをより徹底させられるよう解雇権強化のための労働基準法改正を求めたら、厚生労働省は、「時期尚早」とする経団連の同意も得て、結局判例をほとんど修正しない安定雇用保護の基準法改正に終わらせてしまった。また、取締役会を縮小して、執行役員会を置いたり、社外重役を2~3人入れたり、社長をCEOなどに変身させたりしている多くの企業は、いわゆる「はやり」でやっているのが多く、実質的な変化はない。
50年代の日本では、政治家や経営者の演説によく「時勢に従って何々しなければ」という文句が聞かれた。最近はあまり聞かなくなった。ただ羊のように群衆の一員として行動することは、美徳でなくなったのだろう。しかし、何が美徳であるという建前はどうあろうと、行動面での変化があるかと言えば、やはり単なる「時勢に従う」コーポレート・ガバナンス改革にすぎないところが大部分だと思う。
ということは、米国の文化圏編入の話に戻るのだが、よく言われるような「グローバル化された金融市場において資金調達をするための、グローバル・スタンダードに合わせようとする必要な改革」ではなく、もっぱら自信喪失日本が米国を仰ぎみる、思想面の変化が起こっているようだ。
1つだけ、実質的で、長期的には大きな影響を持つ変化は、経営目標における優先順位のそれである。「株価維持」は相当順位が上がったようだ。コーポレート・ガバナンスの制度を変えても変えなくてもそうだと思う。
昔は、安定株主を定期的に集めて将来の展望を説明しておけば、株式市場で浮動株の売買によって(山師的な工作の結果も含めて)、株価が上がったり下がったりすることはどうでもいいという態度で、実質的な経営に専念することができた。今は、アナリストたちが来四半期、来年度の業績予測を要求するし、アナリストに公表しないことを安定株主だけに明かすことは、少数株主の権利を踏みにじることとして違法になったし、外資系株主が多くなって、社長が毎年1~2回ウォール街参りをしなければならないし、時価プラス20%で株を買おうとする敵対的買収者が現れると、喜んで売ってしまう株主が大半になった。そういう環境の変化および対応の変化はほとんどの会社に見られる。
しかも、敵対的買収の防止のための株価維持ばかりではない。ひところに比べると、株式市場が日本経済の中心的「かなめ」となってきた。株価の動きが毎日のように経済紙のトップニュースとなる。株式市場で会社の株が下り坂になれば、人材の採用にも、製品市場にも響くようになった。
米国文化の中心原理を全面的に受け入れるのか?
それは客観的な環境変化であるに違いない。また、株価が永遠に右肩上がりだと信じる株主がキャピタルゲインで満足し、高い配当率を求めなかった時代が過ぎ去ったということも事実である。「企業は人なり」という日本的経営を保持・貫徹するのに、便宜上株主の利回りを上げなければならないというなら、私もうなずける。
しかし、それは、「会社は誰のものか」を出発点とする、所有権絶対優先の原理を主張するのとは、大いに違うと思う。奥田碩氏率いる日本経団連の諸報告書を読んでも、どちらの考えが支配的だかいまだに分からない。
後者の原則論は、日本やヨーロッパ大陸の国々が20世紀において経験したような革命や敗戦・改憲を経験せず、18世紀の法理思想をそのまま保存した米国文化の中心的原理である。敵対的企業買収と傍若無人なリストラを正当化する原理でもある。
と同時に、日本の富裕層の階級的利益を体現する主張でもある。現在、例の、1400兆円の個人金融資産の半分近くを国民の1割のエリートが持っている。彼らがますます──財産相続というより、文化水準相続、頭脳・学力相続などによって──世襲的なエリートとなりつつある。
それを考えれば、米国文化圏への日本の編入を完成させるような、その思想の全面的受け入れは、極端な貧富の差を避けてきた準共同体的企業を特徴とする準共同体的な日本の社会の、大きな、私に言わせれば悲劇的な、変化を意味しよう。
2004年2月9日号 『週刊エコノミスト』創刊80周年記念 臨時増刊に掲載