社会保障・経済の再生に向けて

第10回「社会保障再生のもう1つの鍵 - 積立金500兆円の運用にどう対応するか」

小黒 一正
コンサルティングフェロー

これまで、社会保障再生に向けた提言を行ってきたが、その鍵を握るのは世代間格差の改善を促す事前積立や社会保障予算のハード化などの試みであった。

このうち、社会保障(年金・医療・介護)における事前積立導入の効果は、学習院大学の鈴木亘・准教授が試算(注1)している。この試算によると、ピーク時(現在から2050年の間)での積立額は、最大約500兆円となる。その内訳は、年金約200兆円、医療約200兆円、介護約100兆円で、対GDPの概ね100%である(注2)。現在、わが国の家計金融資産は概ね1400兆円だから、その3分の1程度の規模となる。他方、現在の公的年金がもつ積立金は、対GDPの概ね30%に相当する約150兆円であり、500兆円というマネーは約3.4倍もの規模に相当する。

このため、世代間格差の改善にとって、社会保障の事前積立によって集まる500兆円という積立金の運用は、社会保障再生にあたってのもう1つの鍵である。そこで、本コラムでは、事前積立を導入した場合の積立金運用のあり方について考察してみたい。

事前積立は、国内貯蓄に中立的

さて、積立金の運用を考察する前に、認識しておくべき重要な視点がある。それは、(社会保障導入前の経済と比較して、世代間格差ゼロを維持するかたちでの)事前積立の導入は、国内貯蓄(家計部門、企業部門、政府部門の貯蓄の合計)に「中立的」であるという視点である(世代間格差の改善と事前積立との関係は「第3回のコラム」参照)。これをまず、簡単に説明しよう。議論を簡単にするため、経済には企業部門がなく、家計部門と政府部門のみが存在するとする(注3)。また、この経済には、図表1のように、現役期の獲得賃金が2億円で、この賃金をベースに、現役期と老齢期の消費を賄う家計が1つ存在するものとする。このとき、社会保障導入前の国内貯蓄を求めてみよう。まず、生涯賃金は2億円なので、現役期と老齢期に1億円ずつの消費を行い、現役期に1億円・貯蓄する(単純化のため金利はゼロとする)。すると、家計部門の貯蓄は1億円で、政府部門の貯蓄はゼロなので、国内貯蓄は1億円となる。

図表1:社会保障導入前の国内貯蓄

現役期老齢期
生涯賃金負担(強制貯蓄)消費貯蓄受益消費
家計行動2億円1億円1億円1億円
家計部門の貯蓄1億円
政府部門の貯蓄0億円
国内貯蓄1億円

他方、社会保障導入後の国内貯蓄を求めてみよう。まず、政府は、図表2のように、事前積立によって、この家計の現役期に0.7億円の負担(強制貯蓄)を課し、老齢期に0.7億円の給付を行うものとする。すると、この家計の純負担(=負担-受益)はゼロ(=0.7億円-0.7億円)だから、手取りの生涯賃金は2億円で変わらない。なので、現役期と老齢期に1億円ずつの消費をする。このため、現役期の貯蓄は、現役期の獲得賃金(2億円)から消費(1億円)と強制貯蓄の負担(0.7億円)を差し引いた残りの0.3億円となる。すると、家計部門の貯蓄は0.3億円で、政府部門の貯蓄は0.7億円なので、国内貯蓄は先程と同じ1億円となる。

図表2:社会保障導入後の国内貯蓄

現役期老齢期
生涯賃金負担(強制貯蓄)消費貯蓄受益消費
家計行動2億円0.7億円1億円0.3億円0.7億円1億円
家計部門の貯蓄0.3億円
政府部門の貯蓄0.7億円
国内貯蓄1億円

以上は家計が1つのみのケースであったが、多くの家計や異なる世代が存在するケースでも同様の議論が成立ち、(社会保障導入前の経済と比較して、世代間格差ゼロを維持するかたちでの)事前積立の導入は国内貯蓄に中立的であることを示すことができる。また、図表1と図表2をみても分かるように、事前積立はマクロ消費にも中立的となる。だが、社会保障導入前の経済でなく、既に世代間格差がある状態で、事前積立を導入すると、上記議論は若干修正を要する。第8回のコラムの図表2で概説したように、世代間格差が存在し、さらにその拡大を予測していると、家計はその防御反応から過剰貯蓄を行い、消費は低迷する。このとき、事前積立の導入など社会保障改革によって世代間格差が改善すると、その安心感から、(世代間格差のある状態と比較して)マクロ消費が回復し、家計部門の過剰貯蓄が解消する可能性がある。この場合、事前積立の導入は、国内貯蓄を若干変動させるものの、家計部門の貯蓄が減少し、政府部門の貯蓄が増加する点は図表2のケースと変わりがない。

このように、事前積立の導入は、国内貯蓄に概ね「中立的」である。すなわち、事前積立の導入によって、家計部門の貯蓄が減少しても、その分、政府部門の貯蓄(=将来の社会保障給付のための積立)が増加するから、その両者が相殺し、国内全体の貯蓄は概ね変化しない。だから、大雑把にいうと、社会保障(年金・医療・介護)の事前積立の導入によって、現在ある公的年金の積立金約150兆円がピーク時で約500兆円になると、政府部門の貯蓄は約350兆円増加するので、家計部門(正確には企業部門も含む)の貯蓄は約350兆円減少することになる。

