山口一男の日本社会論

【オンライン社会学講座】イソップ物語で浮かび上がる現代日本とアメリカ

山口 一男
客員研究員

「ライオンと鼠:日米規範文化比較論 -後編-」(5/5)

──さて、

  と、私は始めた。

──今回は、作者のデイヴィッドに私にかわって司会をしてもらおう。

  そう言って私は場所を代わった。このことは、あらかじめデイヴィッドに連絡してあった。

──じゃあ、テーマについて議論する前に内容の部分について何か確認したいとかの質問がありますか?

  と、デイヴィッドは切りだした。

──あの、これは確認ですけど

  と、ウェンディがまず発言した。

──注意欠乏多動症 (attention deficit hyper-activity syndrome) というのが出て来ましたけど、もちろんこれは注意欠乏多動障害 (attention deficit hyper-activity disorder) のことじゃないですよね? 注意欠乏多動障害とは原因も症状も違うから。それで、注意欠乏多動症って実際にあるものなんですか。それとも、デイヴィッドが考え出したもの?

  注意欠乏多動障害というのは実際にあり、特に子供の時に良く知られ、じっとしていることができず常に落ち着きなく身体が動いてしまうような症状のことで、最近遺伝の影響が強いという記事が、良く読まれる週刊誌の特集で報告されていた。

──ああ、これは僕の創作物です。注意欠乏多動障害をもじって名前を付けたけれど、全く関係はありません。

──ええと、これも確認というか、意見なんですが、

  と、今度はケヴィンの番だ。

──成功報酬のみの弁護費用、つまり不確定料金、のことが出て来ますけど、これは民事訴訟の原告側に見られる制度なんです。このライオンとねずみの話ではねずみは刑事裁判の被告みたいだから、不確定料金はちょっとおかしい。民事訴訟では被告は企業とか金持ちで原告は貧乏人っていうことが多い。だから、貧乏な原告が訴訟費用を心配せずに裁判を起こせるようにするために、裁判の成功の程度、つまり獲得した賠償額に応じて、弁護士費用を払えるようにする。不確定料金はそういう貧乏人のための制度なんです。

──えー、そうなの? 僕は弁護士が訴訟を多くして金をもうけるために作りだした制度かと思った。

  と、ジェフ。

──結果としてはそういう面もあると思うけど、意図はあくまで金のない人でも損害に泣寝入りせず訴訟ができるようにということだよ。それで、『ライオンと鼠』の話ではライオンはいわば強い者、あるいは金持ちで、ねずみは弱いもの、あるいは貧乏人、だから、この点では狐が貧乏人のねずみに成功報酬のみでいいからと持ちかけるという考えは物語としては悪くないと思う。でも実際問題としては成功の程度を金額的にどう計るか難しい。

──いや、この制度の細かいことは全然知らなかったから、そこまで考えてなかったな。

  と、デイヴィッド。

──それで、金持ちの被告は普通どうやって弁護士料金を払うの?

  と、マーク。

──それは、もちろん時間給。弁護士の名声と経験に応じてその時間給がすごく違う。

  と、ケヴィン。

──ケヴィン、おまえはうちの大学の法科大学院に行くんだろ、確か民事を専門にするって言ってたよな?

  と、ジェフ。

──うん一応そのつもり。

──じゃあ、弁護士になったらどっちの側で弁護するつもりだい、被告側かい原告側かい?

──アハハ、聞きにくいこと聞くなあ。うちの法科大学院の卒業生で民事訴訟の弁護士になる者はほとんど全員企業や金持ちに雇われて被告側にたつんだ。

──なーんだおまえ「持たざる者」でなく「持てる者」の味方になるのか

──まあ、そうなると思う。でも、今まで僕みたいなアジア系アメリカ人は、そういう企業とか金持ちを顧客にする弁護士にはなりたくてもなれなかった。だから僕が、まだそうなれるか解からないが、そうなれたらアジア系アメリカ人の地位の向上にとっても良いことなんだ。

──つまり、自分にとって得なことが同時に社会の不平等も減らすって言うわけか。まったく運がいいというか、幸せななやつだな、おまえは。

  ジェフの言い方は明るくていやみがなかった。だが、かつて私との個人的対話でアファーマティブ・アクション(人種差別や性差別をなくすための積極的政策行為のこと、大学入学の人種割り当てに結びつき、平均より成績の良いアジア系アメリカ人は、かえって割り当てのために損をするという事態を生み出していた)廃止に賛成するのは自分たちアジア系アメリカ人には得だが、潜在的人種差別者を利さないために、また公民権運動を起こしてアメリカ社会から人種差別をなくすために大きく貢献してきた黒人を切り捨てないために、自分は賛成できない、と、いったジェフの言葉を思い出していた。

──おいおい、ちょっと話が脱線してるよ。

  と、司会のデイヴィッドが止めに入った。

──そういう話は後で個人的にやってほしい。さて、他の部分についての質問は?

