米WTI原油先物価格は、中東地域の地政学リスクの上昇にもかかわらず、1バレル=60ドル台後半にまで下落している。
米国がイランへの制裁を開始
地政学リスクとして第一に挙げられるのはイランに対する米国の制裁開始である。
8月からはイラン政府によるドル購入の制限などが始まり、市場関係者が最も注目している原油関連の制裁は11月から始まる。
制裁開始を前に、イランと米国の舌戦が緊迫化している。米国の制裁に反発したイランのロウハニ大統領が、原油輸送の要衝であるホルムズ海峡の封鎖や軍事衝突も辞さない構えを示したのに対し、トランプ大統領は7月22日、ツイッターで「米国を脅せば歴史上経験したことのない重大な結末を招くことになる」と警告した。
その後、「米軍はイランへの軍事攻撃(核施設が対象)を準備している」と豪州メディアが報じたために、7月27日、マティス米国防長官が記者団に対して「現時点では(イランへの軍事攻撃は)検討されていないと確信している。作り話だ」と火消しに走る事態を招いた。
フーシの攻撃にさらされるサウジアラビア
中東地域の地政学リスクはイランだけではない。
7月25日、サウジアラビアが主導しイエメンの暫定政権を支援するアラブ連合軍は、「イエメン沖のバブ・エル・マンデブ海峡で原油タンカー(積載能力は各々200万バレル)2隻がフーシ派(イエメンのシーア派反政府武装組織)の攻撃を受け軽微な損傷が生じた。このため原油タンカーが同海峡を通過することを一時禁止する」と発表した。
バブ・エル・マンデブ海峡は幅約30キロメートル、スエズ運河の開通(1869年)以来、地中海とインド洋を結ぶ海上交通の要衝である。同海峡を往来する原油タンカーは年間2万隻以上に上り、2016年には日量480万バレルの原油が輸送されている。
フーシ派がイエメン沖を通過する船舶を攻撃した事例はこれまでもあるが、船舶を撃沈するほどの被害は生じさせておらず(今回の攻撃でも負傷者や原油流出の被害はない)、同海峡の海上交通に致命的な影響を与える可能性は乏しい。また、バブ・エル・マンデブ海峡の原油輸送量はホルムズ海峡(今年上期の平均は日量2200万バレル)ほど大量でない。サウジアラビアは陸上のパイプラインを活用して同海峡の原油輸送を回避することもできる。
よって、現時点で原油タンカーが同海峡を通過することを禁じられても、国際的な石油の供給や価格に大きな影響は出ないとの見方が一般的である。
だが、影響はこれだけにとどまらない。フーシ派がバブ・エル・マンデブ海峡を航行する船舶に攻撃を加えたという事実は、アラブ連合軍がイエメンで6月中旬から実施している「黄金の勝利作戦」が効を奏していないこと意味するからだ。アラブ連合軍は6月13日、紅海沿いの主要港であるホデイダをフーシ派から奪還する大規模な軍事作戦を始めた。港と空港を奪還してフーシ派を追い込み、和平協議のテーブルに着かせるのが狙いである。攻撃開始直後に空港は奪還したもののフーシ派が抵抗を続けているため、戦闘は膠着状態となっている。
フーシ派は防御ばかりではなく反転攻勢にも出ている。7月18日、フーシ派は無人機を用いてサウジアラビアの首都リヤドにあるサウジアラムコの製油所を攻撃した(建物は炎上したが、石油施設の被害は不明)。フーシ派はこれまで弾道ミサイルなどで首都リヤドなどへの攻撃を繰り返していたが、無人機を使用したのは今回が初めてである。また19日、サウジアラビア国内のアラブ連合軍の司令部を無人機で攻撃した(死傷者は数名)。さらに26日には射程距離が1000キロメートルに及ぶ無人機を用いてアラブ首長国連邦(UAE、アラブ連合軍の一翼を担う)のアブダビ空港を攻撃した。
世界の原油供給量は今後も増加?
