人民元論議に見る日中の「バカの壁」

津上 俊哉
RIETI上席研究員

中国は近く元レートを切り上げる覚悟をすべきだが、元が大きく「フロート」することは日本をも揺さぶる。両国は地域通貨の安定を目指せ。

人民元レートの調整を求める声が世界中に拡がっている。

7月16日、グリーンスパン米連邦準備制度理事会(FRB)議長は議会証言の中で「中国当局が人民元を(米ドルに)ペッグし続ければ、国内経済を危険に晒すことになる」と発言した。18日には欧州委員会のプローディ委員長も同調する発言をしたと伝えられた(サウスチャイナ・モーニングポスト紙)。

調整を求める声が高まった背景には昨今の米国のデフレ懸念、EUのユーロ独歩高懸念があるが、もう1つの背景は中国の外貨準備激増だ。

中国は現行レート(1米ドル=8.276~8.280元)の上昇を防ぐために、外為市場で膨大な量の米ドル買い/元売り介入を続けている(図1参照)。中国の外為市場は投機資金が入らない。そのため、昨年の取引高は972億ドル(米ドル換算)しかなかったのに、外貨準備は690億ドル増えた。外貨準備は言わば通貨当局の市場介入口座の残高だから、市場介入によってそれだけ米ドル(資産)を購入したということだ。取引高の70%が当局の介入という極端な現状は、現行レートでは需給が均衡しないことを如実に物語っている。

外貨の主要な流入源は貿易黒字と外資導入だ。しかし、貿易黒字については、昨年通期で303億ドルもあった黒字幅が、今年前半は中国の景気好調、輸入増大を反映して、44億ドルにまで減少している。

外貨流入の主役は増え続ける「外国投資」の受け入れだ。外国投資実行額は昨年の上・下半期にそれぞれ246億ドル、282億ドルと増加基調だったが、今年前半はこれが更に303億ドルに増大した。原因は「成長する内需市場を狙った対中投資ブーム」だけではない。外国投資の姿をしているが、実態は元の先高期待に基づく「ホットな」資金の流入が起きている気配がある。

元先高期待の存在を裏付けるのがアングラ資金の流入だ。中国は従来、国際収支統計の「誤差脱漏(流出側)」の値が大きく、多額のキャピタル・フライト(資金の不法持ち出し)の存在を示唆すると言われてきた。ところが、2000年に119億ドルあった流出が一昨年49億ドルに減少、昨年は遂に78億ドルの流入と逆転した。この時期、米ドル金利が低下したことも1つの理由だが、海外逃避していた中国人のカネが大挙国内に舞い戻り始めたせいだと言われている。

現行レート維持は中国に得か?

外為市場における膨大な市場介入は、介入で手にした米ドル、放出した人民元の両面で無視できない影響を中国に及ぼしつつある。

米財務省統計によると、2001年1月から今年3月にかけて中国の米国債保有高は600億ドル増加した。そのうちどれだけが為替当局の購入か、買い手の内訳は発表されないが、為替当局も昨年手にした米ドルの大半を米国債や連邦住宅公社債券など安全なドル資産で運用しているはずだ。

しかし、巨額の人民元を米ドルに換金し続けることが中国の国益に沿うのだろうか。将来元が切り上げられた場合に発生する資産価値目減りの問題だけではない。「米国のイラク戦費調達にも中国がずいぶん貢献した・・・」中国の識者からはそんな自嘲の声も聞かれる。

介入で市中に放出した人民元の行方はもっと問題だ。単純に計算すれば昨年の外貨準備増690億ドルは中国のマネーサプライ(M1=流通現金+当座預金=約7兆2000億元)の7.9%に相当する。大きな流動性を市中に垂れ流したままにすれば、通貨供給を攪乱してしまうから、いわゆる不胎化操作(債券売りオペによる市中からの現金回収)が必要だ。

中国人民銀行(中央銀行)が定期的に発表する「貨幣政策執行報告書」によると、人民銀行は大量の介入を行なう傍ら、昨年は4月から12月にかけて2467億元(約300億ドル)、本年は第1四半期だけで1464億元(約177億ドル)のベースマネーを公開市場操作によって回収している。

それで万事うまくいくのなら結構だが、中国のマネーサプライは急激に伸びている。今年6月で見ると、M0(流通現金)は不胎化操作が効いて伸び率12%(対前年同期比、以下同じ)程度に抑えられているが、M1(M0+当座預金)及びM2(M1+定期預金)の伸び率は20%を超えてしまった。同時に不動産開発に向かう固定資産投資の伸びが今年前半35.6%増とさらに急激で、バブルが懸念されている。事態を重く見た人民銀行は六月中旬、緊急通達で不動産融資を抑制する荒療治に乗り出し、業界をちょっとしたパニックに陥れている。

