政治と宗教的原理主義の結びつきはなぜ危険なのか

山口 一男
客員研究員

多くの代議士と 世界平和統一家庭連合(旧・統一教会、以下、統一教会)関連組織との親しい関係が社会問題になっている。何が問題なのか私見を述べたい。まず本題とまったく離れた話題から始めることをご容赦願いたい。『精霊の守り人』シリーズの英訳で2014年に国際アンデルセン賞を獲得し、昨年2021年には『獣の奏者』シリーズの英訳で全米図書協会プリンツ賞も受賞した上橋菜穂子氏の作品の話である。実はもう1つの長編『鹿の王』も近々英文訳が出版予定だが、日本で本屋大賞および日本医療小説大賞を受賞したこの本が私の「一押し」本である。私が多様な人々の存在に価値を置くValuing Diversityの考えの推奨者であることをご存じの方もいると思うが、青少年・少女がこの価値観を学ぶのに最も良い日本人の文学作品は何かと問われたならば、私はまず上橋菜穂子の『鹿の王』、つづいて宮部みゆきの『ブレイブ・ストーリー』、そして最後に手前みそになるが拙著『ダイバーシティ―生きる力を学ぶ物語』を推奨することにしている。

さて、この『鹿の王』には外伝がある。2019年出版の『鹿の王:水底の橋』である。前作のように「血沸き肉躍る」作品ではないが、医療倫理という重厚なテーマを、ファンタジー物語の中に持ち込んだユニークな作品である。物語では、3つの異なる医療倫理が登場人物たちによって体現される。かつては王国(オタワル王国)であったが、現在は被征服民であり、辛うじて高度な科学技術、特に医療技術、故に存続が認められているオタワル民族の貴族の末裔であり、優秀な医術師でもある「ホッサル」、その助手かつ個人的パートナーでもあるオタワル平民の「ミラル」、そして征服民族である東乎瑠(ツオル)帝国の医術師団である「精心教徒」たちである。精心教は医療倫理であるとともに、東乎瑠帝国の国教でもある。

医療倫理についてはホッサルとミラルは医療に関する科学的合理主義、および患者の治療を最優先という専門職倫理を共有している。しかし物語が進むにつれ2人に微妙な違いが表れる。あくまで身体的治療を優先するホッサルに対し、治療を受ける患者の心の安寧を同時に重んじるミラルという違いである。ミラルの患者の心に寄り添う在り方は英語でいうEmpathyである。これは日本語でいう「思いやり」とは異なる。「思いやり」は比較的身近にいる、気心の知れた(文化的背景を共有する)他者への配慮である。一方ミラルが示すのは、生まれも育ちも、文化的背景も異なる患者に対する、彼らの価値観への配慮である。患者が誰であれ合理的医療を優先するホッサルの考えは普遍性を持つ。一方個々の民族文化に根差した個別の価値観は普遍性を持たない。だが、ミラルの自分と異なるさまざまな患者の価値観に配慮しながら、合理的治療をも妥協しない道を選ぶ、という在り方も普遍性を持つ。Valuing Diversityが普遍性を持つといわれるゆえんである。ミラルの態度・行動が、対立する人々の誰からも信頼を獲得する生き方であることを示すことがこの物語の主題の1つである。

一方征服民族側の精心教徒たちの価値観だが、物語は彼らの中にも多様性があり、異文化のホッサルやミラルに敵意を抱く教条主義的「津雅那(つがな)」から、逆に好意を持つ「真那(まな)」まで多様な人物が描かれているのだが、患者の心の安寧を考えるという点では精心教徒の倫理は一見ミラルの価値観に似ている。大きな違いは、権力者である津雅那に代表されるように、宗教的イデオロギーを医療の上でも最優先し、それに反するものは合理的な医術でも、拒絶・排除することである。例えば、ホッサルが有効性を証明した動物を利用した血清なども、人の身体と心を穢すものとして拒絶し、そのような医術を利用した精心教医術師を弾圧する。「人の心が大事」という名目の下に、特定の宗教的美意識を人々に強制するのである。それは宗教が世俗的社会の支配・権力を目指すとき、宗教的価値観による社会秩序の達成が最も有効だからである。結果として、その価値観に沿わないものは、合理主義であれ、人命尊重であれ、否定し攻撃することを津雅那は厭わない。

さて、「まえおき」が長くなったが、現在米国で「堕胎の禁止」問題が再燃している。以前のRIETIコラムで述べたように2代目ブッシュ政権以降、前トランプ政権に至るまで、共和党支持者の中にプロテスタントの原理主義であるファンダメンタリストが多くなり、共和党政権もそれにおもねるようになった。ファンダメンタリストは、理由のいかんを問わず堕胎の禁止を主張し、ダーウィンの進化論を聖書に反すると学校で教えることに反対し、同性愛者を弾圧・排除しようとする。その結果彼らの宗教的教条に反する合理主義や科学的観点は否定され、基本的人権も損なわれることになる。強姦により妊娠した少女の堕胎すら否定するのである。当然同様な反合理主義や人権侵害問題はイスラム原理主義を奉じる国々にも見られる。だが民主主義国での問題は、政治的ポピュリズムと宗教的原理主義とは意外に結び付きやすいことだ。政治的ポピュリズムも世俗的権力を志向する宗教的原理主義も共に政策や行動の合理的実効性よりも、人々に一時的な心理的満足を与えることによって支持を得、それにより権力を獲得・維持することを優先するからである。

統一教会は、自認するように、キリスト教原理主義から派生した韓国の新興宗教である。その特性は韓国であれ、米国であれ、日本であれ、政治と密着し、一定の政治的勢力、特に反共勢力、と提携しながら、草の根運動でその宗教的価値観を広め、宗教団体としての拡大・存続を目指してきたことにある。日本の政治家は、この宗教組織を利用しても利用されていないと主張するが、それはあり得ない。有力な政治家がお墨付きを与えることで、信者たちにこの宗教団体にいわば見かけ上の権威を与えてきたからである。それだけではない、共働き世代が中心の現代では合理的な、そして現在国民の多数が支持するに至っている、選択的別姓も一部の与党代議士の「別姓は家庭を滅ぼす」などという理由による強い反対で何度もつぶされてきたが、その不合理な考えは統一教会の思想でもある。また児童虐待の大多数は親による虐待であるという重要な事実を無視し、予定された「子ども庁」を「子ども家庭庁」に変更して、子供の救済には親の役割を重視すべきというイデオロギーを行政に持ち込んだのも、統一教会と親しい代議士たちの影響があると考えられる。

今現在、統一教会関連組織は、信者の心理を悪用した詐欺的商法が問題となっている。だが政治との関係でいえば筆者はより大きな問題は、宗教的原理主義が政治に影響することで、合理主義も、人権尊重も損なわれるということである。筆者は個人の自由と人権が守られる社会が、豊かでかつ幸せな国を生み出す第一条件と考えている。他方一定の宗教的原理主義で個人の自由を制限し、その宗教的価値観に基づく集団主義的社会秩序を、政治と宗教の結託によって作りだすことは、それとは正反対の不合理な価値観が支配し人権が損なわれる社会への道と思える。

2022年9月6日掲載

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