山口一男の日本社会論

【オンライン社会学講座】イソップ物語で浮かび上がる現代日本とアメリカ

山口 一男
客員研究員

「ライオンと鼠:日米規範文化比較論 -前編-」(5/5)

──さて、アメリカと日本の『ライオンと鼠』に1つ共通点がある。日本の話のライオンとねずみはその後友情で結ばれる関係になったとされている。アメリカの話のライオンとねずみもお互いを尊敬できる関係になったと考えられる。これは、友情で結ばれた関係とは違うが、どちらの場合もお互いに信頼し合える良い関係が生まれた、といえる。
ここで、ひとつ見逃してはならないのは、アメリカのライオンとねずみの場合も、日本のライオンとねずみの場合も、共に自分達の文化の中でお互いの言葉や行動について共通の理解のもとに行動した、という点だ。だから、そういった共通の文化の基に言葉と行動の意味の正しい理解があって、かつ誠意をもって行動した結果、人と人の信頼の絆が、いやそうじゃなかった、ライオンとねずみの信頼の絆が、生まれたといえる。では、今仮に誠意はあるが、文化の理解がないとする。つまり今仮に日本のねずみがアメリカのライオンに、またアメリカのライオンが日本のねずみに、それぞれ出会ったとする。ここで、アメリカのライオンとねずみも日本のライオンとねずみも自分達の文化しか解からないと仮定する。さて、その場合の結果はどうなるかな。たとえば、日本のねずみがアメリカのライオンに出会ったとしたら...

──それは、さっきジェフのいったように、「よし、責任を認めたな。じゃあ、まあ損害賠償は他に何なさそうだから、まあ小さな肉のかけらでがまんするか」と、いうのでライオンがねずみをパクリ。

  と、マーク。

──そうだよね。だからこの場合はいい結果は生まれない。じゃあ、逆にアメリカのねずみが日本のライオンにあった場合はどうなる?

──これは、態度がでかいとか、英語でどう表現するかわからないけど「ナマイキダ」ってんで、やっぱり、パクリだな

  と、ジロー。

  ジローは「ナマイキダ」と日本語で言っだので、これは「自分より地位が下だと思っている相手があたかも対等な者のように振る舞うことに対する怒りの感情」だと説明した。

──私もジローもいう通りこの場合もやはり良い結果は生まないと思う。この2つの場合は共に文化の違う者がお互いの考え方、特に言葉や感情表現に表われた合図の意味、を正確に理解できないまま交わると、例え自分なりに誠意をもって行動しても信頼し合える関係を結ぶのはむずかしい。そういうことを意味している。このことは大切なので頭に止めておいて欲しい。さて、何かほかにアメリカと日本の話の違いについて気がついたこととか、ここが理解できない、とかの質問はあるかな?

  これで今日のメニューはほぼ終わったな、と私が思った時、メアリーの発言は起こった。

──教授、質問ですが。

──はい。

──今の話に関係するのですが、たとえ文化的に共通の要素があったとしても、日本の話でライオンとねずみは最後に友達になった、とあるのがどうも納得できません。この話ではどう見てもライオンとねずみは対等ではないからです。

  やはり彼女はこの点にこだわっていたようだ。

──なぜなら、ねずみはとてもへりくだった卑屈な言葉使いをしていますし、ライオンはその反対です。それに、さっきウェンディーが言った不平等の問題もあります。この状況で、ライオンとねずみが友達になるというのは不可能だと感じられるのですが。

──つまり、地位の対等でない2人の間に友情などありえない、と、そういうことかな?

  と、私。

──そうです。

  と、メアリー。

──あなたの言わんとするところはわかるけれど、

  こういった言い出し方は不必要で、かえってメアリーの反発を買うのは過去の例で解かっていたのだが、自分の口調というのはなかなか変えられるものではない。

──でも友情にもいろいろあると思う。つまり地位が対等でなくても、上の者が下を思いやり、また下の者が上の者に忠実に誠意をつくす、というようなことから生まれる相互の信頼の感情は、友情に通じるところがある、と私は思うのだけれど。

──でも、私には日本版の話のライオンの態度は、偉そうにふるまいかつ保護者ずらをするといったこの態度は、私達には我慢のできないものに思う。ねえ、そう思わない?

