「ライオンと鼠:日米規範文化比較論 -前編-」(3/5)
──では、ほかに日本版とアメリカ版の違いで気がついたことは?
話が途絶えたので、私は話の転換をはかる。それを待っていたように、エミリーが発言した。
──日本の話のモラルの1つは前の授業でもやりましたけれど、恩返しです。つまり、恩恵を受けたものはそれを返さねばならないという規範です。これはねずみの言葉にあります。もちろん、これは日本的モラルですからアメリカの話にはなくて、そのかわりにアメリカの話には対応するモラルとして...
──うん、アメリカの話の方では...
私はつい先を促してしまう。
──正式には、ここには契約はないんだけど、契約の順守の規範じゃないかと思います。約束を守ることが大切だと言うモラル、それが強調されていますから。
期待しているような答えを学生の方から自主的に言われる時の満足感は格別だ。
──でも、
と、ウェンディーが言いだした。
──「恩」って、ルース・ベネディクトは一生無制限な返済の義務を生じるほど大きな恩恵って定義してますよね。けれど、私はここではライオンがねずみにあまり大きな恩恵を与えたとは思えないけど。
──えー、でも...
と、ジローが反駁する、
──ライオンはねずみを許して命をうばわなかったんだから。
──そりゃあ、ねずみにとっては大きいことかも知れない。でも私はライオンのことを言ってる。だって食物としてのねずみなんてライオンにとってはたいした価値がない。たとえば今、億万長者がちょっと自己満足に慈善を施すつもりで貧乏人に1000ドルあげたとする。億万長者にとっては1000ドルなんてどうでもいい金額。でも貧乏人にとってはひと財産。だからといって貧乏人がその恩恵に対し一生無制限な返済の義務を生じなければならなんて、それはちょっと納得できない。
──そう、日本版の話では、なんかライオンとねずみの間に根本的な不平等があるのよね。
と、メアリーが唱和する。
すこし私が介入しなければならないようだ。
──確かに日本版の話ではライオンとねずみの間では地位が同等でないと仮定されているよね。でもライオンにとってはどうでもいいことだから自己満足的に慈善をほどこすつもりでねずみを許した、て解釈はどうかな。話の意図としては、ここではライオンは、ねずみが自分の過失について恐れおののいているのを見て気の毒に思った、ねずみに情をかけた、それで許したってことになっている。確かにこの情は、たとえば乞食を憐れんで施しをする人の慈善の気持ち、と無縁とは言えない。でも、私はそういった人の情けによる慈善行為を、偽善だとは思わないけれど。
──でも、
と、ウェンディーは反駁する。
──もしライオンを、日本版の話の筋にしたがって、「過失を犯した者を裁く立場にある者」として、もしその過失が「Oops! Excuse me!」といってすむ程度のものでなかったとした場合、相手が謝ったから、反省したから、ただ許すっていうのは道徳的な話にならないと思う。罪を犯した者はたとえ過失であってもそれに対して責任がある、という考えが抜けているし。
ここは重要な点だ。アメリカ人学生の多くはウェンディーと同じ疑問を持つ。
──過失であっても罪を犯せばそれにたいして責任がある。それは良くわかるよ。でも、「自分の行為についてとるべき責任はとれ」という道徳とは別に「責任感のある人になれ」という道徳もあると私は思う。たとえば今ある国で、仮にここアメリカで、人がみな自分の罪や過失についてそのつど責任を取る、いや取らされるとする。すると、人は責任を取ったあとは自分の罪の決算はゼロというか、もうこれ以上何も負い目はない、と感じるようになる。そう思わないかい?
ウェンディーに問いかける様に私はいった。
──そりゃ、そうだと思う
と、ウェンディー。
──だから逆にね、多くの人が自分の行為について、たとえばそれが悪いことでも、その結果取るべき責任との損得勘定で、どうするか決めるということも考えられる、そうだよね?
