2月12、13日にかけて、新聞各紙が「人民元が年内にも切り上げられる」と報じた。
直接の発端は10日から北京で開かれた人民銀行(注:国務院に所属する中国の中央銀行)工作会議の席上、周小川行長が2004年の10大任務のひとつとして「人民元のレート形成メカニズムを改善(「完善」)する」を挙げたことだ。
折しもその数日前の2月7日には先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)がフロリダで開催され、「柔軟な為替相場を欠く主要国・地域にとって、為替相場のさらなる柔軟性が望ましい」という一項を盛り込んだ共同声明を発表したばかりだった。
演説中の「レート形成メカニズム」は何を指しているのか。最近は中国が現行のドルペッグ制に替わる新たな制度として通貨バスケット制を検討しているとの観測が高まっている。この単語を聞いて「ついに中国も腰を上げた」と連想が働くのは無理からぬことといえるかもしれない。報道を受けて、日本では多くの人が「人民元年内切り上げが決まった」と、ビジネスへの織り込みを始めたかもしれないが、「中国人の状況認識は違う」と聞いたら、どうだろう?
G7共同声明に象徴される人民元切り上げの外圧は中国人もひしひしと感じている。「人民元切り上げ(要求)は2003年に中国が遭遇した最大の国際圧力だった」と書いた新聞もあるくらいである(2月12日付け「中華工商時報」)。
外圧だけの問題ではない。外為マーケットでは思惑を孕んで元買いが膨らみ、対抗して当局が行うドル買い介入は貨幣供給を膨らませて、バブルやインフレに火がつきかけている(昨年8月の別稿参照)。現行レート維持の無理は明らかで、中国当局も「時間は残っていない」と感じていることは間違いない。
「人民元、年内切り上げ」報道に対する3つの疑念
しかし、だからといって、上記の人民銀行工作会議における演説を「人民元が年内にも切り上げられる」とか「行長がそれを表明した」というように解釈するのは如何なものか。そう感じる理由は3つある。
第一、日本の報道ぶりがそうなったのには2つの伏線があった。まず工作会議の時期がG7蔵相会議としめしあわせたように重なったことだ。しかし、3月の全人代に先だつ年末から春節前後、各省庁は翌年度の方向付けをするための「工作会議」をいっせいに開く。日本でいえば年末の予算編成から通常国会開会に向かうのと同じ年中行事(政治カレンダー)なのだ。これは方向付けを巡る国務院内の調整、主要演説の起草・調整、おおぜいの参加者の召集など、準備に時間のかかる大仕事のはずであり、臨機応変にG7直後の時期を選ぶ、G7の結果をふまえて内容を手直しするなどという芸当はできそうにない。
もうひとつの伏線は、蔵相会議の直後、中国大陸と香港の双方で「近く人民元が5%程度切り上げられる」という観測記事が相次いで出たせいで、「当局が観測気球を上げた」ように見えたことだ。しかし、人民銀行は直ちにこれを全面否定した。
実際、気球を上げて「観測」すべきものが何かあるだろうか。G7の姿勢に変わりがないことは明らかになったばかりだ。企業は「元切り上げ近し」と見て、ずいぶん前から、預金を元預金に替える、元債務を繰り上げ返済する、リーズ・アンド・ラグズ(貿易を行う企業が将来の為替変動を睨んで、為替予約を意図的に早めたり、遅くしたりする行為)を目一杯行うなど「対応策」に懸命になっている。どれも観測するまでもなく明らかで、気球など上げれば、ますます思惑を誘発してしまう。
第二、報道の発端になった「人民元のレート形成メカニズムを改善する」という表現は人民銀行が昨春(元に対する外圧が高まった頃)から使っており、目新しいものではないということだ。たとえば昨年8月に公表された2003年第二四半期貨幣政策執行報告は、下半期の工作目標のひとつに「人民元レート形成メカニズムをさらに改善する」を挙げている。もし、今回の表現を以て「年内実施で決まり」と解釈するなら、昨年後半に実施されていなければ理屈が合わない。一年近く同じ言葉使いをしてきた人民銀行としては、なぜ海外プレスが今回の言葉使いを以て「年内切り上げを決断」と受け取るのか理解に苦しむ、というところだろう。
第三、最も根本的、かつ直截な疑問は、この時期に「年内切り上げ」といった曖昧な表明をして(したのだ、として)中国は何か得をするのかということだ。「米国から強く要求されているのだから、応ずる意思を表明することには一定の意味があるだろう」などといえば、中国人から「日米貿易摩擦ボケ」と嗤われるのではないか。
いうまでもなく、米国は11月に大統領選挙がある。本当に中国が米国の要求に応じるサインを送ったのだとしたら、ブッシュ政権はどういうだろうか? 「そこまでハラが決まったのなら、もう一声。もっと早く今年前半に切り上げてくれ(そうでないと、有権者に十分売れない)」というはずだ。小出しに譲歩して相手につけ入られるようなやり方は交渉巧者の中国人の採るところではないと思う。
人民元切り上げはいつ、どのように決まるのか?