  メアリーは隣に座っているウェンディーに同意を求めた。

──えー、私もそう感じます。でも..

  と、ウェンディー。

──でも、さっきの「ナマイキダ」という言葉の教授の説明からロバート・パークの今から50年ぐらい前のアメリカの南部と北部の比較を思いだしたんです。パークによれば、当時のアメリカ南部では黒人が白人に対して「礼節にかなう適切な距離」をおいて接する、という様な態度が普通で、そういった人種間の社会的地位の上下関係を黒人が受け入れていた状況では、たとえば白人の地主夫人(landlady)と黒人の召し使いといった間柄に典型的に見られたように、黒人と白人の個人間に相互の親しみや信頼の感情があったのに対し、黒人が人種間の地位がより対等だと感じ、そのようにふるまったアメリカ北部では、まだ多くの白人がそれをあるべき態度として受け入れていなかったので、黒人と白人の個人的関係の間の相互の親しみや信頼の感情は生まれにくかった、と書いているんです。だから、地位の違う者の間でも、お互いの間で上下関係の意識にずれがなければ、地位が対等でなくとも、信頼や親しみがおこることがあるのではないかと思います。今でも勤め先でボス(上司)と親しいとかいうことはよくあると思います。でもそういう親しみは常に自分が地位が上だと偉そうにふるまうボスにはではなく、職場の地位は違っても、自分を対等に扱うボスにしか感じないと思います。だから私も、パークの言うようなことは理屈としてはわかっても、自分の実感としてはありません。

  ロバート・パークとは20世紀前半のアメリカの代表的社会学者の1人で当大学社会学科の当時のリーダーでもあった。ウェンディーの意見は卓見であった。逆にいえば、どんな場合でも、職場の地位は違っても、個人間の関係を基本的に対等であらねばならない、と見る見方が身についた現代の多くのアメリカ人には、日本版のライオンとねずみのような関係は情緒的に受け入れられないところがあるのだろう。その反対に、地位の差とそれにふさわしい態度を仮定する日本人には、ライオンの立場にたてばアメリカ版の話のねずみの態度に対して「なまいきだ」といった、現代のアメリカ人にはほとんどわからない、しかし50年ぐらい前のアメリカ北部の白人が黒人の態度に対して感じたのと通じるところのある、感情的反発を持ちやすいのだ。

  メアリーのウェンディーの意見に対する反応は私とは趣を異にしていた。

──ふーん、そうなの。結局はやっぱり不平等な社会に特有な感情ってことね。

  偏見のある言い方だ。私もこれには黙っているわけには行かない。

──メアリーのコメントはちょっとおかしい。つまり彼女は日本社会が不平等な社会で、アメリカ社会はそうでない、と暗黙に言っている。実際には、アメリカと日本でどちらが不平等な社会かは簡単には比べられない。

  アメリカと日本の社会的不平等の歴史的違いや現在の主な相違点について述べた後、私は続けた。

──だから、問題はどちらの社会がより不平等だということではなくて、どちらの社会にでも見られる個人間の社会的地位の違いを前提とした時、地位の異なる者の間で相互の個人的な親しみや信頼の感情がどうして日本でアメリカに比べてより可能か、ということだ。ウェンディーの発言はそれについて、実にいい所をついていた。でも、彼女も理屈ではわかるが実感はできない、と言っている。どうしてかな? そこが私には、どうも良くわからない。たとえば、身近な例として兄弟や姉妹の関係を考えると…

  突然メアリーが、話の継続をさえぎった。

──教授! あなたは兄弟や姉妹は地位が違うと考えているのですか?

  まずい例だった、と認めざるを得なかった。その慌てた気持ちが、次の応答をも不十分なものにさせた。

──いや、大人になれば兄弟や姉妹の地位の違いなどないだろうが、子供の時にはたとえば2歳違いでも、経験とか知識が年上と年下ではずいぶん違うから

──教授!

