山口一男の日本社会論

【オンライン社会学講座】イソップ物語で浮かび上がる現代日本とアメリカ

山口 一男
客員研究員

「ライオンと鼠:日米規範文化比較論 -前編-」(4/5)

  「恥の文化」には、それが作田啓一の主張したような内面的要素が維持されるならば、決して西洋の「罪の文化」に劣るとはいえない。私は、学生に対しその点についての説明を具体的にするべく、日本での警察の始末書の制度や関連する初犯の起訴率の低さなどについて述べ、またオーストラリアの気鋭の犯罪学者ジョン・ブレイスウェイトの理論について紹介した。

  ブレイスウェイトは恥の機能には2つの側面があると強調した。ひとつは犯罪者に犯罪者の刻印を貼り社会から締め出し犯罪者が犯罪者としてしか生きるほか道をなくしてしまう機能。もう一つは、その反対に、犯罪者がその罪に対する恥の意識を内面化することを助けることによって、いわば犯罪者が「恥を知る者」として更生することを助けることによって、彼らの社会復帰を促進させる機能。

ブレイスウェイトは後者の恥の機能は西洋で全く認識されていないが日本での犯罪者の更生倫理に見られ、この倫理とその制度化により日本は低い再犯率を達成している、と言う理論をぶちあげていた。その理論はアメリカの犯罪学者の間でもある程度注目を浴びていた。そういう説明をしているとき、今まで発言しなかったケヴィンが今日初めて質問した。

──教授、それらの例はみな刑事問題の話ですが、民事問題はどうなっているのですか? やはり同じ様な考え方が民事訴訟の結果にも反映されるのでしょうか?

  私は、日本では民事問題は訴訟に至ることが少なく、まず双方の和解をはかることを目的とするさまざまな公式非公式の制度があることを説明した後、こう述べた。

──でも、最終的に民事訴訟になって加害者の賠償責任が明らかになれば、当然相当する賠償額を支払うことになり、そこはアメリカと違わないと思うけれど。

──それは実際に与えた損害額の賠償だけですか?

──え?

  と、私は聞き返した。法律の専門家ではない私にはケヴィンの質問の意味が良くわかっていなかったのだ。

──それは、もちろん、そうだと思うけれど。

──もしそうなら、日本はアメリカと違います、こちらは州にもよるけれど、故意の加害行為には懲罰的損害賠償(punitive damages)を適用するのが普通ですから。

──懲罰的損害賠償?

──ええ、たとえば加害者が被害者に実際に与えた損害額が10万ドルだったら、裁判所が加害者に懲罰金の30万ドルを加算して40万ドルの支払いを命令したりすることです。

  と、ケヴィン。そこにマークが対話に参加してきた。

──さっき、教授もいいましたけれど、人が、それが悪いことでもその結果取るべき責任との損得勘定でするかどうか決める、という態度を仮定すると、その勘定の結果得だからという理由で人に故意に損害を与える者が出てくるわけです。だけど、懲罰金も加算されるのなら割に合わない、そう潜在的加害者に計算させて加害の発生を抑止しよう、そういう意図です。

──なーるほど。では私がさっき言ったように、ねずみに、また罰を受けるのが恐いから悪いことはやめよう、という意識を持たせる。そして効果的にそうさせるには罰を重くすればよい。そういう発想だね。

──はい、そうです。

  と、マーク。

  私はひとつの疑問をケヴィンにぶつけた。

──ふむ。でも、まあ加害者についてはそれでもいいとして、これはケヴィンに聞きたいんだけれど、被害者の方はどうなるのかな? 損害額だけでなく、追加の懲罰金ももらって、かえって金がもうかる、そういうことになるのかな?

