「開国」は国益につながるか

澤田 康幸
ファカルティフェロー

安倍晋三首相が3月半ばに環太平洋経済連携協定(TPP)への交渉参加を決断し、状況が急展開している。TPPは地域貿易協定(RTA=キーワード参照)の一種だが、自由貿易協定(FTA)のようなモノやサービスの貿易自由化にとどまらず、知的財産保護などの共通ルールを求める「高度」な協定で、経済連携協定(EPA)とも呼ばれる。TPPをはじめ、RTAが世界で急増しているのはなぜだろう。そして日本の国益や世界全体の利益になるのだろうか。近年の経済学研究を手掛かりに考えてみたい。

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TPPと並行し、先月末には日中韓FTAの第1回交渉が行われ、今月末には日豪のEPA交渉が最終合意・妥結する見通しだ。日中韓印豪ニュージーランドの6力国が東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国とともに5つのFTAを束ねる東アジア地域包括的経済連携の交渉も立ち上がった。こうした動きは世界規模で進展している(図)。

図:地域貿易協定(RTA)の数
図:地域貿易協定(RTA)の数
(出所)世界貿易機関(WTO)、累積値

他方、世界貿易機関(WTO)における多国間の貿易交渉は進んでいない。米カリフォルニア大学のアンドリュー・ローズ教授は、2004年の論文でWTOとその前身である関税貿易一般協定(GATT)への加盟が必ずしも貿易促進にはつながらなかったという実証研究を報告した。この研究には米スタンフォード大学のマイケル・トムズ教授らが再検討を加えたが、結局GATT/WTOの効果はあったとしても小さいと考えられ、そうした限界が進展を妨げている可能性がある。

対照的に地域経済統合は急速に進んでおり、ジュネーブ国際高等問題研究所のリチャード・ボールドウィン教授は、1993年の論文で、世界各国が「ドミノ倒し」のように次々とRTAを締結する構造を明らかにした。これが多国間貿易自由化のステップになっている可能性がある。

事実、米クレムソン大学のスコット・バイアー准教授らは、FTAを締結したメンバー間で10年間に2国間貿易が約2倍になっていたという「貿易創出効果」を発見した。では、このドミノ効果はどこから生まれたのであろうか。RTAの経済効果については、古くから「貿易創出効果」「貿易転換効果」という2つの効果が議論されている(キーワード参照)。

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ある国がRTAへの参加に遅れると、輸出先を失い痛手を被る。そのため時流に遅れまいとし、RTAに参加しようとするであろう。こうした側面について、近年ゲーム理論を用いた政治経済的な分析や、企業行動の理論をもとに精緻なデータ解析を行う実証研究などが盛んになった。

米プリンストン大学のジーン・グロスマン教授と米ハーバード大学のエルハナン・ヘルプマン教授は、94年の論文で、政治献金によって複数の業界団体がロビー活動を行い、政府の貿易政策に影響を与える構造を示した。先のボールドウィン論文が指摘したように、この研究は次のような理論的帰結を示唆する。

あるRTAが形成されると、そこから排除された非加盟国では貿易転換効果により輸出市場が縮小する。すると非加盟国の輸出産業は市場を確保するため、政治献金を用いて政府にRTAに参加するよう促し、政府もそれに応えるようになる。こうした事態はドミノ倒しのように次々と起こりうる。

この「ドミノ理論」を検証するため、先のボールドウィン教授らは、12年の論文で77年から05年の100力国以上に及ぶ国の貿易データに緻密な解析を加えた。結果、理論通り、貿易転換効果の恐れから、次々とFTAが形成されていったことが示された。注目すべきは、国内政治的な動機が現実の貿易政策を突き動かしているという厳密な証拠が明らかにされた点である。