では、人民元切り上げは何時どのように決まるのだろうか。そこには2つのカギがあると思われる。第一はレート形成メカニズムの変更、さらにはその先に来る資本移動の拡大を実行する前に済ませておかなければならない宿題がたくさん残っていることだ。最大のものは金融機関の体質強化や監督の強化だが、これは一朝一夕に目処の立つものではないから、横に措こう。工作会議に関する報道を読むと、それ以外にも別表のような課題が列挙されている。これらの課題について、どこまでの目処をつけられるか、時間との競争になる。
「為替相場の柔軟性」を要求してきたG7諸国との「腹の探り合い」にも注目する必要がある。各国が導入される新制度を評価するかどうかは今後の人民元レートの安定性を大きく左右する。導入に踏み切っても「全く不十分、失望」と切り捨てられたのでは先が思いやられる。
昨年12月の温家宝総理訪米の際、米国は、中国と人民元問題を協議する専門家チームを設置することで合意したと発表し、米財務省の専門家がこのために訪中する計画も伝えられた。しかし、「原則」にやかましい中国が主権に属する為替制度の問題を他国と「協議」するだろうか?
これに対する中国の発表は「(温家宝総理は)ブッシュ大統領の求めに応じて、我が国の人民元レートメカニズムを紹介した」というだけだが、他方で米側の上記発表を否定したという話も聞かない。
腹探りをする必要のある中国が原則論よりもプラグマティズムを優先させてもおかしくない。スノー財務長官の最近の議会証言を見ると、接触は既に始まっているようだ。「協議」と位置付けるかどうかは別として、両国はこの問題についてさらに「対話」を行っていくのではないか。
人民元レート形成メカニズムを変更するタイミングには、前述した2つのカギの進展如何が重要だ(ほかに時々の内外経済情勢が影響することはいうまでもないが)。このうち宿題の進展度合いは中国の努力を待つしかないが、腹探りの方は日米欧の出方次第である。
日本は人民元の今後について、政治的にはともかく、経済的には米国以上に切実な利害を有する。中国側も最大の貿易パートナーであり、人民元切り上げ論議の火付け役でもあった日本の腹を探る必要があるはずだ。日中も中米と同じように「対話」をしなければならない。どこかで当局間の腹の探り合いが行われることを期待したいものだ。
今年の人民銀行工作会議の重点はインフレ阻止
さて、冒頭の報道ぶりで「元切り上げ」に「ハイジャック」されてしまった観のある、今年の人民銀行工作会議の真の重点は何なのか。それは、過剰投資、それによる景気過熱、インフレを阻止することである。2月10日の会議冒頭で講話した温家宝総理が強調したのもこのことだった。
さらに、人民銀行の周行長は2日目の会議席上で
「少し前までは『インフレだけでなくデフレも防止しなければならない』と言っていたものだが、いまはインフレ防止に重点を置かなければならなくなった」
と演説し、97年から続いてきたデフレ対策重点の貨幣政策が全面的な調整期に入ったことを出席者に印象づけた(2月16日付け「中国経営報」)。
このため10日、人民銀行の工作会議と並行して開かれた銀行監督管理委員会の工作会議では、今年の金融貸出を抑制することを打ち出した。
「競争力が弱い、負債償還能力が低い、信用面の記録が悪い、業種的にリスクの大きな大企業及び(一部地方政府が主導する)『イメージ・プロジェクト』やレベルの低い重複インフラ投資に対しては断じて貸付を行ってはならない。特に当面、不動産融資、土地担保融資、開発区への与信及び債券投資への融資への管理を強化する必要がある」(2月11日付け「京華時報」)
前段に「貸付を行ってはならない」と述べられているのは国有企業向け融資が多い。「断じて」と強調されているのは、各地の地方政府の口利き、介入が依然として四大国有銀行の貸し付けに影響をおよぼす実態があるからだ。
同委員会は2月から、鉄鋼、電解アルミ、セメント、自動車など(盲目的な投資が懸念される)業種に対する貸出について特別検査に入ることも発表した。
