「ライオンと鼠:日米規範文化比較論 -後編-」(2/5)
──さて、
と、私は切り出した。
──この前、デイヴィッドが提案しように、デイヴィッドと私は現代版『ライオンと鼠』の話をモラルをテーマとする寓話ではない寓話として書いた。でも、テーマが無いというわけじゃあない。では、現代日本若者版のこのテーマはなんだろうか?
みなしばらく考えている。あらかじめ、具体的な分析の観点を与えなかったので、結構難しい質問なのかも知れない。
──多分、
と、デイヴィッドがようやく言いだした。
──行動の原則のなさというか、行動に一貫したモラルの基準のないこと。なぜなら、ねずみもライオンも状況によって態度や行動がころころ変わるから。
──機会主義的(opportunistic) っていうことかな?
と、ジェフ。
──いや、それは違う。
と、マーク。
──機会主義(opportunism)っていうのは確かにモラルはなく計算高いけれど、それだけじゃなくて相手を裏切って得する時は裏切るし、そうでなければ、いかにも協力するって態度のことだから。
──イソップの話でいえば、状況で動物組にも鳥組にもつく、こうもりみたいなタイプ。
と、これはメアリー。
──じゃ、全然違うな。
と、ジェフ。
──それに、ねずみは確かに計算高いところもあるけれど、心も揺れ動いている。
と、今度はウェンディが言いだした。
──まあ打算もあるけれど、ちょっとは親切にしてもいいだろうと考えたり、でも、ロープが太いので労力を計算してまたやめようと思ったり、心が揺れ動く。温かい心でもなく、といって冷たい心でもなく。
──つまり、生ぬるい心 (lukewarm-hearted)。
と、ジェフ。
これは、ジェフの造語である。温かい心のという warm-hearted と冷たい心のという cold-hearted という言葉はあるが、生温いという意味の lukewarm に心をくっつけた言葉は無い。
──そう、ぴったりの表現、そしてそれはライオンも同じ。
と、ウェンディ。
──おまけに、ねずみは目立ち願望症 (wanna-be-conspicuous syndrome)。
と、ジェフ。
これもまたジェフの造語だ。ロックやプロスポーツなどのスターになりたいというスター願望症(wanna-be-a-star syndrome) のもじりだが夢も小さくなるとおかしみがある。これには私も幾人かの学生もつられて笑ってしまった。
──そうそう、それにライオンもねずみとはちょっと違うけど、やっぱり見かけ (appearance)を気にしている。
と、ウェンディ。
──私もそう思う。
と、幾人かがいう。
いいところまで来たので、私が一言解説を加えることにした。
──まあ、そうだね、私の意図するテーマもそんなところだ。自分が人にどう見えるかを気にする、というところは私の意図したライオンとねずみの共通点だ。でもね、前に「義理」の説明でやったような、人との義務的関係に気を使いながら振る舞う、という意味で見かけを重視するのとは、ここは違う。ここでは、ねずみもライオンも自分の見かけのスタイルを気にしている。ねずみは自分はかっこいいとか、ライオンは自分は恐くなく優しいとか、それぞれ人に与える自分のイメージを工夫するが、あまり実質がともなわない。
──つまり、いいスタイル願望症 (wanna-be-stylish syndrome)。
と、これまたジェフの造語だ。
──ドラマツルギーの世界
と、これはウェンディ。
「ドラマツルギー」とは社会学者のアーヴィング・ゴフマンの言いだした言葉で、日常生活の中で人があたかも俳優が舞台ドラマで演技するようにまわりの「観客」に与える自分の印象に気を配りながら行動することをいう。
──そう、ジェフもウェインディもいいところをついている。まあ、そんなところだ。
と、私。
──さて、ジロー、君は現代日本の若者の1人なんだけど、この話どう思う? 自分もこんなだと思うかい?
みな、ジローの方を、にやにやしながら見る。
──いや、これはちょっとひどいなと思う。自分だけじゃなくてみなこれよりもう少しはましだと思う。
──それは良かった。で、どういう点で?