──.....

──じゃあ、無いようだから、では次にテーマについて。この現代アメリカ版『ライオンと鼠』の話のテーマは何だと思いますか?

──現代アメリカ社会の刑事訴訟における被告側弁護士の役割について?

  と、ウェンディ。

──ええ、それが1つのテーマです

  と、デイヴィッド。

──で、それについてこの寓話はなにをいおうとしてますか?

──弁護士がうまく二兎を追っているように見えること (Attorneys appear to balance themselves well between two stools)。

  と、これはエミリーの発言。

──つまり、自分の利益と社会正義の実現。だけど、前のほうがホンネで後はタテマエ。

  エミリーは「本音」と「建て前」の言葉を日本語で言った。「ホンネ」の「ホ」、「タテマエ」の「マ」に強いアクセントがある。この対の概念については、かなり前の授業ですでに説明し、クラスのメンバーはみな一応理解している。

──つまり、偽善的。

  これは、メアリーの言葉だ。

  ジェフが隣に座っているケヴィンに何かささやいた。

  近くに居た私には「おまえはどうだ? (What about you?)」と、いった様に聞こえた。ケヴィンが肩をすくめたのは、はっきり解かる。この2人は、結構仲がよいのだろう、と思った。

──「社会正義の実現」とエミリーは言ったけれども、

  と、デイヴィッドが引き取る。

──それは、狐の言い分で、僕の意図したのはちょっとニュアンスが違うんだけど。誰か、それに気がついた人は?

──多分、

  と、ウェンディが言いだした。

──事実を離れてストーリーを作るという点から、やっぱりここでも、現代日本版の『ライオンと鼠』についても言ったんですが、狐はドラマツルギーというか、印象操作をやっている。

──そう、事実よりイメージを優先して、

  と、これは作者のデイヴィッド。

──リアリティーよりヴァーチャル・リアリティー。

  と、マーク。

  私も参加する。

──そうだよね、アメリカでは公正の実現ということが事実と論理に基づくものからイメージと心理に基づくものにだんだん変容されて来てしまっている。これには、事件自体の不確実性を利用して興味本意にセンセーショナルに報道したりするマスコミの影響もあるけど、その効果をまた利用しようとする弁護士の戦略もある。

  その発言をきっかけに、たとえばかつてのビバリー・ヒルズでの両親殺人事件の兄弟のように、弁護士が加害者をチャイルド・アビューズの被害者のように印象つけようとした裁判の話など、有名になった具体的刑事裁判の話に、ひとしきり花が咲いた。

  話が途切れたところで、デイヴィッドがいった。

──えーと、刑事弁護士の役割の他に、実はこの寓話にはもう1つ関連したテーマがあるのですが、それは何でしょう?

  誰も手をあげないので、私が手をあげる。

──はい、ではミスター・ヤマグチ。

  と、デイヴィッド。みなにやにやして、私を見る。

──えーと、多分、イメージと心理に基づく裁判のことを議論したけれど、それと関連することとして、現代アメリカにおいて、少なくとも過去に比べて、個人の行為の説明責任(accountability)があいまいに、そしてより狭く、解釈されるようになって来たことを言いたいのだと思う。「注意欠乏多動症」のせいだから無罪などという考えは一昔のアメリカじゃあ、まったく通用しなかった議論だと思う。

──ええ、それがもう1つのテーマです。

  と、デイヴィッド。

──良くできました、成績Aの答えです。

  みなが笑った。デイヴィッドもユーモアがあるようだ。

  さまざまな犯罪が、遺伝的形質や、幼小児の時期に虐待されたことのせいや、家庭や社会環境のせい、などに帰される議論が弁護に多くなり、またそれを単に情状酌量というのではなく、罪の有り無しの決定にまで考慮される状況が現在のアメリカ社会にあり、それが行為の説明責任がより明確で厳しかった時代のアメリカ社会を異質といって良いほど過去のものにしていた。それは「説明責任」という言葉がようやく政治の場などで取りざたされ重要視されるようになった日本の動きとは逆の社会的潮流といえた。

  この話題についてもひとしきり最近の具体的裁判の事例が話題となった。みなが一致したことは、過去の様な厳しい行為の説明責任の考えも問題だが、現代のあいまいさも非常に問題だ、という点であった。

  この議論が終わって、デイヴィッドが言った。

──では、最後に私もヤマグチ教授にならって、現代アメリカ版の『ライオンと鼠』の話は古い話と比べてどう違うか、について質問します。もちろん...

──狐が主人公で出てくる!

