経済学からみたメンタルヘルス問題

山本 勲
ファカルティフェロー

メンタルヘルス問題へのアプローチ

近年、働く人のメンタルヘルスが悪化しているといわれており、『患者調査』(厚生労働省)などの公的統計をみても精神疾患数は増加傾向を辿っている。こうしたメンタルヘルス問題に対しては、産業保健や医学などの分野で数多くの研究が蓄積されており、原因の解明や職場・企業・国レベルでの多数の対応策が打たれている。

メンタルヘルスの要因はさまざまなものがあるが、働く人にとって、職場での働き方は重要な要因となりうる。たとえば、長時間労働が続いたり、仕事の裁量が小さかったり、配置転換や転職の機会が少なかったりすると、ストレスが増大し、メンタルヘルスが悪化しやすいだろう。

一方で、職場での働き方を分析対象とする労働経済学の分野では、これまでメンタルヘルス問題は必ずしも多く研究されてこなかった。日本人の働き方といえば、このところ、長時間労働是正やワークライフバランス、ダイバーシティ経営、女性活躍推進など、いわゆる日本的雇用慣行からの転換を図ろうとする動きが随所でみられている。こうした動きは、従来の日本的雇用慣行の下での働き方に何らかの支障があることを示唆しているともいえる。ということは、日本的雇用慣行の下での働き方がメンタルヘルスを悪化させる大きな要因になっているとも危惧される。

このように捉えると、働き方を分析対象とする労働経済学の分野でも、働く人のメンタルヘルス悪化の要因や影響についての検証を重ねることで、新たな示唆を見出し、職場のメンタルヘルスの改善やそれを通じた企業経営の向上に役立てる可能性が十分にあると考えられる。

世界的にみても、OECDが「Sick on the job」という報告書を2012年に公表して以来、企業や職場でどのようにメンタルヘルス問題に対処するべきかといった問題が各国で議論されるようになった。特に、イギリスではLSEの経済学者のLayard教授がメンタルヘルス研究を強力に推し進めている。日本でも2015年12月から改正・労働安全衛生法によって従業員のストレスチェックが企業に義務化されたほか、従業員が生き生きと健康に働くことで企業業績を高める「健康経営」への注目も集まっており、メンタルヘルス問題を働き方や企業経営の観点から研究する必要性が高まっているといえる。

経済学的アプローチに期待されるもの

それでは経済学あるいは労働経済学に期待されるものは何であろうか。経済学者は当然ながら、医学的な視点、あるいは、職場・労働者への介入実験(カウンセリングや職場単位での働き方の見直しなど)やメンタルヘルスの状態を把握する尺度の開発などのスキルは持ち合わせていない。しかし、日本の職場でどのような働き方がどのようなメカニズムで生じているかを理論的・実証的に明らかにすることや、そうした働き方によって企業の生産性や利益率などにどのような影響が生じうるかを解明することなどについては、労働経済学の分野で多くの研究蓄積がある。

また、労働経済学をはじめとする応用ミクロ経済学の実証分析では、企業や従業員の働き方を描写したアンケート調査や人事・健康管理上の情報にもとづく観察データから、さまざまなノイズやバイアスを統計的に統御し、因果関係や本質的な関係性を見出すための計量経済学の手法が数多く開発されている。

そこで、こうした研究内容・手法の蓄積をメンタルヘルス問題に適用することで、労働経済学の研究が貢献できる方向性として、少なくとも以下の2つが挙げられる。

考えられるアプローチ1
1つは、労働需要・供給メカニズムや内部労働市場モデルを踏まえた働き方の特徴を明らかにし、働き方が就業者のメンタルヘルスに与える影響や、メンタルヘルスに対する企業の役割を解明することである。たとえば、日本的雇用慣行の強い企業では、正社員を中心とした従業員に多くの人的投資(教育訓練)を実施し、培ったスキルを長く企業内で活用するために長期間雇用する。そうした企業ではどうしても長時間労働が生じやすくなるため、メンタルヘルスが悪化するリスクが高い。と同時に、そうした企業では長期雇用が合理的となるため、メンタルヘルスを悪化させずに従業員に健康で長く働いてもらえる「健康経営」を目指すことこそが大事となる。

考えられるアプローチ2
もう1つは、観察されるデータから、個々の従業員や企業の異質性やその他のノイズ要因を統御したうえで、メンタルヘルスに影響を与える働き方の要因を明らかにしたり、メンタルヘルスが企業の生産性や利益率などの客観的な指標にどのような影響を与えるかを明らかにしたりすることである。たとえば、メンタルヘルスの悪化がみられた場合、その人の性格や生い立ちなどの「個人の問題」が原因と見做されることが少なくないが、計量経済学を用いた実証分析では、そうした元々存在する個々人に固有の要因を統御したうえで、労働時間や職場管理などの職場に共通した仕事要因がメンタルヘルスに影響を与えるかを明らかにできる。そのためには、従業員や企業を追跡調査したパネルデータの利用が必要不可欠となるが、結果的に職場に共通の要因が見出せれば、メンタルヘルス悪化の要因には職場に共通な「システムの問題」も存在することになり、企業としてメンタルヘルス問題に取り組む必要性を指摘することにつながる。

経済産業研究所での研究例

こうした問題意識から、筆者らは経済産業研究所のプロジェクト「企業・従業員マッチパネルデータを用いた労働市場研究」において、経済学のアプローチからメンタルヘルス研究を進めている。上述のように、経済学研究として利点を活かすためにはパネルデータの利用が必要不可欠であり、このプロジェクトでは、企業とその企業に勤務する従業員に対するアンケート調査『人的資本形成とワークライフバランスに関する企業・従業員調査』を毎年実施し、得られたデータをパネルデータとして構築し、分析に活用している。特に、このパネルデータは企業と従業員を紐付けることのできるマッチパネルデータであり、従業員・職場・企業経営を有機的に関連付けた研究を行うことができる。

これまでに実施したプロジェクトの研究成果を紹介すると、まず、従業員のメンタルヘルスを左右する要因として、長時間労働や仕事特性、職場管理の方法、職場の風土、配置転換、昇進などがあることが明らかになっている(Kuroda and Yamamoto (2016a)佐藤 (2016))。次に、従業員がメンタルヘルスを悪化させる働き方をしてしまうメカニズムとして、健康に過剰な自信を持ってしまう自信過剰バイアスなどの心理的傾向によって非合理的な長時間労働を行い、結果的に予期せぬ健康被害を招く可能性があることをも明らかにしている(Kuroda and Yamamoto (2016b))。このほか、メンタルヘルスの悪化が企業業績に与える影響についても、メンタルヘルスの不調を理由とした休職・退職者が増えるほど、利益率(ROS)で測った企業業績が悪化しやすいことを明らかにしている(Kuroda and Yamamoto (2016c))。

これらの研究は、経済学のアプローチでメンタルヘルス問題を検証した数少ない例であり、今後も多くの研究蓄積が望まれる。また、メンタルヘルス問題は医学・疫学・産業衛生・心理学などさまざまな分野に関連する大きな問題であるため、学問領域の垣根を越えた学際的な研究として取り組むことも重要であり、多方面での連携が望まれる。

2016年6月24日掲載

この著者の記事