──いやあ厳しいなあ。行動のモラルの点でいえば、恩返しとか古い共通モラルの影響が薄らいでそれに代わる新しい共通の行動のモラルがあるか、といわれれば、あまりはっきりしていないと思う。でも、僕らは、今スタイルという話がでたけれども、単に見かけだけでなく、買ったり、持ったり、身に付けたりする物については、結構情報を持ってるし、自分の目をこやす投資もしてるし、自分たちなりの価値基準がちゃんとあると思う。
この意見は、タイミングの良いものであった。じつは、私の作った『ライオンと鼠』の話だけで現代日本の価値観論をやろうというのは無茶なので、1つの資料を用意していたのだ。それはジャパン・エコーという英文の日本紹介雑誌にでた記事で、当時「新人類」と呼ばれた若者たちの行動や性格と、山崎正和が『柔らかい個人主義の誕生』で展開している議論を紹介しており、彼の理論については私も補足のメモを用意していた。
1980年代の半ばなのでもうかなり前になるが、山崎正和は日本では西洋的な「堅い個人主義」は発達していないが、消費の多様化や消費するものについての好みの基準を判断するグループの小集団化などを通じて、特に若者達の間に、「柔らかい個人主義」が発達していると強調していた。つまり自分や自分と趣好の似ている小集団の基準で良いと思うものなら他の「それをわからない連中」の意見は気にかけないというような、消費的価値観についての個人主義である。この理論は現代日本でも当てはまるように思えた。
この理論についての紹介の後、私は最後にこうたずねた。
──じゃあ、私の書いた現代日本若者版『ライオンと鼠』は古い日本版の『ライオンと鼠』と比べた時、現代版は明確な共通のモラルがなく古い話はそれがあるという違い、それ以外に何か対称的な違いはあるかな?
私は1つの答えを用意していたが、それを答えたのはエミリーだった。
──今、教授がいわれた明確な共通のモラルがあるかないかということと関係していますが、古い話ではねずみの恩返しを通じてライオンとねずみの間に友情と信頼関係が生まれました。でも現代版の話では、別に相互不信も生まれなかったけれど、信頼関係も生まれない。共通のモラルがないと相手が期待した通りには行動せず、それで結果的にライオンはねずみを許し、ねずみはライオンを助けたにもかかわらず、お互いに相手に恩恵を受けたと考えないことから来ると思います。
いつものエミリーらしい明快な答えだ。
──そうだね、エミリーの言う通りだ。でも一言付け加えると、先々週に異なる国のライオンとねずみが出会ったら、という例で説明したように、仮にお互いが一貫したモラルで行動しても、お互いの文化が違い言葉や態度の意味を正確に理解できないと誤解が生じ信頼関係は生まれない。でもこの問題は人々の多文化理解が進めばかなり克服できる。自分と違った価値観や文化を持つ人間でも一貫性のある人間はそれなりに信用できるからね。一方今日の「現代日本版」の例のように文化が同じで相手の言葉や態度の意味を理解していても、共通のモラルが薄れ、人々の態度が一貫せず、状況によって説明責任をはたさずにというか、相手に納得のいく説明もなしにころころ変わるようなら、お互いに信用はできなくなる。個人個人価値観は違っていても、人に信頼を得るには、やはり態度に何らかの一貫性のあることが重要だ。
しかし、この問題をこれで終わらせるわけには行かなかった。信頼の形成に関しては文化の理解や態度の一貫性といった話だけで収めてしまっては片手落ちともいうべき近年の理論や分析の蓄積がある。それを簡単に説明するのはひどく難しい仕事に思われた。といって「すっぽかす」わけにはいかない。
──でもね。話はちょっと矛盾するようだけれど、いま仮に人々が状況に応じて計算高く行動すると、信頼関係を築くには、契約を結んで約束を守りまた守らせる、といった方法しかないのか、というと必ずしもそうではないんだ。
私は損得勘定で行為を選択する「合理的」人々の間の信頼の形成の問題が近年社会科学で理論的に極めて重要になってきていること、またその理由のひとつに経済学で発展したゲームの理論で囚人のジレンマの問題と呼ばれる状況での人々の行為の選択の理論や心理実験分析があり、2つめに社会学が「社会資本」と呼ぶ人的関係がもたらす恩恵についての理論や実証分析があると述べ、具体的例として2つの研究を紹介した。
