世界最高峰の人的資本経営教室

開催日 2024年9月18日
スピーカー 小野 浩(一橋大学大学院 教授 / 人的資本理論の実証化研究会共同座長)
スピーカー 上ノ山 信宏(みずほフィナンシャルグループ執行役グループCHRO兼グループCDO)
モデレータ 広野 彩子(RIETIコンサルティングフェロー / 日経ビジネス副編集長 / 慶應義塾大学総合政策学部特別招聘教授)
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開催案内/講演概要

1992年にノーベル経済学賞を受賞した故ゲイリー・ベッカー教授は、人の成長および社会経済の発展には人的資本の投資が不可欠であることを「人的資本理論」を通して提示した。こうした考えを受け、経済産業省では、人的資本と企業価値の向上、人的資本と経済成長の好循環を目指す研究会やコンソーシアムを展開している。本セミナーでは、広野彩子RIETIコンサルティングフェローのモデレーションの下、ベッカー教授の弟子であり、本年(2024年)4月に『人的資本の論理 人間行動の経済学的アプローチ』を上梓した一橋大学大学院の小野浩教授と、みずほフィナンシャルグループで人的資本経営を進める上ノ山信宏執行役による対談が行われた。

議事録

人的資本とは

小野:
人を資本として、また投資の対象としてとらえる考え方は,古典派経済学の父といわれる18 世紀イギリスの経済学者アダム・スミスまでさかのぼることができます。20世紀に入ってから、人的資本理論の発展に大きく貢献したのは、シカゴ大学のゲイリー・ベッカー教授でした。ベッカー教授によると、人的資本というのは、人間の持つ能力、才能、知識になります。そういった能力をキャピタルとしてとらえて投資することで収益率を高め、生産能力を高めてベネフィットを得るという合理主義が前提となっています。

人的資本は、「一般的人的資本」と「企業特殊的人的資本」に大別されます。一般的人的資本は市場性が高く、どの企業でも通用する資本であるのに対して、企業特殊的人的資本はその企業の中でしか通用しない能力ということです。

人的資本経営に取り組む上で指標となるエンゲージメントやダイバーシティは、人的資本とは直接的には関係ないのですが、人的資本の発揮度を高めるファクターとしてとらえることができます。人的資本投資を理解する上でキーワードとなるのが、人的資本の陳腐化です。物的資本に対して継続的に投資をしなければ劣化していくように、人的資本も定期的なメンテナンスや新たな投資を怠ると、陳腐化して価値を失います。

この陳腐化のコンセプトを分かりやすく説明したのが、「風呂桶モデル」です。お風呂の水が人的資本のストックだとします。何もしないでいると、ストックは風呂桶に空いた穴から漏れていきます。しかし、上には蛇口があって、ストックを増やそうとすれば上から入れることができるわけです。このようにストックの維持・増加には、継続的な投資、メンテナンス、あるいは新規投資が必要だということです。

なぜ人的資本投資が必要なのか

人的資本はもともとミクロ経済から始まった理論ですが、マクロ経済にも多くの重要なインプリケーションを与えています。失われた30年間の労働市場では、(1)バブル崩壊後に流動性が低い日本の労働市場で過剰労働が発生した、(2)それを維持するためのコストが膨らんだ、(3)新規採用を控えた、(4)代わりに非正規労働者を増やした、といったことが起こりました。また、人件費の削減が優先される中、人はコストであるという考え方が根付き、人材投資がおろそかになりました。従って、(「風呂桶モデル」を応用すると)結果的に人的資本のストックが減少したことになります。宮川努氏(RIETIファカルティフェロー / 学習院大学教授)と滝澤美帆氏(学習院大学教授)のマクロ経済の研究によると、日本の人的資本の減耗率は年間38%ということです。

日本で人的資本という概念が定着しない理由を考えてみると、人をコストとしてとらえる傾向が定着してしまったこと、内部労働市場が強いゆえに賃金は市場原理とは関係なく、企業の都合で決められる部分が大きいこと、などがあります。また、一般的人的資本に対するリターンが低く、企業特殊的人的資本に対するリターンが大きいことで、個人が自身の市場価値をよく理解していないといった理由が挙げられます。

日本の長期雇用型では勤続年数が長くなるに従って企業特殊的人的資本の割合が大きくなるので、自己投資をしない限り個人の市場価値は低下し、中高年ほど転職は難しくなります。長期雇用や終身雇用は、企業が提供する1つの恩恵としてとらえられる一方で、転職ができないから組織の中に閉じ込められる人が増え、結果的に長期雇用が生じているという見方もできます。