  と、ジェフがまだデイヴィッドが言い終わらないうちに大声で言った。みなつい笑ってしまう。デイヴィッドも苦笑した。

──そう、今それを言おうとしたのですが、もうすでに議論した2点、つまり弁護士が主な役割を果たす点と、行為の説明責任がよりあいまいになったこと、の2点以外で、何か気がついたことは有りますか?

──あのー

  と、エミリーが言った。

──最後にねずみがライオンを助ける話がありません。

  みな、普段理屈っぽいエミリーのこの発言にはちょっとあっけにとられた。

  エミリーはちょっと恥ずかしそうに急いでつけ加えた。

──いえ、これ私はジェフみたいに冗談で言ったんじゃないんです。個人間の紛争の解決に弁護士とか裁判所が関与すれば一方で公正な結果を実現できる可能性も高くなるかもしれないけれど、もう一方で紛争の当事者どうしが交わってそれによって時には信頼の絆が生まれる、もちろんその逆もあるだろうけれど、ということが無くなる。そういうことと関係しているように思ったのです。

──僕もね、

  と、デイヴィッド。

──初めは、ねずみがライオンを助ける話を含むストーリーを考えようとしたんだ。だけど、このストーリー展開では絶対無理。ねずみがもうライオンと関係する何の理由もない。だからエミリーの言ったこと、よく考えていなかったけど、僕もそう思う。

  私も議論に参加した。私は、民事的な紛争では日本では当事者どうしが直接和解できるなら、できるだけそれを助け、それが無理なら仲裁裁定や訴訟というステップを踏むことが慣例化しているが、すべて最初から弁護士などの仲介者にまかせて当事者は直接話し合わないアメリカのやり方にくらべ、当事者どうしが話し合うのは精神的や心理的な消耗も多く、結果的に和解がうまく行けば信頼の絆がある程度回復できるなどの成果があるが、失敗すればかえって相互不信を余計増し、精神的にも参るという結果にもなりかねない、両刃の刃であると思う、と言った。

  現代アメリカ版『ライオンと鼠』についての議論が終わり、私がデイヴィッドの司会ぶりを褒め、司会を代わったあと、こう質問した。

──さて、最初に言ったこと。つまり2つの現代版の話のうち、どっちの話が面白く読みごたえがあるか、ということだけど。これはデイヴィッドの方かな、それとも...

  言い終わらないうちに、

──デイヴィッド、デイヴィッド

  と、幾人もの声。

──そうだよね。私も全く賛成でこれは全員一致だ。と、いうわけで、デイヴィッドにはコースの成績に大きな追加得点を出すことにする。デイヴィッド、おめでとう。

  みなが拍手する。嫉妬というのが日本に比べて非常に少ないアメリカでは、こういう時の学生の態度はとても気持ちがいい。デイヴィッドも喜んでいる。

  残り少ない授業時間は、次の週の素材と文献について、若干の要点を注意して終わった。

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あとがき

事実の正確な記録ではなく、小説に近い形で「日米規範文化比較論」と副題した書き物をした主な理由は、あえて結論のない議論としての「論」を、結論を読者自身の選択にゆだねて提示したかったからである。結論のない議論は「論」としては致命的欠陥とみなす人もいるだろう。結論のない理由の1つは、規範や信頼関係の社会的形成といった問題は実は文化と合理性の統合という大きな理論的課題を含み、それは理論的にも実証的にもまだ未成熟だからである。

理由の2つ目は規範の選択は基本的には我々の選好に依存する問題だからである。育児規範に関する議論に読み取っていただけるように、現在の日本の若い世代や次の世代は、理論など全くお構いなしに、次々と現在の日本の家庭や保育・教育環境のもとでソーシャライズされ、さまざまな、しかし平均的には他国とはかなり異なった価値観や規範意識を持つに至り、これからの日本を担っていく。だから当面の課題は我々日本人の子供のソーシャライゼーションにおける倫理や規範の選択である。そしてその選択は親や、保育者や、教育者などが考えて行うしかない。自由と多様性を尊ぶ時代に一定の答はないからである。しかし選択は勝手気ままで良いということではない。少なくとも、人々が、個人の価値観は異なっても、他者との信頼関係を築くことができ、協働して豊かな社会を再生産できることは極めて重要で、そのことと矛盾してはならない。

私のこの小説風「論」の真の意図は、読者に、社会規範に関する倫理について選択する判断のための素材の知識と、またその判断に望まれる、自由で、批評的精神に富み、かつ想像力も伴うような思考の過程そのものを、この話に登場した異なる価値観のアメリカ人学生たちと同様、「味わって」もらいたいことにある。この小論がその意図に成功しているかどうかは、読者の判断に待つしかない。

2005年6月2日掲載