下記の文は2022年刊行予定の『EBPM エビデンスに基づく政策立案の導入と実践(仮題)』(大竹文雄・内山融・小林庸平編著)の巻頭言として書いたものである。
EBPM(エビデンスに基づいた政策立案)の原型はEBM(エビデンスに基づいた医療)だとされる。医療同様、政策立案についても、実効性が検証されていないのに、専門家の間でプラクティスとして根付いたものが数多くあるため、実証的根拠を重視することで、より有効に目的を達成しようとする考えに基づく。本書は過去5年間、そのうち最初の4年は私が主査として、経済産業研究所で学・官・民の協働で進めてきたEBPM研究会の成果の一部を報告している。本書が日本の政治・行政における政策立案のいわば「近代化」に寄与することを願う。
私見ではあるが、私はEBPMの源流はマックス・ウェーバーの合理性概念にあると考える。ウェーバー理論に関しては『経済と社会』で導入した「目的合理性」と「価値合理性」の区別がよく知られているが、関連したより重要な対の概念に「形式合理性」と「実質合理性」の区別がある。「目的合理性」は与えられた目的達成のために取られる手段が合理的であることをいい、「価値合理性」は目的や行為が価値観と整合しているか否かをいう。「形式合理性」は、いわば「目的合理性」の精緻化で、合理性の基準として計算に基づく効率性の高さを手段に要求する。一方「実質合理性」の方は「価値合理性」とはやや異なり、目的設定など意思決定が理性的な判断上合理性を有するか否かを意味する。ウェーバーは社会の近代化を「形式合理性」の貫徹で特徴づけた。一方「実質合理性」については、望ましいものではあるが、近代化に必ず伴ってきたとはいえないと考えていた。ウェーバーの「形式合理性」の概念は、社会科学では新古典派経済学にその具体的形式化を見ることができる。即ち行為者が効用の最大化をするという仮定は「形式合理性」の具体化である。一方効用自体への制約は少なく、例えばギャンブル志向を説明する強いリスク選好や、薬物中毒を説明するベッカーの「消費資本」理論や、責任の先延ばしや肥満を説明する将来の利得の双曲割引モデルなど、ウェーバー的には「実質合理性」を欠いた効用に基づく行動も効用最大化と矛盾せず説明できるようになっている。この点経済学は形式合理性のみで、実質合理性は条件としない学問といえる。EBPMはいうまでもなく政策目的が与えられた時に、取られる政策手段が有効であるか否かの評価に関係している。その意味でウェーバーのいう政治・行政における「形式合理性」の貫徹に寄与する。だがその形式的な基盤がランダム化比較実験や統計的因果推論である点が重要な特性である。これらの方法は、政策の有効性を検査し保障するが、手段が最適であるかどうかまでは分からない。形式合理性としてはむしろ効率性より有効性の信頼度を重視しているといえる。
わが国で戦後ウェーバーの「目的合理性」の概念の重要性を指摘したのはウェーバー学者でもあった経済史学者の大塚久雄である。それは戦後の日本の近代化論争の一部をなす。大塚や政治学者の丸山真男に共通していたのは日本が明治以降、「和魂洋才」の考えの下に産業技術などにとどまらず国会、軍、郵便などの制度にも積極的に西洋の制度を取り入れながら、いくつかの戦争を経て、最終的に日本独特の精神主義である丸山のいう「超国家主義の論理と心理」に浸り、無謀と思えた太平洋戦争に突入して行った原因の1つに、日本の精神面での近代化の遅れを意識していたことである。大塚はウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で指摘したような労働者の勤勉性が日本の資本主義の発展にも寄与したと考えるものの、日本の労働者に「自発性」がなく、「目的合理性」の考えが身に付いていなかったことが多くの不合理な判断を生むことになったと考えた。一方丸山真男は日本が戦後制度的には民主主義国家になりながら、日本人の間に「民主主義的エートス」が育っていないことをもって日本の民主主義の脆弱さと見た。具体的には『個人析出のさまざまなパターン』と題した論文において、個人の行動が「結社形成的かつ遠心的」である場合に民主主義的エートスが育つと見た。「結社形成的」とは政党や組合など各種結社への人々の参画志向をいい、「遠心的」とは、人が政治や社会のことも個人の身近なことへの影響といったミクロな狭い問題に還元してしまう傾向(丸山はこれを「求心的」と呼んだ)とは正反対に個人の身近な問題を政治や社会的不平等といったマクロな社会の問題に拡大して考える傾向をいう。ウェーバー的な解釈をすれば、丸山真男は「実質合理性」の基準に、個人の精神面での民主主義の基盤を考えていたといえる。
近代化を精神や思想の問題と関連付ける考えは、ウェーバーにとどまらず、第二次世界大戦後の米国の社会学者の主な関心事でもあった。例えば社会学理論家のタルコット・パーソンズは、普遍主義(対個別主義)、達成重視(対属性・出自重視)、個人志向(対集団志向)、情緒的中立性(対情緒性)、(人間関係の)機能的特化(対機能的拡散)を近代化と結び付けた。丸山真男も『日本の思想』の中で、『「である」ことと「する」こと』と題したエッセイで達成重視と属性重視の考えの対比について独自の洞察を示している。