人的資本投資によって人的資本のストックが増加し、それによって生産性と付加価値が上がった結果として賃上げが行われるます。賃上げ自体は人的資本投資ではなく、生産性向上の手段でもないということを強調したいと思います。

日本型の資本主義はステークホルダー主義と言われていまして、雇用を守ることを第一の使命としています。しかし、これからは人に投資をして人を育てるという、守りから攻めのマインドセットへのシフトが必要であると考えます。

社員と会社の関係性を再構築

上ノ山:
みずほフィナンシャルグループの人的資本経営の議論は、2021年5月に始まりました。システム障害が最初に起こったのは2021年2月でして、人事の基幹システムの保守期限が2024年で切れることもあり、人事制度を見直してはどうかという話がありました。改めて人事を組み立て直すに当たり、どこを北極星にするのか、私たちの存在意義は何か、会社にとって社員とはそもそも何か、といった議論を散々行いました。

日曜劇場『半沢直樹』のように、人事が全ての社員の生殺与奪を握るようなシステムは、日本の高度経済成長期に古典的な商業銀行のモデルが拡張していくステージにおいて、非常にワークしていたと私は思っています。しかし、そこから五十数年がたち、そういった人事モデルは制度疲労を起こしていました。

金融グループにおける人事の在り方について議論していく中で、社員と会社の関係性をもう一度見直すべきだろうと考え、キャリアあるいは人生を会社と一緒に奏でていこうという願いを込めて、〈かなで〉と名付けた新しい人事の取り組みを始めました。

「〈みずほ〉で働く一人ひとりが“自分らしく”あることを実現できる人事」をテーマに、経営としてのコミットメントも織り込みながら、ビジネス戦略の実現に必要な能力をポートフォリオとしてどのように抱えていくかを整理しました。

〈かなで〉を通じた人的資本の拡充

会社が必要とする人材を求めても、社員がその気にならなければ始まらないので、私たちは戦略人事に加えて、社員ナラティブという考え方も重視しています。これは挑戦を支えて成長を後押しするとともに、貢献が報われるようなシステムや働きやすさを感じる環境の整備が人的資本の発揮度につながるという考え方です。戦略人事と社員ナラティブの両輪の運営が、私たちが取り組んでいる人的資本経営です。

さまざまな制度改革を行う中で一番議論があったのは、退職金/年金のところです。従来、中途退職をした場合には積み立てた退職金を減額する規則や、確定拠出年金 (DC)制度があったのですが、今回の制度改革に当たり、前取りも可能にし、減額も撤回した他、企業型確定拠出年金 (DC)制度を導入しました。また、これまで基本としてあった賃金カーブを、現時点において担う役割によって処遇を決めるように変更しました。

こういった変更は社員も巻き込み、彼らにその気になってもらわなければ実現できませんので、それぞれの組織に所属している「コ・クリエイター」に現場の声や意見を発信してもらいながら、人事施策に生かしていく取り組みをしているところです。

質疑応答

Q:

抜本的な制度変更の実現は難しかったのではないでしょうか。

上ノ山:

変えざるを得ないという危機感は早いうちから共有できていました。抽象論で議論を進めていく中で挑戦的あるいは実験的な部分も入っていますが、最終的にはいったんこれで走ってみようということになりました。最初は現場もとても懐疑的でしたが、3年近く辻説法を重ねて、徐々に理解者が増えてきたところです。いきなりDay 1から世界が変わるわけではないですし、アップダウンを繰り返しながら、徐々に右肩上がりに変えていきたいと思っています。

Q:

人的資本理論の理論家のお立場から、〈かなで〉の取り組みをどのようにご覧になりますか。

小野:

働きやすさをはじめとして、活躍できる環境の提供や配慮は人的資本の発揮度を高める条件になるので、理論と実務が非常にうまくかみ合った例であるという印象を受けました。

Q:

DBからDCへ変更するメリットをどのように説明されたのでしょうか。

上ノ山:

中途退職時に決して不利益がないということと、新卒とキャリア採用の比率が一対一だったので、インクルージョンという観点でその制度はおかしいということを言い続けました。DCはすでに一部入っていたので、割と良い運用状況のトラックレコードが示せたというところが一番大きかったと思います。

Q:

なぜコンピテンシーをやめて、新たな評価に変更されたのでしょうか。

上ノ山:

