新春特別コラム:2023年の日本経済を読む~「新時代」はどうなる

「スキル=熟練」という呪縛―「リスキリング」が成功するには何が必要か

山口 一男
客員研究員

最近日本でもリスキリング(Re-skilling)という言葉をよく耳にするようになった。2018年のダボス会議(世界経済フォーラム年次会議)で導入された概念で、2020年のダボス会議ではさらに「リスキリング革命」という言葉も生み出された。いわゆる第四次産業革命の担い手となれる人材を再教育により生み出そうという試みをリスキリングという。岸田内閣の「新しい資本主義」でも、人材投資は最重要視される経済政策であり、経済産業省でも「第四次産業革命スキル習得講座認定制度」(注1)を5年ほど前から発足させている。

経済にとって、人材投資が経済成長の要の1つであり、物理的資源に乏しい日本では、人的資本の生産性の向上が最重要と筆者も繰り返し主張してきた。だが日本の現状はその反対方向に向かっている。経済産業省の令和4年の報告『未来人材ビジョン』(注2)によると「人材投資(OJT以外)」を行っている企業割合の国際比較において、日本は経済先進国中最小であるばかりか、割合は過去20年でさらに大きく減少しており、同時に「社外学習・自己啓発を行っていない人」の割合において、国際比較で最も高い。日本は「企業は人に投資せず、個人も学ばない」社会と報告は結論している。これでは第四次産業革命を起こすためのリスキリングはおろか、現状維持の人材投資も確保できない。日本はOJT以外の人材投資は元々極めて少なく、個人の自己投資も学校卒業以後ほとんどしない国で、現在はますますそうなっているのだが、なぜこのような社会になったのか?

ところで、IoTやAI技術の習得を「リスキリング」と呼ぶことに違和感を持つ日本人はかなりいるのではないだろうか。「スキル」という言葉は日本では主として熟練工の「熟練」を表す言葉として用いられてきたからだ。確かにスキルは英語では訓練や経験によって身に付く技術をいうが、ドイツの徒弟制度のような長期の経験で培う「熟練」を意味するわけではない。上記のリスキリングも比較的短期的教育・訓練により、新たな技術を使いこなせる人の速成を意味している。

だが日本では実践的知識は熟練により生まれるとの意識が社会の隅々にまで浸透し頑強で惰性的な数々の制度を生み出し、それが一方でイノベーティブな技術を生み出す人々の輩出を阻み、他方で経済・政治の停滞を生んでいると思える。人事経済学の創始者であるラジアの理論によると、日本の正規雇用などにみられる年功序列的賃金制度は、雇用の初期には労働者はその労働生産性より低い賃金を受け取り、後期には高い賃金を受け取る賃金後払い制度で、それは労働者に長期雇用のインセンティブを与える制度であると解釈される。とすると、短期雇用者である非正規雇用者の賃金は、賃金後払いが適応されないので、経済学的には全正規雇用者の平均賃金を少し下回る程度になるはずである。ただし労働生産性が、職場の人間関係など企業特殊な人的資本に依存せず、企業内経験とは独立の職務に関する専門性やスキルに依存し、この点で長期雇用者と短期雇用者の差は少ない状況での話である。だが実際には非正規雇用者の賃金は正規雇用者の初任給の平均に近い低い値になっている。これでは賃金後払いどころか、永遠の賃金搾取ともいえる。ではなぜそのような制度が容認されるのか? これは日本の組織が、長期的利害関係の共有による協力や意思決定に関する「根回し」の必要性など、企業内人間関係という企業特殊な人的資本に労働生産性が過度に依存する仕組みを作り上げた上に、企業にも労働者にも「スキル=熟練」の意識があり、短期雇用者は企業特殊な人的資本に欠ける上に、熟練にはなりえないと考えられているからだと思える。実際日本特有の「職能給」も企業内経歴を重視する熟練度の尺度といえる。だが日本のような熟練重視の社会では、潜在的には労働生産性の高い非正規労働者は、永遠にその能力を発揮するインセンティブを奪われることになる。これは不公平なだけでなく、経済的に不合理であり、特に女性人材の不活用の一因にもなっている。問題は熟練重視の日本企業は自社を離れても役に立つスキルへの人材投資のインセンティブがなく、また正規雇用者にも社内経験とは直接結び付かないスキルへの自己投資のインセンティブがないことだ。また非正規雇用者にも、自己投資でスキルを身に着けても正規雇用の道が見えてこない。日本が「企業が人に投資せず、個人も学ばない」社会なのは、現職とは独立に「学ばせること・学ぶこと」のインセンティブに欠ける社会だからだ。一方多くの他の国はそうではない。

