2019年に幼児教育・保育無償化が始まった日本に先駆けて、カナダのケベック州では1997年から大幅な保育料引き下げが行われた。約20年経過した頃から、同州の保育料引き下げの帰結を分析した論文が注目を浴びている。保育料引き下げ後に保育所を利用した子どもたちが20歳代になったときの非認知能力、健康、生活満足度、犯罪関与にマイナスの影響があったというのだ。
保育料引き下げが子どもたちに悪影響を与えたメカニズムについては現在も議論が続いているが、多くの研究者が注視しているのが幼児教育の「質」である。ケベック州の幼児教育について長年研究を行ってきたケベック大学モントリオール校のクリスタ・ジャペル教授によって、利用料引き下げ以降に新設された保育所の質の低さが悪影響の原因である可能性が指摘されているからだ。
幼児教育の「質」を知ることはできるか。学習院大学の深井太洋准教授、慶応義塾大学のレ・クン・チエン特任助教らとともに、「保育環境評価スケール」を用いて、保育の質の数値化を試みてきた。
この評価方法では、複数人の評価者を保育所や幼稚園に約3時間半派遣し、500近い指標についてチェックをする。そして、評定を一定の計算方法のルールに従って、1〜7点に変換。1点は「不適切」、3点は「最低限」、5点は「よい」、7点は「とてもよい」と評価する。総合的な質だけでなく、「空間と家具」「養護」「言葉と文字」「活動」「相互関係」「保育の構造」という領域別の6つの質も算出できる。
米国と比べて質が高い
筆者らは、千葉県など首都圏の複数の自治体と協力し、認可保育所や幼稚園を対象に、幼児教育の質を数値化した。その結果、米国と比べて日本の幼児教育の質は高いといえそうだが、保育所や幼稚園による差は大きいことがわかった。
東京都の自治体Xと協力し、5歳時点で市内の保育所に通っていた園児について小学校入学後まで追跡調査を行った。5歳時点で質の高い保育所に通っていた子どもたちは、小学校2年生時点の学力が高いことがわかっている。具体的には、5歳時点で通っていた保育所の、保育環境評価スケールによる幼児教育の質が1点高いと、小学校2年生時点の算数の学力テスト成績が0.52SD(標準偏差)、国語では0.55SDも高くなる。
そうすると次の課題は、どうすれば幼児教育の質を高められるのか、ということになる。筆者らの研究グループは2つの実験を行った。1つは、東京都の自治体Xと協力し、保育環境評価スケールの結果に基づいて専門家が1時間程度のフィードバックを行うというものだ。
前述のように、保育環境評価スケールは3点が「最低限」という評価になる。そのため、全35項目のうち、3点を下回った項目のみに焦点を絞り、専門家がクラスの担任保育士と所長・園長に「なぜ当該の項目が3点を下回ったのか」を説明した後、どうすれば改善できるかを議論した。
現場の多忙を考慮し、フィードバックはできる限り簡潔に、全部で1時間以内に収まるよう工夫した。そして、正確な効果検証を行うため、市内の全認可保育所・幼稚園のうち半数の施設・園をランダムに選んでフィードバックを行った。その結果、1時間のフィードバックを受けた施設・園は、受けなかった施設・園と比べて、保育環境評価スケールのスコアが(7点満点中)0.52点上昇していることが明らかになった。
もう1つの実験は、民間企業2社と共同で行った。乳幼児向けおもちゃのサブスクリプションサービス「トイサブ!」を提供するトラーナ社と、東京都の別の自治体で複数の保育所を経営する企業だ。
この実験では、子どもたちの発達を促す観点から、専門家との議論を経て画像のようなおもちゃを、後者の経営する保育所向けに提供してもらうこととした。
上記の図からも明らかなとおり、保育環境評価スケールの中でとくにスコアが低いのは「活動」のサブスケールである。微細運動、造形、音楽やリズム、積み木、ごっこ遊び、自然科学、数・量・形に親しむ遊びなどが展開されているかどうかを評価する。
おもちゃと「活動」スコア
おもちゃの提供によって「活動」のスコアが上昇するかどうかの正確な効果検証を行うため、トラーナ社のおもちゃを使うクラス/使わないクラスをランダムに振り分けた(不公平のないよう翌年以降のおもちゃの割り当てを含めて配慮した)。
その結果、おもちゃを使用していたクラスは、使用していなかったクラスよりも、保育環境評価スケールの「活動」のスコアが(7点満点中)0.3点上昇したことが明らかになった。提供されたおもちゃを保育室に置くという簡単な介入だが、遊びの幅が広がる遊具・玩具の質・量を確保することで「活動」のスコアが上昇した、というのは朗報だ。子どもの成長に合わせて適切なタイミングで遊具・玩具を使うことで、保育者と子どもたちとの関わりの質が高まるのかもしれない。
(本稿の参考文献等は、テルマ・ハームス、リチャード・M.クリフォード、デビィ・クレア著、埋橋玲子訳(2016)『新・保育環境評価スケール①〈3歳以上〉』をご参照ください。)
週刊東洋経済 2024年10月26日号に掲載