  メアリーはまた私の説明をさえぎった。

──あなたは私の問に正面から答えていません。日本では、チエ・ナカーネが述べているように、学校でも職場でも1年でも違えば「センパイ」とか「コーハイ」とかいってランクを区別し、地位の違いの意識を持つんでしょう? だから兄弟や姉妹でも同じことで、私は教授が日本人的なそういう意識で、兄弟や姉妹は地位が違うと考えているのかどうか、それを聞きたかったのです。

  中根千枝に言及してくれたおかげで、私はこのやや挑戦的な質問に冷静に対処することができた。

──日本人的意識か、そりゃあもちろんあるよ。私はアメリカに長く住んでいるとはいえ日本人だからね。特に日本に行くと、敬語の使い方とか、年令とか地位の違いを考慮した話し方をしないと礼を失するから、好むと好まないとにかかわらずある程度そういった年令や地位の意識を持たざるを得ない。けれど、アメリカの生活では言語にそういった機能はないからそれを意識しない。でも少なくとも私はどこにいても年令であれなんであれ属性で人を差別したりはしないよ。また日本では兄弟や姉妹については第二次世界大戦以前は戸主制度というのがあって長子が法的にも特別の権利を持っていたけれど、戦後は性別や出生順序によらず兄弟や姉妹は法的には平等となっている。一方兄弟姉妹や先輩後輩の関係は確かに前の授業でやった中根千枝がいうような縦の関係で、意識されている序列という意味で地位といえる。でも、それは人々が序列によって権利や身分が違うなどと意識しているということではなく、日本には身近にいて経験の多い者を敬う伝統があったり、またいろいろな機会がいずれみなにまわってくるけれども序列の順に与えられたりする慣習が広く残っているせいで、序列を意識せざるを得ないのだと思う。もっとも最近の若い世代では、そういう序列の意識も大分薄れて来ている気がするけれど。

──そうですか。それならけっこうです。

  メアリーは一応矛を収めたが、明らかに不満をひとまず抑えたという応答であり、表情は硬かった。一方、私自身も彼女の挑戦的態度にとまどっていた。クラスに気まずい沈黙がしばし流れた。が、ここでエミリーが沈黙を破る助け舟をだした。

──教授。私、ひとつ質問があるのですが。いいですか?

──はい。

──日本版のライオンとねずみの話でライオンは「できてしまったことは、仕方がない」と、言っていますが、これはちょっと理解しにくいのです。正確には、どういう意味でしょうか?

──ライオンは良い眠りを妨げられてしまった。けれども、今更ねずみを罰しても良い眠りが返って来るわけではない、ということだと思うけれど。アメリカでも、「こぼれたミルクについて悔やんでもしかたがない」と言う諺があるでしょう。

──それは全然状況が違います。ミルクをこぼしたのは自分の過失です。自分で責任をとるのは当然で、あとから後悔し続けてもしかたがない、ということです。でも、この話の場合はねずみの過失でライオンが被害を受けた場合です。ですから状況が違います。

  それもそうだ、と半分納得しながら、なおも私はこう述べた。

──でもね、結果においてはやはり同じだともいえるよね。人を責めても自分を責めても、良い眠りはもとに戻らない。だから、しかたがないことに変わりがない。と、こういう考えじゃないかな。

──その説明は全く理解ができません

  と、エミリー。

  他の学生もエミリーに同意を示している。

  アメリカ人には仏教的諦観といった気持ちに相通じるところのあるこの考え方を感覚的に理解できないのも無理はない。

──そうか、こんな説明じゃ解からないか。困ったな。でも、もう授業時間も残りがない。じゃあ、仕方がないから、私の次回までの宿題ということにしてほしい。

  最後にようやくクラスの雰囲気が和んだ。

次回「ライオンと鼠:日米規範文化比較論-後編-」では、現代アメリカ版と現代日本版「ライオンと鼠」から見えてくる日米の社会規範・倫理の変容に山口教授と教え子達が批評精神たっぷりに挑みます。どうぞお楽しみに!

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2005年4月28日掲載