いま本当に必要なのは、そんな行政指導よりも景気過熱を防ぐ金利引き上げだ。しかし、それで米ドルとの金利差が拡がれば、海外からの資金流入がますます増えてしまう。中国は人民元切り上げ阻止が至上命題になっているせいで、金利を米ドル以上に上げることができなくなっているのだ。

グリーンスパンFRB議長は冒頭の議会証言で「(大量の米ドル資産購入を続けてレートを維持しようとする)今の政策はやがては続けられなくなる。貨幣政策の機能不全を招いてしまうからだ」と述べている。通貨の番人に発言を決意させたのはこれらの問題ではなかったか。

 中国はなぜそんな無理を続けるのか。

日本と似て、経済成長の機関車を自認する輸出産業は社会的発言力が強い。政府の中でも貿易を司る商務部は「元高は輸出に打撃を与えて成長率を落とす」から、切り上げ反対の急先鋒に立っている。

世界が羨む高成長ぶりなのに、なお成長とは貪欲な・・・と思えるが、雇用のことを考えると、いまでも低すぎるくらいだ。7%成長で800万人の新規雇用が生まれるが、いまは年々の新規学卒者だけで1200万人もいるからだ。人口動態の歪みのせいで中国の失業率は上昇する一方、そのため、「成長率が落ちる」と言われると国家指導者も辛い。

もう1つの理由は元高で直撃を受ける競争力のない産業が多いことだ。まず、農業。中国農業は一見競争力が強そうだが、過去農民所得向上のために農産物の価格支持をやりすぎた報いで、穀物を中心に軒並み国際相場の何割高という内外価格差を抱えている。

次に、鉄鋼や化学などの装置産業。大きな資本が必要なせいで、今なお国有企業が中心、競争力がないので反ダンピング提訴を頻発して息をついている。

元高による輸入物価の下落はこのような弱い産業を直撃する。局部的でも鋭い痛みの救済が政治的に優先される事情は、いずこも同じだ。

しかし、もっと根本的な理由は国民の心理構造にある。

為替レートは切り上げ、切り下げ、どちらの方向に動いても、その国の経済に功罪両面の効果を及ぼす。元高は輸出産業の競争力にはマイナスでも、中国の購買力を高め、必要な輸入品を入手しやすくなる。生産過剰に悩む中国製造業は、今後自前の海外販路を開拓する必要があるが、元高はそのための追い風になる。大量に取り入れてきた外債の償還負担も元高で軽くなる。

元高の「功」には思い至らずに「罪」のみを見てしまう「思い込み」・・・。養老孟司氏の新著のタイトルを借りれば「バカの壁」だ。ある人がそれを「三十数年前の日本とそっくりですな」と言った。「日本の経済界もその頃は『1米ドル=360円体制を崩せば日本経済は崩壊する』と強硬に主張していた」。

この壁のせいで人民元をめぐる中国国内の認識は海外と全く噛み合わない。呂福源・商務相は最近「通貨政策の考慮に当たって国外の情況を優先する国は一つもない」と発言した。人民元問題が完全なゼロサム・ゲームと化している。日本が「元安・デフレ輸出」を非難したことがこの傾向をさらに助長した。

最近、「今年の外貨導入600億ドル突破は確実」という報道もあったが、いよいよ高まる資金流入圧力を憂える風は微塵もなく、論調は至って明るい。「バカの壁」のせいで、貨幣政策の行方について海外で高まる憂慮の声が耳に入らない。

「自由変動相場制」のリスク

では、中国は今後どうすべきなのか。グリーンスパンFRB議長は議会証言の中で人民元の変動幅拡大をしょうよう慫慂した。行き着く先は「自由変動相場制」になる。最大の論拠は「中国自身がそれを計画してきたから」ということだが、以下の点から見て、恐らくそれは正解ではない。

「貿易黒字国の為替レートが変動相場制を通じて切り上がれば貿易黒字が減り、国際収支が均衡に向かう」ものでないことは日米貿易摩擦と日本経済の歴史が示すとおりだ。外国投資についても、通貨の先高感がいっそうの外資吸収につながりかねないことは上述のとおりだ。

切り上げても止まらない外貨の流入は次の切り上げに対する期待を生み、もともと通貨高を恐れる政府はますます金利を上げられなくなる。それはやがてバブルを生み、果てはその国を「流動性の罠」(ゼロ金利)に突き落とす――。

