従業員のメンタルヘルス 企業業績に影響

山本 勲
ファカルティフェロー

黒田 祥子
早稲田大学

精神疾患の増加とともに、現在、働く人のメンタルヘルスへの関心が高まっている。国会では、ストレスチェックの義務化など、企業における対策の強化を図る労働安全衛生法の改正が審議されている。

最近では、経済協力開発機構(OECD)もメンタルヘルスに関する報告書を公表するなど、医学系だけでなく社会科学系の分野も含めた研究の必要性が広く唱えられているものの、就業とメンタルへルスを関連付ける研究の蓄積はそれほど進んでいない。それもあって、メンタルヘルスの不調は個人に原因があるとする考えが依然として根強く、企業経営の観点からメンタルヘルス問題が捉えられることは必ずしも多くない。

しかし、従業員のメンタルヘルスの悪化は、その企業の業績にも悪影響を与える可能性がある。以下、筆者らの一連の研究成果を踏まえ、企業がこうした問題にどのように向き合うべきかを議論してみたい。

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筆者らは、経済産業研究所の研究プロジェクトにおいて、企業とその企業に勤める従業員への追跡調査を実施している。図は、約400社のデータを元に、2004年から07年にかけてメンタルヘルスの不調により連続1カ月間以上の長期休暇をしている正社員の比率が上昇した企業群とそれ以外の企業群で、売上高利益率の変化がどのように異なるかを示している。

図:メンタルヘルスの悪化と利益率の変化
図:メンタルヘルスの悪化と利益率の変化
(注)3年前との差、ポイント

07年時点では、休職者比率が上昇した企業もそれ以外の企業も、利益率の変化にはほとんど差はみられない。しかし08年以降をみると、リーマン・ショックによる景気後退の影響を受けてどの企業も業績を悪化させているものの、休職者が増加した企業ほど利益率の落ち込みが大きい。つまり、メンタルヘルスを損なう従業員が増加した場合、その影響はすぐには現れないものの、時間的ラグを伴って利益率は顕著に低下する。この傾向は、企業の規模や技術力・潜在成長力など、企業固有の要因などを統計的に考慮した場合でも検出される。

メンタルヘルスによる休職者が全従業員に占める比率は平均で1%未満と低い。それにもかかわらず、なぜ休職者比率の上昇が企業業績を悪化させるのだろうか。1つの解釈として、メンタルヘルスによる休職者比率の経年的な変化は、当該従業員だけでなく、その企業の従業員全体の平均的なメンタルヘルスの変化の代理指標となっている可能性が考えられる。

働いている人のメンタルヘルスが悪化すると、仕事の効率が低下し、そのうち欠勤・遅刻・早退が多くなり、最終的に休職に至る、という段階を経るのが一般的である。勤務中の効率低下は「プレゼンティズム」、欠勤・遅刻・早退・休職は「アブセンティズム」と呼ばれ、先行研究では、企業がそうした従業員を企業内に抱えておくことの経済的費用は小さくないという試算が報告されてきた。

ということは、休職者が増加している職場や企業では休職者本人だけでなく、就業を続けている他の従業員のメンタルヘルスも悪くなっていて、プレゼンティズムやアブセンティズムを通じて企業業績が悪化している可能性がある。事実、労働者の追跡調査データを用いて検証すると、メンタルヘルスによる休職者が増加傾向にある職場で働く人は、その人自身のメンタルヘルスの状態も経年的に悪化する傾向が認められた。

つまり、労働者がメンタルヘルスを悪化させる背景として、その職場や企業に何らかの要因が存在していることが推察される。そうした要因が休職者だけでなくその他の従業員のメンタルヘルスの低下を通じて、企業の生産性を低下させていると解釈できる。

それでは、就業上のどのような要因が従業員のメンタルヘルスを悪化させるのだろうか。筆者らの検証によると、労働時間、とりわけ手当の支払われないサービス残業時間が長いこと、仕事を進めるうえでの裁量の度合いが低く、担当する業務の内容が明確ではないこと、早く退社しにくい職場風土があることなどが、メンタルヘルスの悪化につながりやすいことがわかった。なお、多くのほかの病気と同様に、発症には遺伝など個人的な要因も関係していると考えられるが、個々人に固有の要因を統計的に考慮したとしても、職場・企業要因の影響は変わらなかった。

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これらの結果は、メンタルヘルスの問題は休職してしまった従業員の問題だけではなく、職場環境や働き方に関係する従業員全体の問題として捉える必要があることを示唆している。

筆者らの研究によると、日本の企業では、労働時間の一部が非効率に長くなっている傾向がみられる。非効率な働き方を是正するために職場管理を工夫したり、職場風土を変えてサービス残業を少なくしたりすることは、効率性を高めると同時に、従業員全体のメンタルヘルスの悪化防止にもつながるため、相乗的に企業業績の改善にもつながりうる。

なお、現在、自律的な労働時間制度の導入を巡って議論が活発化しているが、筆者らの研究に基づけば、日本において現行の労働時間規制が適用除外されている労働者ほど労働時間が短くなっているという証左は見いだせない。逆に、不況期には残業代が支払われない適用除外者に業務が集中し、長時間労働が生じやすく、そうした傾向は交渉力の小さい労働者で顕著となる。このため、規制の適用除外の範囲を広げすぎると、かえって長時間労働を招き、メンタルヘルスを損なう労働者が増加するおそれもある。制度改革には、対象となる労働者の範囲設定を含め、慎重な対応が必要といえる。

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これまで多くの日本企業は、日本的雇用慣行のもとで従業員に人的投資を実施し、その後長い期間をかけて投資の回収を図ってきた。人的投資費用が回収できなくなることを防ぐという意味では、従業員がメンタルヘルスを悪化させても、直ちに雇用契約を打ち切るのではなく、休職というかたちで企業内にとどめ、回復を待つという企業の対応は合理的である。また当該労働者にとっても雇用が保障された状態で療養できるメリットがある。

しかし、メンタルヘルスによる休職者の存在は、その企業の従業員全体の心の健康の代理指標であるという認識は重要である。従業員のメンタルヘルスが企業業績に影響を及ぼす可能性を踏まえると、メンタルヘルス問題を医療システムによって社会で対処するだけでなく、企業が経営課題として向き合うことが求められる。

日本では正社員を中心に、労働時間も雇用期間も他国より長い傾向にあるため、人々のメンタルヘルスは働き方や企業・職場からの影響を受けやすいと考えられる。

近年、労働者のワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)の実現に向けて、企業・職場の様々なレベルで取り組む企業も増えている。これまで、メンタルヘルス対策はこうした取り組みとは性質の異なるものとして捉えられることが多かった。しかし、ワーク・ライフ・バランスと対立する概念であるワーク・ライフ・コンフリクト(摩擦)は、従業員のメンタルヘルスを悪化させる可能性がある。つまり、働き方の改善はワーク・ライフ・バランスの実現だけでなく、メンタルヘルスの悪化防止にもつながるという認識が重要といえる。

経済学の視点に立ったメンタルヘルスの研究はまだ蓄積がそれほど進んでおらず、本稿で紹介した研究も発展段階にある。今後は、医学・社会学・経営学など他分野の知見を活用し、そうした分野との融合を図りながら、企業や労働者のデータに基づいた研究を経済学からも積極的に進め、研究成果を発信していく必要がある。

2014年6月13日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2014年11月18日掲載

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