S、A、B、C、Dと5段階の評価符号がある中で、多くの人がSやAを付けていてまったく意味をなしていなかったのと、良い評価を得たことで満足してしまう状況を変えたかったというのがあります。また、コンピテンシーを津々浦々まで広げるのは難しさもあったので、それよりはバリューに基づく行動ができたかをみんなで振り返ることを重視しようという考え方です。現在は、評価符号はありません。

Q:

40代、50代の人材にも投資するべきでしょうか。

小野:

自分に対する投資を怠ると、自発的な転職ができずに組織の中に閉じ込められる人が増えてしまうので、一般的人的資本と企業特殊的人的資本の両方への投資が必要です。中高年になると陳腐化のペースが速まる可能性もあるので、なおさら補足する必要がある気がします。

上ノ山:

自ら投資して自身の能力を上げて、年齢に関係なく自分が思い描くような役割を担える人になっていくのは大切だと思っています。時代が進んで定年年齢も引き上げられるとすると、最後まで自分の能力を最大限発揮していくための継続投資を本人に促しながら、そのための支援を会社としても惜しまずに行っていきたいと思っています。

Q:

中高年行員の人的資本についてどのようにお考えですか。

上ノ山:

従来は50代での出向や片道切符での転籍がかなりありましたが、今は激減させています。各自のキャリア選択肢としてそういった道を進む場合は必要に応じて紹介もしていますが、定年まで会社に残っていただくことを前提としています。なので、40代からもう一度自分のキャリアの後半戦についてしっかり考えてもらえるよう、そこをサポートするような運営にしています。

Q:

AIを活用した未来の人的資本投資の構造はどうなるでしょうか。

小野:

AIやITをうまく使いこなして効率よく働くためには人的資本が必要なので、ITやAIと人的資本は補完関係にあると思います。

上ノ山:

AIはまだ道具でしかないので、うまく共存していくのだと思います。人間でなければならない付加価値の高い仕事は何なのかを再定義する非常に良いタイミングですし、AIの活用の仕方を学んでいくこともこれからの社会に生きていく人間にとっては必要だと考えています。

Q:

なぜ日本においてはMBAの価値が低いのでしょうか。人的資本理論を実践で推進していくにはどうすればよいのでしょうか。

小野:

賃金の実証研究から見ても、日本は国際的に見ても一般的人的資本のリターンが低く、企業特殊的人的資本に対するリターンが高いんですね。日本では人材は内部で育成するという考え方が根付いていることが、MBAの価値を低めているのだと思います。ビジネススクールの教授としては内部での経営者の育成には限界があると答えたいです。マネジメントやリーダーシップのスキルは、体系的にきちんと教育を受けることによって高めることができるのです。

上ノ山:

人的資本理論を人的資本経営につなげていくためには、社員のモチベーションなどに目を向ける必要がありますが、人間は渇愛に満ちていて、欲望は無限大みたいなところがあるので、利己ではなくて利他にもエネルギーが分散されていくような仕掛け作りが大切です。ここは本当に悩ましいところで、私たちも壮大な実験をしている途上だと日々思っています。

Q:

年功序列がなくなると、ロイヤルティーが弱まり、転職が増えるのではないでしょうか。

上ノ山:

社員には自分で能力を高めて資本参加することを心掛けてほしいですし、そういった自律的な関係性を築いていきたいと思うわけですが、手前にあるのは渇愛に満ちた生の人間なので、理想は理想としておきながら、対話を通して社員にその気になってもらえるように取り組んでいます。

小野:

自分に投資することで自発的な転職が可能になる一方で、一般的人的資本だけの企業は離職率が高くなります。離職率が高すぎると人的資本が流出して、そこを埋めるためにコストが発生します。逆に離職率が低すぎると人材の新陳代謝が進まないので、組織のパフォーマンスを最大化にする適切な離職率があると思います。また企業特殊的と一般的人的資本の適切なバランスは今後も必ず必要です。雇用を徹底的に守り抜き、離職率をゼロにするよりも、人を育て、人に投資するというマインドセットに変えたほうがいいと思います。

Q:

賃上げが手段ではないことをどのように浸透させればいいのでしょうか。

小野:

付加価値が向上しない中で賃金を上げると財務負担になります。またモチベーションとエンゲージメントを高めるために繰り返し賃上げが必要になります。ですから、手段としての賃上げは短期的な効果で終わってしまうリスクがあります。持続可能な賃上げには、人的資本投資から得られる生産性向上が不可欠です。

この議事録はRIETI編集部の責任でまとめたものです。