対アジア、日本が主導

小寺 彰
ファカルティフェロー

日本はメキシコとの自由貿易協定(FTA)の締結で合意し、次はアジア4カ国との交渉が焦点になる。各国ともFTAの経験に乏しく、交渉で大きな役割を担う日本は、東アジアの将来もにらんだ戦略を求められる。また農業は「直接支払い政策」に転換できるか正念場を迎える。

メキシコはFTA先進国

メキシコとのFTA交渉が実質的に妥結した。昨年の10月を目指していたのだから、予定より5カ月遅れた。これで日本が締結したFTAは、対シンガポールと合わせて2つになり、現在交渉中のタイ、マレーシア、フィリピン、韓国とのFTA交渉にはずみがつくと期待が高まっている。

シンガポールとのFTAは、経済的な効果よりも、日本がFTAを結ぶということを内外に示す政治的な意味の方が大きかった。メキシコとのFTAは、農業問題でいったん交渉決裂さえ危惧されたように、関税の撤廃・引き下げや政府調達市場の開放などによって両国の市場を開く、正真正銘のFTAである。

一説では日本企業にとって年間4000億円の経済効果があると言われる。また日本のFTA政策のアキレス腱と言われてきた農業分野で、豚やオレンジについて実質的な譲歩を行った点も評価されよう。それでは、日本はこれを踏み台として一挙にタイなどとのFTA交渉を妥結できるだろうか。

メキシコとのFTAを評価するうえで忘れてはならないことは、すでにメキシコは米国をはじめ30余りの諸国・地域とFTAを結んでいる、「FTA先進国」だということである。今回の交渉では、日本が足元を見られた感があったが、メキシコが豊富なFTA締結経験を持っていることを考えれば当然だろう。

メキシコが多くの国とFTAを結んでいるために、FTAなしの日本企業は、米国や欧州連合(EU)などFTAを結んでいる国の企業と、対等に競争できない状態だった。メキシコでの日本企業の活動を考えると、FTAを結ぶ以外に選択肢はなかった。また、こういう状態ゆえにFTAのお手本が数多くあったことも事実である。メキシコとのFTAは、メキシコと強い経済的なきずなを結ぶためというより、諸外国と対等になるためのものだ。

メキシコとの協定は「経済連携協定」とよばれるが、焦点は、日本については農産品の、またメキシコについては、自動車や鉄鋼など鉱工業品の関税上の扱いだった。経済連携協定では幅広い経済上の関係構築を目指すとはいえ、その核心が関税の撤廃や引き下げなどの市場開放にあることもはっきり示された。

またFTA締結の障害と言われた、日本の農業分野に目を転じると、焦点となった豚肉やオレンジでは関税撤廃までは進まず、低率関税枠の設定で妥協にこぎ着けた。日本の農業政策を大きく変えることなく交渉妥結が可能になった。

タイなどの東南アジア3カ国は、メキシコとは違って、まだFTAを結んだことがない。韓国もようやくチリと初めてのFTAを締結した。東南アジア諸国連合(ASEAN)が域内に設定しているASEAN自由貿易地域(AFTA)は、ASEAN諸国が途上国のため、日本が結ぶような本格的なFTAではなく、関税貿易一般協定の決議(授権条項、途上国が許される保護特例)に基づく準FTAである。またASEAN諸国が現在、中国と交渉しているものも、同様に準FTAになる可能性が高い。準FTAなら関税を撤廃する必要はない。

関係深化で反日感情も

タイなど3カ国や韓国にとっては、ちょうどメキシコが1994年に米国・カナダと北米自由貿易協定(NAFTA)を結成して、今日のFTA政策に大きく舵を切り始めた状況と似ている。当時のメキシコ国内では、NAFTA結成によって経済体制の自由化を進めることの是非、引いては米国の影響力増大への恐れが盛んに主張された。タイなども日本とFTAを結べば大きな影響を受けることが予想される。