「2003年の商業銀行貸付は伸びが速すぎた。とくに(上述の)業種向け貸付は、中でも伸びが最も大きく、潜在リスクが相当大きいため、貸出の質の是正が喫緊事となっている」(上述「京華時報」)
中国は昨夏以降、投資過熱やインフレを警戒して銀行への「窓口指導」や預金準備率引き上げなど、金融の引き締めに転じた。図からもわかるように、これ以降貸出の伸びは鈍化しているが、さらに抑制するという。ブレーキの踏み方がかなり強くなってきた。
同じ方向を指し示す材料はまだある。工作会議と踵を接して、全国の省長・部長級指導者を一堂に集めた「研修」が開催されたという。目的は『イメージ・プロジェクト』に熱中し、CDP成長率だけで発展や個人の功績を競いがちな地方指導者の「発展観」を改めさせ、民衆の生活水準向上を基準として出発する新たな発展観を樹立するように「認識統一」(注:中国ではかなり強い言葉)を図るためと報じられている(上述「経営報」)。研修は経済計画や重要プロジェクトを立案する発展改革委員会の肝煎りで開かれた。投資過熱防止とインフレ阻止は国務院総がかりの最重要政策課題になっているのだ。
金融が引き締めに入ることで、中国の景気は今後下降するだろう。どだい年間9.1%という昨年の成長が速すぎた。特に過剰投資は、高成長をもたらしてもそれは刹那的で、後に深刻な需給不均衡、反動の谷と新たな不良債権を生んでしまう。
いまの中国には地域で見ても業種で見ても、確かにバブルのように過熱した部分がある。ヨーロッパくらいの広がりと多様性のある国だから、これを「中国全土が全面的にバブっている」といった風に勘違いすべきではないが、他方、散見される局部的バブルは今後の金融引き締めで崩壊する可能性が高い。当該「局部」には深刻な問題が生まれるが、やむを得ない。国全体の安定成長を維持するためには、今どうしてもブレーキを踏まざるを得ないのである。
対中戦略を練り直すにはちょうど良い時期を迎えた日本
日本企業もこの調整の「信号」を重視すべきだ。この一両年は3年前の「脅威論」から一転、中国ブームが再来した。日本の中国経済「発展観」は極端から極端に振れる性癖がある。もう一度腰を落ち受けて対中戦略を練り直すにはちょうど良い時期だ。
特に金融引き締めで「金回り」が悪化するから、いつも問題になる売掛代金回収は厳しくなる可能性が高い。中国国内市場を目指す日本企業は販売店が現金買いに来るような人気製品に集中することだ。そういう製品が見当たらない企業は予算を下方修正した方がよいかもしれない。
しかし、たとえ景気が減速しようと中国の成長は今後も続く。中国台頭のもたらすものはもう少し長期的に考えたい。最近中国特需の「爆発」で鉄鉱石などの原材料や用船価格が急上昇した。90年代を通じて、あるいは過去四半世紀の間、世界で続いてきたディスインフレないしデフレの景色が変わり始めたことを示唆しているのかもしれない。
デフレが止まるのなら良い報せだが、そればかりではなさそうだ。先進国の一部業種・企業は川上で原材料高に遭遇する一方、川下の製品市場では「中国コスト」のせいで価格転嫁が進まない、マージンが減少するといった事態に遭遇する可能性がある。中国台頭が先進国経済にもたらす第二の構造改革の圧力波だ。
他方、別のところに良い報せがあるかもしれない。ディスインフレの時代は「北」の先進国ばかりが得をして、「南」の途上国、資源国はずっと損をしてきた印象がある。懸案のWTO新ラウンドも、この南・北の利害損失が変わらないと、交渉機運が恢復しないだろう。ITバブルも崩壊した今、世界を見渡すと、北の先進国に更なる成長の材料が乏しいことを痛感する。それなら、ここで少し「南」にバトンを渡すべきなのかもしれない。そして、中国の台頭がそのきっかけを作るなら、それは新しい「雁行」モデルになるかもしれない(先頭がでかすぎるせいで、後続国は大変ではあるが)。
はっきりしていることは、良きにつけ悪しにつけ我々がそこから受ける影響はますます大きくなるということだ。今度は極端に振れずに、成り行きを複眼的に見据え、対処を誤らないようにしたい。