執筆者 | 黒田 祥子 (早稲田大学)/山本 勲 (ファカルティフェロー) |
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研究プロジェクト | 企業・従業員マッチパネルデータを用いた労働市場研究 |
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。
人的資本プログラム (第三期:2011〜2015年度)
「企業・従業員マッチパネルデータを用いた労働市場研究」プロジェクト
『患者調査』(厚生労働省)によれば、1990年代以降のわが国の精神疾患の患者数は1996年の189万人、2005年の265万人、2014年には318万人と、趨勢的に増加傾向にある。2014年の318万人のうち、生産年齢に相当する15-65歳の患者数は208万人と、総患者数の65%を占めており、メンタル不調者の増加は医療費の増大といった社会的コストだけでなく、生産性低下というルートを通じて労働市場にも少なからず影響を及ぼしていると考えられる。こうした問題意識から、本稿は労働者のメンタル不調が特に個別企業の業績にどの程度影響を及ぼしているかを明らかにすることを目的としている。
メンタルヘルスと生産性との関係に着目した国内外の先行研究としては、主として2つのアプローチに大別できる。第1は、メンタル不調による欠勤や休職に伴って当該労働者が生産に従事できないことによって生じる労働損失日数を計算するというアプローチで、「休む(absent)」という言葉から派生して、「アプセンティイズム」の研究と呼ばれている。第2は、メンタルの不調を理由に解雇や退職に追い込まれるリスクを回避するため、かたちだけは出勤している不調の労働者の生産性の低下を計測するというアプローチで、「出勤している(present)」という言葉から派生して、「プレゼンティイズム」の研究と呼ばれている。後者は、個々の労働者に「フル稼働した場合を100%とした場合、健康上の問題がどれくらい現在の自分の生産性に影響を及ぼしているか」といった主観的な生産性を問い、その結果を足しあげるという手法が一般的にとられている。メンタル不調が労働市場にもたらす負の影響としては、当初はアプセンティイズムに着目する研究が多かったものの、昨今ではメンタル不調を隠す人が多い可能性が指摘され、プレゼンティイズムの影響の方が大きいと考えられるようになってきた。
しかしながら、こうしたプレゼンティイズムの研究は、少なくとも以下の4点において留意も必要である。第1は、メンタルヘルスに対しては社会的に強いスティグマが存在するため、本人の主観に依存した生産性への影響は過少に申告されるバイアスが包含される可能性である。第2は、個別の労働者毎の主観的な生産性の低下を足しあげるという手法は、そうした生産性の低下を補うために余計に労働者を雇わなくてはならない企業の追加的な負担(直接的な費用)に加えて、職場の同僚の生産性低下を周りの労働者が余計に働くことでカバーしている可能性や、そうした過労が二次的に周りの労働者のメンタルヘルスを将来的に毀損させ、さらなる生産性の低下を招いてしまう(間接的な費用)が含まれていない点である。第3は、チームで生産する必要がある場合、他の労働者のメンタルヘルスは良好に保たれていた場合であっても、ある労働者のメンタルが不調となることにより、チームとしての生産が滞ってしまう可能性である。そして第4は、メンタル不調で生産性が低い労働者が職場に存在することで、周りの労働者の士気や雰囲気が悪化し、職場全体の生産性も低下させてしまう可能性である。
そこで本稿では、労働者のメンタル不調が上述のいくつかのルートを通じて最終的にどの程度企業の生産性を低下させているかを、財務データを用いて検証した。具体的には、個別の企業から収集した「メンタル不調によって休職や退職をしている労働者の比率」をその企業に勤める労働者の平均的なメンタルヘルスを示す指標とし、メンタル不調により休職・退職者比率が高くなると、どの程度企業業績(ROS:売上高利益率)が低くなるかを推計した。
分析の結果、図に示したように、メンタル不調による休職・退職者比率が高くなると、企業業績が低くなる傾向にあることが分かった。この傾向は、個別企業の固有の効果(業種の違いや元々の体力差など)を調整したうえでも、また、業績が悪いからメンタル不調者が増加してしまうという逆の因果性を取り除いた場合でも、認められた。このほか、特に固定費用が大きい企業(長期雇用に基づき、従業員の社内教育投資を重視している企業)ほど、メンタル不調の企業業績に対する負の影響が大きいことも分かった。実際に、メンタルが不調となって休職したり、退職に至ってしまうケースは労働者全体でみると1〜2%程度に過ぎないが、本稿の分析結果はそうした休職者・退職者の存在は、全体のメンタル不調者の氷山の一角に過ぎず、実際には不調を抱えながら低い生産性で働いている労働者が多数存在していること、そして、結果的に企業業績が悪化してしまっていることを示している。つまり、メンタル不調の問題は、休職や退職に至ることとなった労働者固有の問題として片づけるのではなく、その企業で働く労働者全体の問題として捉え、働き方の見直しや職場環境の改善など、企業全体の対策を考える必要があることを示唆している。