──ええ、そういう風に考える人も多いだろうと思います。でも、その行為自体が良いか悪いか、という道徳的判断で決める人も少なくない、と私は思うけど。
──私が、言いたかったのはね。
(さて、これからがちょっと難しい。解かってもらえるかどうか)
──もし罪があってその場で償いをさせられずに許された場合は事情が違うってことなんだ。その人は引き続き将来にわたって負い目を負う、という点が違う。日本人は人に謝る時「すまない」という表現をよく用いるけれど、これは古くは「このままでは自分の債務が終わっていない」という意味だとも、「これでは負い目のために心が澄まない」という意味だとも言われている。どちらにしても、謝罪しそして許されるということは、罪の決算も心の決算もゼロにはならず、マイナスってことになる。だから将来それをゼロにしたい、あるいは少なくともマイナスをこれ以上大きくしたくない、そういう気持ちが生まれる。日本版の話でライオンが「これから十分気をつけるのだぞ」と言い、それに対してねずみが「はい気をつけます、気をつけます」と答えるところがあるけれど、私は許されたことによってこのねずみは、これから自分の軽率さのせいで人に迷惑をかけまい、と思うようになる。そう期待されていると思う。でも、もし、ここでねずみが罰を受けたとする。それでもねずみは、これから自分の軽率に気をつけるだろう。でもそれはまた罰を受けるのが怖いからで、自分のしたことが悪かったと反省したからではないだろう、と思う。
(ここはやはり少し難しいかな)
と、私は補足の説明を考える。
すると思いも書けず、エミリーがびっくりするような助け舟を出した。
──私は、教授のいうのはこういうことだと思います。私達の文化では、罪の意識と言うのは、その行いが悪いことだという道徳的判断が自分自身の心の中に生まれることで内面化された、と考える。でも、ヤマグチ教授がいうのは、日本では必ずしもそうではない。日本では人に損害を与えた行いの償いを未だしていないという人や社会への負い目の意識が生まれることで内面化された、と考える。そういうことだと思います。
私は彼女の要約に賛辞を惜しまなかった。そう、その点がまさに日本の文化における「恥」を、人の評価に縛られるといった外面的なものとしてしかとえらえることのできなかったルース・ベネディクトに対し、恥をもっと内面的な罪に近いものとして理解する作田啓一の『恥の文化再考』における出発点でもあったのだ。エミリーはそこをいとも簡単に飛び越えてしまう。彼女の理論的センスは抜群だ。
しかし現在の日本において、恥の意識は作田啓一が描いたように内面的な道徳として日本人の心に引き継がれているのであろうか? 私はそれが気になった。先日日本に戻ったときに目撃した、ある電車内での光景が浮かんだからである。人々を追跡するパネル調査とその分析の専門家として、最近私は日本でこれから生まれてくる全国の赤ちゃんのうち1万人ほどを何年にもわたって追跡調査するコホート調査の企画についてアドバイスをしていた。コホート調査では子育てのあり方に深い関心を持っている。そんなことが頭にあったとき、その電車内のエピソードは普段アメリカで暮らす私には衝撃的だった。
地下鉄の電車内で3歳ぐらいの女の子が大声を出して騒いでいた。昼過ぎの比較的空いている時間帯である。母親は
──○○ちゃん、お願いだから、うちに帰ったら大きな声を出してもいいから。ほらみなさんが見てるじゃない、だからお願いだから静かにしてちょうだい!
と、懇願するように言い、女の子は「イヤー!」とさらに大声を張り上げ、母親は消え入りたいようなそぶりで「お願い!」を繰り返していた。
こんなとき、アメリカの母親ならどう対応するだろうかは容易に想像できた。
──Listen!
と、まずアメリカの母親は子供に重々しくいうだろう。場合によっては
──Listen、スーザン・スミス!