シカゴ大学で筆者は社会人教育を行うグラハムスクールの理事を3年務めたが、かつては生涯教育などが目的であった社会人教育が現在は大きく変容し、修士課程などより短期間のコース履修で得られる「修了証書(Certificate)」を得るための、さまざまな専門技術分野のコースを提供するようになった。またそういったコースの大部分がオンラインで受講できるため、中国や欧州諸国を含む多くの海外の人の受講応募がある。それらの国ではもちろんシカゴ大学という肩書きもあるのだろうが、このような短期的リスキリングのコースの修了証書が就職上有利に働く労働市場があるからだと思われる。一方日本人の応募はほぼ皆無であった。これは英語のコースである問題以上に、費用を払ってコースを履修し修了証書を得ても、その自己投資に見合う職を得られる労働市場が日本にはないからだと思われる。

またシカゴ大学社会科学部の専門修士(specialized master’s degree)課程において現在の一番人気は「Computational Social Science」というコースである。2年プログラムのこのコースでは学生がいわゆるビッグデータを用い、AI技術を用いたデータ分析ソフトなどを用いて社会・経済分析をする技術を学び、修士論文では実際にそれを独自に応用する必要がある。その結果2年間学べば、高度のリスキリングの訓練を終えた学生を輩出でき、またそのようなコースへの人気があるのはコース修了者の高給専門職への就業機会が高いからである。つまり、これらの新たな技術を学ぶことについてのインセンティブと動機を持った学生たちが一方で存在し、他方でそういったスキルを身に着けた学生を高給で雇おうとする企業がある。またそういった二者のマッチングの結果イノベーションも多く生まれる。だが現在の「スキル=熟練」の日本社会では、そのような学生も企業も存在しえない。

「スキル=熟練」の呪縛は政界でも著しい。英米では行政に関係するさまざまな分野の専門職者や、行政改革を訴える市民活動家出身の政治家が多い。一方日本の国会議員、特に自民党議員、は大部分が(1)二世・三世議員(政治がいわば「家業」の者)、(2)元高級官僚、(3)県会議員出身者である。これらの人々はみな政治・行政の「熟練者」と見なされるからである。英米が専門性や革新的ビジョンを政治家としてのスキルの尺度に用いているのに対し、日本は熟練のみが適性の尺度である。代議士が大臣などの役職に就く機会も、何年国会議員をしているかに依存し、自民党への批判が野党支持に結び付かないのも、「政権の熟練者」である自民党にまかせておけば政治の実践的問題は解決するだろうと国民が思い込んでいる節がある。実際には過去30年日本は政治も経済も、進まないどころか、他国と比べ相対的に後退している。平均賃金や女性の活躍は他国と比べ相対的に後退し、報道の自由や情報公開は劣化した。だがそれでも国民の「熟練への信頼」は揺るぎそうにない。政治家の「世襲」に反対の人も多いが、大勢では「餅は餅屋」、「他に(経験のある)人がいない」などという理屈がまかり通る。だがそれは専門職としての望ましい政治家の在り方への大きな誤解ではないか。現状を改善する新たな政策立案能力に「伝統」で培った経験が役に立つとは考えられないからだ。