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第2次世界大戦後、国際貿易は目覚ましく拡大したが、これは利益があったからこそだろう。英ノッティンガム大学のダニエル・バンフォーフェン教授と米クラーク大学のジョン・ブラウン教授は、05年に発表した論文で、鎖国状態から急速に経済開放が進められた日本の幕末と明治初期の状況を比較した。結果、「開国」によって1人当たり国内総生産(GDP)が約8~9%上昇したことを発見した。現代でも、こうした貿易の利益はあるのだろうか。

加トロント大学のダニエル・トレフラー教授は04年の論文で、89年に発効した米加FTAの影響を検証している。分析によれば、短期的にカナダの製造業雇用が5%減少したものの、平均的な労働生産性は約6%向上し、経済全体に利益をもたらした可能性を示した。このような効果は、生産性の低い企業が退出し、高い企業のシェアが高まることによるものである。

このように貿易自由化が企業の選別を通じて経済全体の生産性を改善させるメカニズムは、ハーバード大学のマーク・メリッツ教授が03年に発表した論文で理論的に示した。この「メリッツモデル」は様々な研究を誘発した。

例えば、加ヨーク大学のアラ・リレーバ准教授らは10年の論文で、米加FTAが締結され対米関税が引き下げられた結果、カナダの輸出企業で生産性上昇がみられたことを報告している。メキシコ自治工科大学の手島健介助教授は10年の論文で、メキシコの北米自由貿易協定(NAFTA)や欧州連合(EU)との貿易協定が、企業の選別だけでなく企業の研究開発投資を刺激し、競争促進効果を生み出すことを示した。香港科学技術大学のアルバート・パク教授らも10年の論文で、アジア通貨危機前後の中国のデータを用い、輸出が生産性向上効果を持つという「輸出を通じた学習効果」を示した。

日本を対象とした研究も、経済産業研究所などを中心に進んだ。京都大学の若杉隆平名誉教授と東京大学の戸堂康之教授は11年の論文で、輸出を開始した企業は開始しなかった企業に比して4年後で30%程度労働生産性が高くなっていることを発見した。輸出に関する同様の効果は、慶応大学の木村福成教授と横浜国立大学の清田耕造准教授の06年の論文でも条件付きながら見いだされている。

林文夫一橋大学教授とエドワード・プレスコット米アリゾナ州立大学教授が02年に発表した論文以来、バブル崩壊後の日本経済低迷の理由が経済全体の生産性低下にあるという考え方が有力な説の1つとなってきた。もしこうした見方が正しいとすれば、幕末、第2次大戦後に次ぐ、いわば「第3の開国」たるTPP参加は、企業の選別と生産性改善を通じ将来の経済成長の礎になりうるかもしれない。

最後に、RTAが拡大することは、世界の自由貿易の積み石なのだろうか。それともつまずきの石なのだろうか。米プリンストン大学のポール・クルーグマン教授は91年の論文で、世界が北米大陸、欧州、アジアの3経済ブロックに分断された場合、各国の厚生水準が最低となる理論的可能性を示した。TPPはアジアと米国を含む巨大なRTAで、こうした問題を解決する重要な可能性を秘めている。日本は狭義の国益にとらわれず、世界全体の利益のためにもリーダーシップを発揮することが求められているのではないだろうか。

キーワード

  • 【地域貿易協定(RTA)】
    2国間、もしくは限られた数力国の間だけで関税を撤廃するなどして貿易を自由化する地域差別的な貿易協定を指す。域内でのモノ・サービス貿易の自由化を求める自由貿易協定(FTA)などが代表的である。全ての加盟国を無差別に扱うという「最恵国待遇」を基本とする世界貿易機関(WTO)では、例外として一定の条件の下で認められている。
  • 【貿易創出効果・貿易転換効果】
    RTAに加盟すると、加盟国間の関税が撤廃されることで貿易のゆがみが取り除かれ、加盟国間の貿易が創出されるという効果を「貿易創出効果」と呼んでいる。他方、より効率的に財を生産している非加盟国からの輸入が、RTAの発効で、より非効率的な生産を行っている加盟国からの輸入に転換される効果のことを「貿易転換効果」と呼んでいる。

2013年4月18日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2013年5月8日掲載

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