「遅咲き」に寛容な社会へ

CURTIS, Gerald
RIETIファカルティフェロー

英語で、遅咲き(late bloomer)という表現がある。「遅く咲く花」の意だが、自分の人生で何をやりたいのかを決めるのが遅い人を指す。米国の強みは一般的に、教育制度や企業など、社会がこの「遅咲き」を歓迎していることだ。日本が直面している重大な挑戦は、自分のやりたいことをまだ決めていない、あるいは職業を変えてみたいと思う若者に対して、もっと寛容な社会になるかどうか、ということだ。

米国の大半の大学生は、入学当初、専攻を決めてはいない。まず2年間、一般教養科目の勉強で過ごし、色んな刺激を受けた上で、3年生で専攻を決める。専攻を変えるとか、大学院で大学の専攻と異なる勉強をするのも珍しくない。大学に願書を出した時点で専攻を決めて、専攻分野を変えることが困難な日本とは、大きく異なる。

さらに米国では大卒後、すぐに就職しないで、しばらく好きなことをやるのがごく普通だ。人によって、1年間旅をする。ずっと憧れていた町でしばらくアルバイトする。あるいは日本の片田舎で英語を教えることかもしれない。重要なのは冒険であり、今までと違う経験をすることで、自分の地平を広げる。こうした人は、米国の大学院の入学審査委員会や大企業からみれば、大学を卒業したばかりの子供よりも人生経験があるから魅力的だ。対照的に日本の場合、大卒後すぐに安定した職業に就いていない若者は「ふらふらしている」、頼りにならないとみなされがちである。

ところが90年代の「失われた10年」以降、日本の若者に大きな価値観の変化が起きて、社会のプレッシャーに耐え、時間をかけても自分の歩みたい道を探すとか、合わないと思えば社を辞め、やり直そうとする青年は確かに増えている。彼らがフリーターである必要はない。必要なのは、「遅咲き」となる機会を与えることだ。

そうした行動を歓迎しない教育制度や経済界の慣行に失望し、ある若者は、フリーターになり、ある若者は夢を追求するため日本を飛び出す。多くの国と異なり、日本は近代化の過程において、深刻な頭脳流出が起きなかった。日本へ帰れば、社会に貢献し、意義ある人生を送れると、留学生のほとんどは帰国した。皮肉にも、先進国となった今、頭脳流出の深刻な事態に初めて直面している。こうした若者の活力や創造性を活用できないとなれば、日本にとってコストは計り知れない。

高等教育改革は日本の大きなテーマで、米国流の大学院システムを導入するのも1つの試みだ。国立大学の独立行政法人化や文部科学省の大学への新しい交付金制度である「21世紀COEプログラム」は、競争を促進して、米国のようなシステムを目指すと導入された。しかし、米国の高等教育で最も肝要な点は、大学の組織形態ではなく、それを動かす価値体系である。それを無視して、「アメリカ的」なシステムを作っても、うまく行くはずはない。

日本は日本なりの伝統ややり方があり、何でも米国流がいいとは思わない。ただ、日本の若者を観察していると、米国の同世代と共通する価値観は多い。能力を伸ばしたい、リスクがあっても、意義あれば挑戦してみたい、人生の夢が変われば、新しい夢を追求したい、日米問わず、若者の願望だと思う。

米国は2度目、3度目のチャンスも人に与える社会だ。日本もそういう意味で若者にもっと寛容になるべきではないだろうか。日本で、「遅咲き」は非常に難しい。しかし、若い人たちに開花のチャンスを与えることが、どんな改革より重要だと思う。日本が、将来を担う若い世代のエネルギーや才能を活用するためには、それが不可欠と思うからだ。

2003年10月5日 東京新聞「時代を読む」に掲載

2003年10月8日掲載

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