つまり、メキシコとのFTAとは違い、日本がこれらの諸国とFTAを締結すれば、日本とこれら諸国との関係は格段に強まり(特別な関係の設定)、またその産業政策を大きく枠づける可能性がある(戦略的FTA)。特別な関係の設定は、ときに反日感情をあおる可能性をもつ。

韓国では、過去の経緯から、相当に強い反対論が出てくることを覚悟する必要がある。さらにマレーシアはFTAの目的を自由化とはとらえず、協力の重要性を説いていると伝えられる。メキシコとは、お互いに自由化要求をぶつけて妥協点を探るという、普通のFTA交渉が行われた。タイなどとも同じ態度で臨めるのだろうか。

マレーシアの言い方は、FTAによってマレーシアの自動車市場を開放させないぞというけん制であろうが、タイ、マレーシア、フィリピン3国は自国市場はあまり開放せず、日本市場だけの開放を求めているような気がしてならない。日本はこのような諸国にどう対応するのか。友好関係の増進の名のもとに日本からの自由化要求を自発的に抑えるのか。

日本とASEAN諸国の将来のあり方がかかわるだけに、メキシコとの交渉のように単純に経済的な利害だけに目を据えて交渉することはできない。これら諸国の将来の経済体制をどのような方向に向けていくのかという哲学・構想力が、日本の側に必要だ。

この点の扱いが難しいのは、FTAの独特の性格のためである。世界貿易機関(WTO)では、大国がある国から勝ち得た自由化は、その他の国にも等しく適用される。あとに米国の交渉が控えていると思えば、適当な線で妥結させて米国の交渉を見守り、そこで得られた果実をともに味わうことが可能だ(中国とのWTO加盟交渉は好例)。

FTAでは、特定国が得た条件が他国に適用される保証はない。日本が交渉を急ぐあまり不利なFTAを結び、その後に米国がその国と、日本より良い条件でFTAを結ぶと、日本製品・日本企業は、米国製品・米国企業より当該国で不利な扱いを受けることになる。

メキシコとのFTAでは、NAFTAがあるために、日本はそれを基準にしてNAFTA並を主張できた。しかし、タイなどとのFTAでは、そのような基準はなく、いわば日本が基準を作る役割を担う。タイなどとのFTAにおいて経済協力を強く打ち出しても、自由化の国際基準を設定できるのだろうか。難しい選択を迫られることになろう。

農産品自由化要求は必至

またタイなどとの交渉では、幅広い農産品の自由化要求が日本に突きつけられよう。メキシコFTAにおける豚やオレンジのように、重要品目について低率関税枠の設定というびほう策では乗り切れまい(メキシコとのFTAでは日本の関税撤廃率が9割に達せず、WTO適合性が問題になる可能性がある)。生産性の低い日本の農産品について、関税による水際の保護が効果を失うことへの対応を考えなければならない。

欧米の農業保護は農家への直接支払いによる所得保障によって行われ、水際保護は補完的な役割を果たすにすぎない。このような体制ゆえに、米国やEUは、FTAを数多く結んで農産品の関税を原則撤廃しても農業を保護できる。

日本がFTAを多くの国と迅速に結んでいくためには、農家への直接支払いによる農業保護に転換する必要があることは、専門家の間では一致している。農家が直接政府から現金を受け取ることを、当の農家を含めて国民感情が許すか。また直接払いが望ましいという方向性が生まれたとして、緊縮財政のもとで財源をどう捻出するか。日本の農政は正念場を迎えよう。

メキシコとのFTAが妥結したからといって、すぐにタイなどと年内に合意する道筋が見えたとは言えない。ただし、メキシコの例を持ち出すまでもなく、FTAを結ぶごとに、その締結のノウハウが蓄積されることは間違いない。

実質のほとんどないシンガポールとの経済連携協定は、本当の意味でFTAを結んだとは言えなかった。メキシコとのFTAが、実質的には初めてのFTAである。将来を見渡せば、メキシコとのFTAによって、より戦略的な役割を持つFTA締結という、次のステージへの足がかりができたというのが適切な評価と言えようか。

2004年3月16日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2004年3月18日掲載

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