つまりは、中国が日本の轍を踏むということだ。労作『ドルと円』で日本が経験した通貨政策の蹉跌を鮮やかに描き出したロナルド・マッキノン教授(スタンフォード大学)は最近の論文で、中国が日本と同様、ドルを貯めがちな経常収支黒字国の袋小路(conflicted virtue)に陥る危険に警鐘を鳴らした。マッキノン教授は、それを避けるために「中国は現行レートを変えてはならない」、そのために「思い切った輸入増大で貿易収支を赤字にして資金の入超を減らすべし」と言う。しかし、いまの中国にとってこの処方は元切り上げよりもっと苦いだろう。

中国のこの情況を、隣国日本としてどう考えるべきか。中国が日本の轍を踏むと聞けば、中国経済脅威論者は喜ぶかも知れないが、それも「バカの壁」だ。

「己の欲せざることを人に施すなかれ」式の聖人君子論を言うのではない。中国経済が日本の轍を踏んでやがて低迷に陥ることが日本の国益にとって得かどうか、日本も「バカの壁」から自由になって理性を働かせろと言いたいのだ。

日本はいま対中輸出が絶好調だ。昨年は円高にもかかわらず、中国の景気好調とWTO(世界貿易機構)加盟による関税引き下げの追い風で、対中輸出が前年比32%増加した。今年上期はそのうえで更に36%増、額にして8169億円の増だ。鉄鋼、化学、電子製品、自動車、機械・・・最近、アジア向け輸出が景気を支えていると言われるが、上期輸出総額の対前年増加額9844億円の82%は対中輸出が稼いでいる。数年前、世界銀行が「中国WTO加盟の最大の受益国は日本だ」と予言したことが的中しつつある。

それだけではない。日中経済の一体化はFTA(自由貿易協定)の枠組みがなくても急速に進んでいる。その中で工場の対中移転など、日本にとっての損失が顕在化しているのは事実だが、事実上の経済一体化が停めたくても停められない以上、残る途は中国からありったけの利得を吸収して損得の帳尻を黒字にすることしかないはずだ。

19世紀の最大の債権国、大英帝国はGDP(国内総生産)の6~7%に相当する海外投資収益を挙げていたと聞く。日本も投資先を分散して資産運用でも中国の高度成長から裨益できるようにする必要がある。東アジアから日本への対内投資拡大も重要だ。株価が低いせいで、企業買収には商機がある。日本人の手では難しい不振企業の再生にアジア企業と成長市場の力を借りる――これも立派な対内投資だ。台湾企業が「選択と集中」から外れた大手企業子会社を買収する例が増えてきたが、今後は中国からもこういう投資を吸収することが課題になる。

アジア富裕観光客の誘致は日本の莫大な旅行収支赤字(昨年度で2兆8500億円)の縮減だけでなく、今後の地方振興の切り札になる。そこでの狙い目は欧米人より台湾、韓国などの富裕客だが、これから中国からの集客も欠かせない。

そうやって利得を吸収しなければならない今後の日本にとって、元レートが乱高下し、やがて中国経済が低迷に陥ることは国益に適うのか。むしろ、かつて円の乱高下が東南アジア経済を振り回したように、人民元が乱高下すれば日本経済も東アジア経済全体も少なからぬ影響を受けるようになるのではないか。

東アジアに為替安定の仕組みを

人民元問題の正解は、これを機に東アジアが域内通貨安定枠組みを作ることだ。元切り上げは避けられないが、「だから、自由変動相場制へ」ということにはならない。

欧州は1999年のユーロ誕生に至るまで四半世紀の間、域内固定相場制を続けた。投機や各国景気の周期差のせいで頻繁な平価調整を余儀なくされたので、度々「失敗」の烙印を押されたが、それでも努力を止めなかった。平気で赤字を垂れ流す基軸通貨国米国の無責任さを見抜き、「変動相場制が正しい」という宣伝を信じなかったためだ。また、マルク高に苦しんだドイツは近隣と通貨スクラムを組むことによって通貨安定の重荷を周辺国に分担させることにも成功した。

通貨安定という欧州の知恵を借りて東アジアが当面目指すべきは、米ドル・円・ユーロ三極通貨のバスケット制だ。複数国・地域がバスケットを通じたスクラムを組んで、通貨変動へのこうたん抗堪力を高めるべきだ。事実上の円ペッグ制をとる韓国、円との連動性の高い台湾にもバスケット制への移行を促せばよい(図2参照)。

中国がドルペッグと訣別するにしても、代わりの目標と周囲の支えが要る。日本は「合意レートを共通目標として支持する」ことと引き替えに、元切り上げ幅を中国と協議することができる。

東アジアで域内通貨安定のためのバスケット制が普及することは、円を抱える我が国のためにもなるはずだ。ともに東アジアの地域リーダーである日中両国はお互いに「バカの壁」を卒業して、国益、地域益を冷静に長期的に計算すべき時ではないか。

2003年9月号 『フォーサイト』 (新潮社)に掲載

2003年8月21日掲載