もちろん「熟練信仰」が、すべて悪いわけではない。例えば運動能力が仮に並かそれ以下でも中学や高校で特定の運動部に3年籍を置けば、その競技において、その運動部員以外の生徒と比べれば、格段にスキルが増す。バスケットボール部の万年補欠でも、クラスの体育の時間のバスケットボールの試合ではクラス1、2のポイントゲッターになれる。潜在能力的には並かそれ以下でも熟練すればはるかに並以上になれることが多いのが熟練の良い点である。 戦後の日本の経済成長期では、当時は大部分正規雇用で熟練化できた日本のブルーカラー労働者の生産性は欧米のそれを上回っていたのも、長期雇用により質の高いブルーカラー労働を生み出していたからである。今後ともそういう熟練が価値を持つ職業は、特にブルーカラーの職において存続するだろう。一方大卒者が目指す管理職や専門技術職では熟練重視ではイノベーションは起こりえず経済成長は望めない。しかしこの点世代によらず国民の意識は変わっていないようだ。2022年のリクルート「就職未来研究所」の『就職白書』(注3)によると、就職に際し大学生が企業にアピールした3大要因は「アルバイトの経験(51.4%)」「人柄(36.1%)」「所属クラブ・サークル(26.0%)」である。自分が大学や就業経験で何を学びまた何ができるか、更にその企業で何をしたいかの希望、などをアピールする米国の大学生と比べるとまったく別世界だが、日本の学生にとってはアルバイト経験や部活も、いわば熟練への準備期間として評価されると思うのであろう。さすがに同調査によると企業の学生のバイトや部活経験への評価は余り高くないのだが。熟練重視の一番の問題は熟練はイノベーションに結び付かないどころか、現状踏襲の惰性を生む点である。仮に現状への問題意識があったとしても、熟練者にできる改革は現状の延長線上にしかない。だが付加価値を生み出すイノベーションは通常現状の単なる延長線上にはない。

一方熟練を尊ぶのとはまったく別の世界で日本人は国際的に活躍している。最近では翻訳本が国際的な文学賞を受ける日本人作家、特に女性作家、の活躍が目覚ましい。多和田葉子はドイツのゲーテメダルや全米図書賞などを、柳美里は全米図書賞を、上橋菜穂子は国際アンデルセン賞に加えプリンツ賞を、宮部みゆきはバチェルダー賞を授与されている。小川洋子や川上未映子の作品も権威あるブッカー賞の最終候補に残った。これから日本人の文学の翻訳が進むにつれ一層の受賞が期待できる。日本人の科学部門のノーベル賞受賞が、どちらかというと日本の経済的低迷以前の仕事へのものが多いのと比べ、こちらは現在進行形である。芸術の分野とはいえ、日本人の創造力は潜在的には高いといえるのではないか。一方映画では最近はネットフリックスなどでも韓国映画に大きな差をつけられている。小説が個人技なのに対し、日本の映画は相変わらず組織中心なのが原因ではないかと思われる。そして組織となると日本は今でも熟練者中心社会なのである。個人が自由に活躍できることが創造性には欠かせないのだが。

リスキリングの成功を含めて、日本社会・経済が再び人材投資を経て活力が生まれるには、雇用者を「何を学んだか」「何ができるか」「何を生み出しうるか」に関するスキルの尺度を経験の長さとは独立に評価できる社会的仕組みを生み出し、報酬もそれにより決まる社会への移行が欠かせないと筆者は考える。これは単に専門職が活躍する社会というのではなく、専門性やスキルの経済価値が社会で共有され、報酬や社会的機会の面でそれが公平かつ合理的に反映される社会を意味する。さもなくば学校卒業後も、人々にその潜在能力を発揮するのに必要な新たな知識やスキルを自主的に学び続けるインセンティブを与えることはできない。一方、合理的人材活用も意思決定もできず、主として「熟練者」の意見や利害の調整のみに終始する上級・中級管理職者は、経済であれ政治であれ、退出してもらう必要があると考える。

2022年12月22日掲載

この著者の記事