1つは国際的に活躍している社会心理学者山岸俊男の『安心社会から信頼社会へ』と題した最近の本の内容で、進化ゲームという理論の流れに沿っている。彼は従来の日本社会は、人々の間の取引関係や雇用関係などの経済社会的交換関係が比較的長期であったため、短期的な利益のために関係者を裏切ったりしないという状況が生まれる「安心社会」であったが、近年は長期的関係が少ない者の間の経済関係や社会関係が増してきたので、社会的結びつきの弱い者どうしでも信頼関係を作れるような西洋型の「信頼社会」への移行が重要である、と論じていた。また「信頼社会」の実現には一般的な他者への信頼感が重要で、その育成基盤となるのは相手を信頼できるかできないかを見わける「社会的インテリジェンス」といった資質であるという理論を展開していた。
紹介したもう1つの研究は、かつて共に当大学の大学院生として私からも学んだケン・フランクとジェフ・ヤスモトの社会的ネットワークと社会的行為の関係の研究である。彼らは密度の濃いネットワークで他者を通じて間接的に結びついているもの同士は、当人同士に直接結びつきが無くても互いに害をなすことは少ないという社会資本に関する理論の応用を、フランスの金融ビジネスエリートたちのネットワークと、彼らの間での「相手に害を与える行為」の有無、のデータを用いて実証し、社会学の主要誌AJSで発表していた。
それらを紹介した後、私は要点をまとめた。
──と、いうわけで、信頼関係の形成の基盤には、ライオンとねずみの話で議論した文化の理解や共有のモラルの存在といった文化的要因のほかにも、社会構造的要因がある。社会構造的要因というのは、たとえば組織の一員であることを通じて相手との長期的な関係があったり、また密なネットワークで間接的に相手と強く結びついていると、個人的には親しくない相手にも裏切られることはまずないという、山岸のいう「安心な状況」があって、そういう状況では、仮に計算高い「合理的人間」の間でも、信頼関係は生まれやすい。でも問題は、山岸のいうように、最近の日本ではこの社会構造的信頼の基盤が崩れつつあるということなのだけれど。
話はやや難しく、みなが理解したかどうか自信がなかった。しかしここでデイヴィッドが良い「明確化質問」をしてくれた。
──センセイ、信頼の社会ネットワーク的な構造要因というのは、日本の現代版『ライオンと鼠』の話で例えるなら、ライオンとねずみが友でなくても、たとえば狐がライオンとねずみの共通の友だったら、ねずみが過ちを犯したときにねずみを許すよう狐がライオンに働きかけたり、ライオンが罠に捕らえられた時にライオンを助けるよう狐がねずみに働きかけるので、ともに良い結果を生むということですか?
──デイヴィッド。それはものすごく良い質問だよ。でもフランクとヤスモトの主張はちょっと違うんだ。彼らの主張によれば実際に狐が仲介者として働きかける必要は無い。もしライオンがねずみは自分の友である狐の友だと知っていれば、ねずみを殺したりすれば狐に非難されるだろうと思ってねずみを許し、ねずみもライオンは自分の友である狐の友だと知っていれば、罠にかかっているライオンを見殺しにすれば狐に非難されるだろうと思ってライオンを助けるってことになりやすい、という主張なんだ。まして、狐だけでなく、もし熊もアライグマもみな共通の友達なら、ライオンとねずみがお互いに相手に害をなせば、共通の友達みなから非難されそれは損だ、だから当事者どうしは友人でなくてもますます相手にひどいことはできなくなるいう理屈だ。まあ、だから彼らの理論を応用すれば「持つべきものは多くの友を持つ友である」ってことかな。
デイヴィッドの質問のおかげで私も具体的説明が出来た。抽象的でわかりにくい社会資本の話であったが、これでみな少しはリアリティを持ってくれたようだった。
──さて、では、現代日本の若者版『ライオンと鼠』について、古い日本版と比べて何か他の違いで、気がついたことはあるかな?
私はもとの質問に戻った。予期していなかったが、1つの答えがあった。
──現代版の話の日本のライオンとねずみは、より対等というか、完全にとはいえないけれど、古い話に比べれば、はるかにより平等な関係になっています。
こういったのはメアリーだった。私はちょっと驚いた。書いた本人が意図していなかったからだ。
──そうだね。メアリーの言う通りだ。自分じゃ意識してなかったけれど、そうなっている。まあ、この話は私が書いたものだからこれが現実だとはいわないけれど、地位や年令の違う者の交わりの仕方など、組織のなかで上下関係にあれば別かもしれないが、現代日本の方がより対等な交わりをするようになっていると思う。このことについての研究があるかどうか、多分英語文献には無いと思うけれど、一応調べてみてあったらクラスで紹介することにする。
現代日本版の『ライオンと鼠』に関した議論はそれで終りだった。
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