財政の枠組み転換急げ -税制、簡素化し弾力運用を-

青木 昌彦
RIETI所長・CRO

93年を境に制度的変化

後世の歴史家は、93年辺りを境として日本が制度的変化の時代に入ったとみるだろう。バブルの破裂が事後的に認知され、自民党の一党支配が終わったころである。それ以来、それまで当然と思われてきた様々な社会の約束事に揺らぎが生じるようになった。だが、全体としての制度のあり方にもう1つ変化の実感が乏しいのはなぜか。それは政治と経済、政と民、さらには官と官、官と政などの関係からなる、いわば「国のかたち(国家)」が旧態依然のままにあるからではないか。民間領域の様々な革新的努力をのばし、活力ある日本モデルを進化させるには、補完的な政治・行政の抜本的な改革が必要である。

制度としての国家の根幹をなすのは、財政である。政府は広い意味での公共財サービスを提供する義務と引き換えに、その活動をファイナンスするため徴税権をもっている。しかし、政府がそのような力を持つということは、国民の(一部の)私的財産権を一方的に侵害する能力を潜在的にもつということでもある。

この基本的な構造から政府の権限の恣意(しい)的な行使を抑制したり、あるいは逆にそれを許容したりするような様々な制度的仕組み、つまり「国のかたち」が生まれてくる。いま日本では、そうした「かたち」そのものが問われているのではないか。

経済が停滞しているとはいえ、家計にはまだ1400兆円もの金融資産があると人は言う。しかし実際には、その半分はすでに政府債務のツケとして目減りしている。しかも、その支払いの大方は将来世代に及ぶので、深刻な世代間分配の問題を我々は抱え込んでいる。

将来を省みず、やみくもに財政支出の拡大による景気対策に突っ走るのは旧世代のエゴである。逆に行政簡素化や国債発行制限を叫ぶだけでも抜本的解決策にならない。国民(納税者)が政府活動の効率性・公平性をモニターしうる仕組みが問われている。

規律をもった国のかたちに

まず財政支出決定のメカニズムをみよう。現在、その根幹をなしているのは、財務省主計局による集中的な予算の事前査定と予算の厳密な年度内実施である。しかしますます複雑化し、変化の激しいこの世の中で、こうしたメカニズムにはいろいろな無理が生じている。

主計官個々人の資質やモラルを問題にしているのではない。たとえ主観的には禁欲的、中立的で、有能な主計官であっても各省から提出される精細な予算要求の妥当性を事前にゼロベースで評価し判断することは難しい。そこでルーチン化した予算項目について毎年、増減分を巡って要求官庁との交渉が行われる。

その結果、予算節約ではなく、その積み増しという成果が要求省庁の担当官のキャリア上の実績となる。新規の予算項目の実現には数年に及ぶ「慎重」な交渉と予備費支出の期間を経過しなければならない。現在のメカニズムには、支出の膨張化・硬直化の慣性がビルトインされている。

事前査定から事後評価へのパラダイム的転換が必要である。例えば次のようなメカニズムである。経済財政諮問会議が内閣の政策の優先順位に従って財政支出の機能的分配の基本方針を定め、それに従い財務省が予算の省庁配分案を作成し、国会の審議、議決を仰ぐ。国会の決定に基づき、各省庁はより具体的な予算を作成するが、実際の支出は単年を越えて機動的にファインチューニングしうる。そして財務省は専門家の助言を得ながら各省庁の財政支出効果の事後的評価を厳しくおこない、国会に報告する。

こうした事後評価のフィードバックのメカニズムが、各省庁における予算のむだ遣いを抑制する。政治家はより基本的な政策論議によって予算作成過程に参加することにより、個別利益の媒介者という従来のイメージから脱却できる。

第2に、税制面の改革である。日本では税制の中立性・専門性と言う名目のもとに、複雑怪奇な税制の網の目ができあがった。税制変更にかんする自民党税調による排他的、専制的な役割にも批判が高まっている。税制の硬直性のもとで、景気対策はもっぱら予算の支出面の操作で行われてきたが、公共支出の雇用創出の乗数効果は弱いことも明らかになった。

むしろ中立的な法人税負担の軽減などによって投資と新規雇用を動機づけるような税制の活用が望まれる。こうしたパラダイム変化もまた、内閣の主導権の発揮を要請するであろう。党政治家による税制に関する知見は、内閣や国会・公論の場など透明な過程を通じて発揮されるべきだ。

さらに税制改革では、課税対象を一般的なルールに従って拡大することも必要である。これは単に財政収入を増加させるという便宜的な目的によるばかりではない。

税を払わない国民にとっては国家(政治家)はそこから経済便益(レント)を一方的に引き出す甘えの対象でしかない。中小企業が私的浪費によって赤字状態を作為的に作り出し税を回避するモラルハザード(倫理の欠如)もまん延している。

規律をもった新しい国のかたちを作り出すには、所得税の課税対象を低所得者層にも広げ、契約の保護や公共財供給のサービスを受けて活動する企業にはなべて外形標準税を課すことなどが必要であろう。そうすることによって、納税者の立場から政府の浪費に対する監視のインセンティブが高められる。

第3に、財政運営の地方分権化である。道路、教育、介護・保育などの公共財の供給は、斉一的な中央管理では、ますます多様化する国民の要求にこたえられない。中央の集権的管理による標準的な平等化が政策課題だった時代は終わった。

例えばむだな道路投資を回避するには、道路を民営会社に所有させ、その料金収入の範囲に投資を制限するだけが、唯一の制度的工夫とはいえない。それは道路料金の高止まり、ひいては産業国際競争力の衰退に導く可能性もある。

公共財としての道路は、むしろ税によって金融されるべき側面もある。しかし地方による予算分捕り合戦や、農道と一般道路の並行建設のようなむだな投資を抑制し、経済的ニーズに対応した投資決定のおこなわれるような仕組みが必要である。それには受益者に直接説明責任を負った地方政府へ、税源の移譲をともなった決定権限を移譲すべきであろう。総務省による地方債の保証、公共投資における補助金制度は、地方政府に財政支出を放漫化させるモラルハザードを醸成する。この点で、最近政治経済学や財政学で注目を浴びている財政連邦主義の考えが参考になる。

それによれば、中央政府が地方政府の財政危機を救済しないという制度的コミットメント(約束)が、公共財供給における効率性と財政規律のインセンティブにとって必要である。欧州連合(EU)の統合は、こういう視点からその意義を見ることができる。欧州中央銀行による通貨発行権限の独占によって、各国政府は財政赤字を通貨増発により金融することはできず、ハードな制度的予算制約に服することになったからだ。

納税者の判断改革促す力に

以上述べたような改革を実現するには、内閣、行政官庁、地方政府などの間の役割分担に大胆な再編成を不可避とするだろう。また政治家と行政の関係、市民の納税者意識や投票者意識にも大きな変化を要請することになる。それは決して易しい道ではなく、また永田町や霞が関から自生的に生まれてくるとも考えにくい。

ここで描いたようなモデルの選択は究極的には納税者=投票者の判断次第である。そうした選択は、遅かれ早かれより明確に意識されるようになるかもしれない。最近のいくつかの地方選挙や補欠選挙における傾向は、そうした潜在的可能性を示唆している。そこに冒頭に述べた、93年の画期たるゆえんが含まれているといえよう。

2003年1月7日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2003年1月21日掲載

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