フーシの攻撃はサウジアラビアの原油生産に深刻な打撃を与えるものではないが、原油市場が上昇勢いの局面であれば、現実の需給への影響にかかわらず原油価格は急騰していたことだろう。しかし、実際には急騰はしていない。
地政学リスクが上昇しても、なぜ原油価格は急騰しないのだろうか。
原油市場は7月10日頃までは強気一色だったが、直近では「地政学リスクは想定済みであり、長期的な相場上昇を支える材料になり難い環境となっている」との認識が広まっている。米国商品先物取引委員会(CFTC)によれば、ヘッジファンドの買い越し幅は縮小傾向を続けており、「WTI原油先物価格は昨年8月からの1年間で約30ドル上昇したが、下落トレンドに入るのは時間の問題ではないか」との声も聞こえ始めている。
その背景には、原油市場が供給過剰になるとの懸念がある(7月20日付OILPRICE)。
ロイター調査によれば、7月のOPECの原油生産量は日量3264万バレルと今年最高となった。減産遵守率は111%まで低下し、サウジアラビアの生産量は減産合意枠を10万バレル強上回る水準となっている。イランの生産量は前月比10万バレル減少したが、ベネズエラの生産量は前月比1万バレル減に留まっている。
ロシアも増産の姿勢を鮮明にしつつある。ロシアのノヴァク・エネルギー相は7月28日、ウォール・ストリート・ジャーナルのインタビューで「OPECをはじめとする主要産油国は追加で日量100万バレルを増産する可能性が協議されるかもしれない」と述べた。6月のOPEC総会などで主要産油国は日量100万バレルの増産が決定されたばかりであり、ロシアが機動的な増産に積極的な姿勢を示していることから、「有事の際の原油供給不足はあまり大きな材料にならない」と市場関係者は考え始めている。
米国でも、輸送能力不足のせいで主要生産地のパーミアン鉱区での生産の伸びが鈍化しているものの、足元の原油生産量は過去最高水準を維持している。米国政府が原油価格の高騰を抑えるため戦略石油備蓄(SPR)を放出する可能性もあることから、原油需給が逼迫しづらいとの見方が高まっている。
トランプ大統領のイラン制裁の強硬姿勢(イランの原油輸出をゼロにする)は口先だけではないかとの指摘もある(7月24日付ロイター)。イランの原油輸出(日量270万バレル)が全量停止すれば米国内のガソリン価格は高くなり中間選挙で不利になるからだ。
米エネルギー省の最新の分析によれば、世界の原油供給量は日量1億バレルを突破しており、世界の総原油供給量は今後も右肩上がりで増加していく可能性がある。
さらに市場関係者の間で、需要面での心配も意識されるようになっている。それは、米中の貿易摩擦が原油需要に与える悪影響である。
アルゼンチンのブエノスアイレスで開催されたG20財務相・中央銀行総裁会議は7月22日、「貿易摩擦や地政学的緊張を背景に世界経済の下振れリスクが高まっている」とする共同声明を採択した。貿易戦争に対してトランプ政権が強硬であるとの認識が原油トレーダーの間でようやく浸透してきた(7月23日付ロイター)。
2014年の逆オイルショックとの類似点
筆者は現在の状況が「逆オイルショックの再来」が生じた2014年6月に類似しているのではないかと感じている。
2011年から1バレル=100ドル前後で推移していたWTI原油先物価格は、2014年6月半ば以降軟調となり、その後、半年で50%急落した。
急落の発端は同年6月にサウジアラビアがイスラム国の樹立宣言に動揺した原油市場を鎮静化させるために日量15万バレルの増産を行ったことにある。当時アナリストらが「原油価格は114ドルを超えてどこまで上昇するだろうか」と強気の予測をしていたことから、イラクとリビアも増産に走ったことで、OPECの3カ月間の増産量は2013年の年間増産量を上回る規模(日量83万バレル)に達した。この増産が世界の原油需要の伸びが鈍化する時期と重なったことから、原油価格は9月にかけて10ドル下落する。さらに、10月の米FRB(連邦準備制度理事会)の量的緩和終了や11月のOPEC総会の決定(目標生産量の据え置き)なども災いして、原油価格は50ドル台まで急落した。
現在の状況に戻ると、イランでは通貨安に伴う物価上昇が深刻で、経済の苦境が深まっている。サウジアラビアでもサウジアラムコのIPO(株式公開)が暗礁に乗り上げ、雇用状況が一向に改善しないことから、「ビジョン2030(2020年までに石油依存経済から脱却し、100万人分の雇用を創出する)」の成功が危ぶまれている。イエメンの軍事介入の財政への圧迫は致命的になりつつある。その他の湾岸産油国の経済状態も一向に改善していないことから、OPECが今後再び減産に再び舵を切るのは困難になりつつある。
米株式市場のバブルは崩壊するのか
一方原油価格の下落を望むトランプ政権にも意外な「落とし穴」がある。
経済アナリストの市岡繁男氏は「原油価格が下落すれば米株式市場のバブルは崩壊する」と警鐘を鳴らしている(週刊エコノミスト2018年8月7日号)。
企業収益が改善しない中で株式市場が好調を維持し続けているのは、社債発行を原資に自社株買いを企業が行っているからだが、米国の長期金利が上昇しているにもかかわらず信用スプレッド(国債と社債の金利差)が拡大していない。注目すべきは、金利上昇局面で社債の中で最も売られるはずのジャンク債と10年物国債の信用スプレッドが縮小していることだ。その理由を市岡氏は「原油価格が高騰している」ことに求めている。
米ジャンク債市場における石油関連企業の割合は1割程度だが、「その動向はジャンク債市場全体に強い影響を及ぼす」と市岡氏は主張する。これが正しいとすれば、原油価格が下落すればジャンク債の信用スプレッドが拡大し株価が失速することになり、トランプ政権で続いてきた「高株価ラリー」は一巻の終わりとなる。
米国の第2四半期の経済成長率は前期比4.1%増と好調だったが、ハイテク株の一部や住宅市場に不穏な兆しが出始めている(7月26日付日本経済新聞)。原油価格の下落 → 株価の下落 → 景気の悪化 → 原油価格の下落という悪循環が米国経済で生じれば、「逆オイルショックの再来」の再来も杞憂ではなくなる。
米シティグループの専門家は「原油価格は1年以内に1バレル=45ドルまで下落する可能性がある」と述べた(7月25日付OILPRICE)。原油価格はその予測を上回るペースで下落するかもしれない。
2018年8月3日 JBpressに掲載