──はい、そうです。まあ、弁護士にも大分持っていかれますが、民事訴訟で金をもうけることは十分可能です。それでまた訴訟が増えるんですが。

  民事訴訟が増えるアメリカの制度的要因はまだ他にもあった。たとえば成功報酬のみの弁護士費用の制度で、正式には「不確定料金 (contingency fee) 制」と呼ばれ、日本のように着手金や手数料や日当や諸雑費の実費などのほかに成功報酬金がある場合と異なって、弁護士が被害者に対し損害賠償の訴訟に負けたら一切弁護士費用を払わなくても良いが、勝った時は勝ち取った金額の40%程度の比較的高い割合を弁護士費用として支払うという契約条件で、原告として訴訟に持ち込むことを勧める制度である。民事訴訟ではそういったケースがほとんどであった。

──なんだか、その制度は弁護士達の陰謀の結果みたいな気もするなあ。できるだけ訴訟を多くさせて金もうけしようとの。

  思わず私はそうつぶやいたが、ジェフ以下そうだそうだと言った学生も多かった。

  デイヴィッドが発言した。

──センセイ、今の議論からも感じるんですが、アメリカ版の『ライオンと鼠』の話は、もう今のアメリカの社会の話とするには古すぎるんじゃないか、という気がします。トラブルの解決に弁護士が出てこない、というのもあまり考えられないし。まだほかにも、具体的にはうまくいえないけれど、古いなと感じる点があるんです。

  他の多くの学生も「同感だ」とう意志表示をした。

  デイヴィッドがそこだけ日本語で「センセイ」と言ったのは、彼を含めた極東言語文化研究学科の学生のうちの少数の特徴だ。

──なるほど。では、どう話を変えたらいいのかな?

  すぐに、応答はない。この質問自体具体性に乏しくすぐ返答を求めるのはむずかしそうだ。

──日本版の『ライオンと鼠』の話も古すぎると思う。

  と、今度はジローが言いだした。

──だって、恩返しなんて道徳、もう今は僕らはあまり気にかけない。

  ジロー達の世代では、そう感じるのは無理からぬことだった。

──では、ジロー、君なら日本版の『ライオンと鼠』を今風に書き変えるとしたら、どうするかな。 いや、今すぐ答えが無くても、たとえば宿題としてやって見る気はあるかい?

──いや、僕はそんなのできません。教授こそおやりになったらどうですか?

  現代日本の若者というのは、ジローに限らず、どうもこういう時は積極性がないし、やたら如才がない。しかし、やはりここは確かに学生だけに仕事をさせるというわけにはいかない所だ。

──よーし、じゃあ現代日本版の『ライオンと鼠』については私が考えて書いても良い。ただし、ひとつ条件がある。一応今から2週後の授業までという期限で、誰か1人でも2人でも現代アメリカ版の『ライオンと鼠』の話を書く気はないかい? 私と競争で書いて、他の者が審査員になって、もし私の日本語版の話よりうまくできていたら、このコースの成績に大きな追加得点をあげる、という条件で。私のより仮に悪くても少しは点をあげるよ、もちろん内容に応じてだけれど。

  クラスの中がざわついたが、すぐには応募者は現われなかった。創作文学のコースでもないコースでのこの異例の提案には、仕方のない反応かも知れない。

  しかし、デイヴィッドが、ついにおずおずと手を上げた。

──センセイ、僕書いてもいいんですが、僕も1つ条件があります。

──条件ってなんだい?

──元々のイソップの話は、アメリカ版であれ日本版であれ、道徳的寓話なんですが、僕は現代版のアメリカの『ライオンと鼠』は道徳的な寓話としては書けないという気がするんです。だから寓話ではあるけれど道徳的な話でなくともよい。それでいいですか? それだったら何とか書けるような気がする。

──おう、いいぞ、やれやれ。

  と、私が答える前にジェフが言った。

  私ももちろん同意見だ。

──もちろんそれでいいよ。考えてみたら私も現代版の日本の『ライオンと鼠』を道徳的寓話として書くのはとても難しい気がする。だからお互いに何の制約もなしに自由に書こう。

  それで、この問題には決着がついた。予定していない「余計な」仕事ができたが、少数であれ学生の能力を特別に引き出すためには、時折こうした余計な仕事は必要になる。1時間20分の授業もそろそろ1時間をまわろうとしている。今までの内容はまあまあ自分でも満足が行くものだった。しかし、もう一点肝心な点を議論しなければならない。

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2005年4月28日掲載