一方実証的な見地から、近代化を「新しい経験に対する開放性」や「自己効力感」といった「近代的パーソナリティ」と結び付いていると主張する社会学者のアレックス・インケルスの国際的パーソナリティ比較研究も1970年代に現れた。だがこの「近代的パーソナリティ」は、その後米国国立衛生研究所(NIH)の研究者で社会心理学者のメルヴィン・コーンとカーミ・スクーラーによって、それらの「知的柔軟性」の特徴が、専門性や自律性の高い職業の達成と影響に強く結び付いていることが示され、近代化との関係は近代社会が専門職者中心の社会となったことを通した関係であることが示唆された。面白いことに最近学習や学歴達成に役立つという理由で、経済学で話題になっている「非認知能力」の要素はこれらの近代的パーソナリティの研究で抽出されたものと重なりが大きい。
丸山真男は大塚久雄と並び精神の近代化を問題にしたが、『日本の思想』において、戦後の日本の知識人の典型的な思考形態として「実感信仰」と「理論信仰」を共に批判しているのがEBPMの推進理由と一致するので面白い。「実感信仰」は当時の日本の保守主義思想家に向けられたもので、いわば自己や身近な人間の経験知を絶対化する考えである。もちろん、目的合理性を持つ道が見えないとき、自分以外の多様な人間の経験知も生かせるならば、経験知に基づく選択は多くの場合近似的に合理的になる。例えば囲碁における「定石」は人間の経験知の集大成だが、定石破りの手で囲碁のプロに勝つ「アルファ碁」の手は、人間にはできない機械学習による「経験知」も取り入れた意思決定に基づくといえる。ただ「実感信仰」というのは比較的狭い社会の成功体験を絶対化する傾向をいう。医療や政治の世界で、実効性の疑わしい治療や政策のプラクティスの問題がEBMやEBPMの必要性の理由だが、プラクティスの多くは成功体験の経験知に基づく。問題は成功体験が、因果関係か単なる偶然な幸運の結果にすぎないかが不明で、また偶然ではないにしても成功者が成功の原因と主観的に考えることが真の原因なのか多くの場合判明しないことである。因果関係に基づくとの実証の重要性はそこにある。
他方「理論信仰」の方は、丸山が当時の日本のマルクス主義者がマルクス理論を真理と見て、現象を理論的イデオロギーから解釈することを揶揄したものである。私は現代ではミクロ経済学の数理理論を、実証を経ず頭から信じ込んで政策の有効性・無効性を議論する一部の経済学者の傾向に同様の「理論信仰」を見る。ミクロ経済学では人が常に合理的選択をすると仮定する。だが近年行動科学や行動経済学が実証してきたのは、人々が常に合理的な選択をするという仮定は成り立たず、かといって行動はランダムでもなく、一定の規則性があるという事実である。EBPMは行動経済学的知見も取り入れて政策に対する実際の人々の行動への反応を正しく予測することで、政策の実効性を高めることを目的としており、その意味で経験知の絶対化である「実感信仰」も、事実と異なる仮定から導かれる理論に依拠する「理論信仰」も共に退ける合理的な第3の道を具体化したといえる。
このようにEBPMはウェーバーのいう「目的合理性」「形式合理性」の貫徹の一方法といえるが、その応用に関し、私は忘れてはならない点と強調したいのは「実質合理性」を併せ精査することである。EBMの方はこの点問題がない。患者により有効な治療を提供するためという目的が、国民のウェルビーイングを高めるという実質合理性を持つことは疑いがないからである。一方EBPMの方は必ずしもそうではない。例えば「少子化対策」として単に出生率を高めることを目的とするか、それとも「子育てが親の喜びとなり、子どもが大切に育てられる社会にする結果、出生率も高まる」ことを目的とするかでは、雲泥の差がある。国民のウェルビーイングを高めるのは間違いなく後者だが、前者の少子化対策には、女性を「子どもを産む機械」として効率活用しようとしていると批判し得るものもある。「実質合理性」の概念は、形式合理性に比べ、解釈に曖昧さが残る。だが、政策に関しては、パレート最適性の重視や功利主義哲学の祖のジェレミー・ベンサムの言である「最大多数の最大幸福」に見合うか否かの判断は、自由主義的民主主義の政策の「実質合理性」の基準として良い基準であると私は考えている。
国民の価値観が文化により変わることは自然であり許容すべき多様性である。だが私はウェーバーの考えた2つの合理性の基準は文化を超えて重要視されるべきだと考えている。また近年、大塚久雄や丸山真男ら戦後の「近代主義者」への評価が下がっているように思えるが、彼らが精神・価値観について、近代化における精神の合理性の問題として、日本社会の問題を独自に深く考えたことは高く評価すべきであると私は思う。