無理に運用利回りを追求する必要はない - 積立目的は世代間格差の改善 -

さて、上記を念頭に、積立金の運用のあり方について考察してみよう。まず、昨年2008年5月、経済財政諮問会議の専門調査会は、日本の公的年金積立金の運用に関する報告書を公表している。この報告書によると、(1) 年金積立管理運用独立行政法人(GPIF)が一括運用している約150兆円の公的年金積立金を、複数の小規模な基金(ファンド)に分割した上で、 各基金(ファンド)が運用利回りを競うべき、(2) また、現在の国内債券の比率が高い資産運用について、その運用利回りの向上とリスク分散を図るため、国際分散投資を強化し、不動産などのオルタナティブ資産も投資対象にすべき、(3) さらに、運用実績には、短期的でなく、5年ごとに政府が定める運用利回りの目標を主な基準とすべき、等と指摘している。また、日本版政府系ファンドの設立を目指す議員らは、公的年金の運用について、その3分の1程度をハイリスク・ハイリターンの投資に回す提言をしている。

だが、このような積極的運用の強化には慎重論が存在するとともに、「積立金運用の効率性を高めることは重要だが、誰が責任を取るかとの視点も重要」との指摘もあり、その運用の方向性は現在のところ、定まっていない。このため、積立金運用のあり方については、もうひと工夫の検討が必要となっている。

以上は約150兆円の公的年金積立金の話であるが、世代間格差が改善するよう、社会保障の事前積立を導入すると、ピーク時には約500兆円の積立金が集まる。150兆円規模の公的年金積立金の運用のあり方も議論が収束しないのだから、500兆円もの規模になると、そのハードルはさらに高まるだろう。そこで、思い出すべきは、500兆円と150兆円の差額である350兆円はもともと、家計部門の貯蓄になる可能性があったマネーであるという視点である。欧米と比較して、日本の家計は家計金融資産に占める預金比率が高い。なので、政府が事前積立を導入しなければ、その350兆円の多くは預金に回っていた可能性が高い。逆にいうと、事前積立の導入は、企業への貸出の原資となる銀行預金などを減少させる可能性がある。また、この規模のマネーを国内債券などで運用するのも限界があろう。このため、政府は、財務の健全性が高い国内銀行など金融機関にこれら積立金を管理する政府専用の口座を創設し、その上で、500兆円の積立金の一部(例:350兆円)を、一定のルールに基づき、専用口座に分割して預金(積立)しておく方法もあるのではないか。

なお、インフレになると、積立金の価値が目減りしてしまう可能性あるので、「積立金はインフレに弱い」との指摘もあるが、現在は金利が自由化している。このため、インフレ率と実質金利が独立であるという有名な「フィッシャー効果」が成立すれば、インフレになっても、その分、長期的には金利が上昇して、資産価値の目減りを防止できるだろう。さらに、インフレ・リスクをヘッジするため、資産の一部を物価連動国債などに投資する方法もある。また、そもそも、資産と債務は一般的に「対」の関係にある。このため、「フィッシャー効果」が十分に機能せず、インフレによって資産価値が目減りする場合、マクロ全体でみると、政府が抱える公的債務も目減りする。たとえば、500兆円の積立金の5%(25兆円)が目減りし、900兆円の公的債務も5%(45兆円)目減りするケースを考えよう。この場合、「インフレ税」という言葉にもあるように、インフレ税収45兆円によって公的債務は855兆円まで削減されるが、これは追加課税によって公的債務を削減する政策と同等の効果をもつ。なので、このようなケースでは、インフレ税収分(45兆円)を上限にして、政府が追加的債務を増やし、積立金の目減り分(25兆円)の一部を補填する方法もある(なお、残りの20兆円(=45兆円-25兆円)は公的債務の圧縮に活用)。

ところで、世界には、アメリカのように積立金の多くを株式などで運用している国々も多く存在している。このため、積立金の積極的運用を否定するものではない。だが、500兆円というマネーはとても巨額であるので、その全てを株式などで運用することは到底不可能だろう。だから、その大部分は、上記のような政府専用の口座で管理し、残りの一部(例:150兆円)について、経済財政諮問会議の専門調査会や日本版政府系ファンドの設立を目指す議員らの提言を参考に、国内債券での運用を行いつつ、その積極的運用を検討すべきと思われる。

いずれにせよ、社会保障再生の鍵を握るのは、事前積立や社会保障予算のハード化などの仕組みである。そして、事前積立によって集まる積立金の運用のあり方は、社会保障再生のもう1つの鍵を握る。高い利回りの追求も重要だが、むしろ、積立金の最も重要な役割は世代格差の改善にある。その点を十分に念頭に置き、積立金の運用のあり方について議論を深め、その方向性を定めていくことが望まれる。

2009年7月3日
脚注

注1) 鈴木(2009)『だまされないための年金・医療・介護入門―社会保障改革の正しい見方・考え方』東洋経済新報社

注2) 鈴木(2009)は、実質的に完全積立方式への移行に必要となる事前積立を試算している。これは各世代間の負担平準化が超長期の最も理想的ケースだが、もう少し短い期間での有限均衡方式による事前積立に変更すると、ピーク時での積立額は500兆円よりも圧縮できる。

注3) 企業部門の貯蓄は最終的にその株主である家計に帰属するとみなすこともできる。

2009年7月3日掲載

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