などとフルネームで呼ぶかも知れない。普段ファーストネームでただスーザンと親しげに読んでいる親が、他人行儀にフルネームで呼ぶときは親が個人としての相手に厳しい態度で臨んでいることを意味し、それだけで子供の背筋をしゃきっとさせる効果があるのだ。そして、
──騒がしくして人々の耳を煩わせることは良いことでないことは分かるわね。それにここは電車内でパーティー会場ではないの。公共の場所なの。だから特に静かにしなければいけないの。
などと、取るべき行動とその理由を説明し、それでも子供がわからず屋で「No!」と言い続けるなら、多くの母親は人前でも頬を平手打ちするなどして罰を与えるだろう。
一方、電車内での日本の母親は子供の行為の良し悪しの理由を全く説明せず、うちへ帰ったら大声を出しても良いと場の違いにより勝手が許されるということを示唆し、人目を気にしろとの外面的な恥の意識を起こさせ、わがままな子供を怒るでもなく、ひたすら「お願い」を繰り返すというありさまであった。これはアメリカの母親がどう振舞うかを見慣れていた私にはまさにショックであった。そこには「恥の文化」は反映しているとしても、親が子供自身にこんなことをして恥ずかしいという気持ちを持たせるようにするのではなく、むしろ親自身が人目を気にして恥ずかしがり、子供の態度をただ嫌がっているという状況があった。
一昔前の日本の母親なら、いやたぶん現代でも心ある母親なら、ただ人目を呼ぶことの非や自分自身の都合などでなく、違った形で「恥ずかしい」という意識を伝えたはずである。私が未だ幼いとき隣人であり母の親しい友人であったある婦人は「人様に迷惑をかけることの恥」とその道徳と対の「人様に役立つひとになることの徳」を自らの子供や幼かった私に説いた。また自らそういう志を持つことだけでなく、そういう志の友を持つことの大切さも、そういった志の人が世の中では粗末にされることはない、またそうあってはならない、といった信念も、子供にわかりやく話してきかせた。彼女はある会社の社長夫人であり、彼女の説く道徳には明治以降に醸成された経済人の日本的組織倫理が理想化された形で表れていた。それは個人の自由な競争における私利の追求は自然に効率的分業を生むので良い、というアダムスミスの「神の見えざる手」の哲学とも、プロテスタントの勤勉と禁欲の宗教道徳が資本主義の精神の土台を作った、というマックス・ウェーバーの理論とも、全く異なるもので、「人様に役立つことをするという志を持ち、その志のある人と共に働き、人に生かされ、人を生かす」べし、というような倫理であった。
もちろん現代の日本の母親の子育ての態度は一様でない。母の友人のような倫理で自覚的に子育てをする母親はもともと多くはなく、今は一層少ないであろう。一方アメリカの母親のようにことの善悪の理由を子供に述べる母親は増えたであろう。また、全く別な日本的な対応もある。以前、似たような場面で別の母親は
──○○ちゃん、ママはそんなことする子、嫌いよ!
という言い方で子供をしかりつけていた。その母親は人目を気にしていた母親とは違い、子供に正面から向かってはいた。しかしそういう育てられ方をすると、子供はことの善悪は理屈ではわからず、ただこういうことをしたら好かれるとか、嫌われるとかの感受性が育成されるだろう。またその結果、自分にとって身近な人の感情を感じ取る力をつけ、そういった身近な人間に好かれるように嫌われぬように振舞う態度を身に着けながら育っていくように思える。子育てにおいてどういう規範が用いられるのか。それは、行いの善悪の価値判断とその責任の意識なのか。「人様に迷惑をかけず、人様に役立つ」というような価値判断なのか。好き嫌いの感情操作による人に好かれる態度の強化なのか。ただ望ましくない行為が人目につくことを非とする外面的な恥の意識の強化なのか。自らをこんなことをして恥ずかしいと感じる内面的な恥の意識の育成なのか。はたまた、西洋人には一貫性のない道徳と思われる「場」による態度の使い分けなのか。親が、意識的にあるいは無意識にどのような規範をもってどう子供と向き合うのか、その結果はこれからの日本人がどういう社会的倫理観を持つに至り、世界の中で自らの尊厳を保てるか否かの道筋に大きく影響すると思えた。
こういった想念はエミリーの発言にともなって頭の中を駆け巡った。が、授業はいまだ続いており、今はそちらに専念する必要があった。
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