新型コロナウイルスのパンデミックの勢いが止まらない。日本でも新型コロナの「第3波」襲来により、政府は「勝負の3週間」と感染防止対策を強化せざるを得ない事態に追い込まれているが、新型コロナとの「終わりの見えない闘い」は人々の心に大きなダメージを与えつつある。
コロナ禍の日本でも、「穏やかな性格の人が怒りっぽくなった」「SNSであまり発言しなかった人がコロナ対策の情報を積極的に発信するようになった」「自分の利益ばかり考えていた人が支援活動に精を出すようになった」など人々の行動に変容の兆しが出始めている。「自粛生活が続くことによるフラストレーション」が主な原因だとされているようだが、筆者は「それだけではない」と考えている。
私たちは1年近くにわたり、新型コロナに関する「死」についての情報を大量に浴び、知らず知らずのうちに「死」に対する漠然とした不安や恐怖を掻き立てられている。しかし人はこのような恐怖心に無防備でいられず、なんらかの防衛手段をとらざるを得なくなるのではないだろうか。
社会心理学の分野には「存在脅威管理理論」という考え方がある。存在脅威管理理論とは「自分の命についての漠然的な恐怖心を抱くと、人は自らが信頼する世界観(文化的世界観)を利用して、自らの恐怖心を緩和しようとする自衛メカニズムを作動させる」という考え方である。人は高度な認知機能を獲得したことで、「自分はいつか死んでしまう」という認識から生まれる恐怖を抱くようになった。存在論的恐怖と呼ばれるものであるが、無意識のレベルにとどまっていることが多く、はっきりと意識されることは少ないといわれている。
一般的な恐怖であれば、その対象を回避したり解決したりすることも可能かもしれないが、「いつか死んでしまう」という事実を解決することは不可能である。存在論的恐怖が解決不可能なのにもかかわらず、私たちが人生を悲観していないのは、存在論的恐怖を和らげる文化的世界観を持っているからだというわけである。
文化的世界観とは、「『自分の存在は死を越えて、なんらかの形で存在し続ける』ことを人々に確信させる信念」のことである。人生になんらかの意味を与えてくれる信念と合致する行動をとっているという自尊心を持つことによって、「自分の存在の有限性」を乗り越え、死の恐怖から身を守っているのである。
「文化的世界観などという大げさなものを持っていない」と考える日本人は多いだろう(筆者もその1人である)が、心配は無用である。恋人や子ども、あるいは親友といった近しい人々との関係(つながり)が存在論的恐怖を緩衝する効果を持つことがわかってきている。他者との親密な関係が「自分が社会的実体の一部である」ことを感じさせてくれることは、文化的世界観と同様「自分の存在の有限性」を越える効果を有する。