ガバナンス・リーダーシップ考

Vol.3「なぜ貧困解消が世界にとって重要か?-南アジアの事例から(III)」

西水 美恵子
コンサルティングフェロー

ひとつの手段にひとつの目的

ほとんどの国の公的援助は、その目的があまりにも多く、ときとして相反する目的が設定されることすらある。優れた政策決定の大原則は「ひとつの手段にひとつの目的」を設定することであるが、まさに同じことが政府開発援助についても言える。そして日本を含む援助国の政府開発援助がめざすべき唯一の目的は、貧困のない世界でなければならない。

米黒人解放運動指導者として名高いマーティン・ルーサー・キング牧師は、インドのマハトマ・ガンディーに感銘を受けて米黒人運動を非暴力抵抗運動に変貌させたが、後に伝説となる1通の書簡を残している。この手紙は、キング牧師が投獄先のバーミングハム市刑務所で、非暴力抵抗運動をやめるよう忠告していた白人牧師グループに宛てて書いたものであるが、その中に、次のような1節がある。

「一か所での不公正は、あらゆるところにおける正義への脅威です。我々は運命という1枚の衣にくるまれ、逃れることのできない相互依存の網に捕らわれているのです。誰かを直接脅かすものは、全ての人々を間接的に脅かします」

ニューヨークとワシントンを襲った9.11テロ攻撃は、キング牧師が語った「相互依存の網」が現実であることを私たちに思い知らしめた。世界史を振り返ると、政情不安ひいては国家の破綻さえも、その元を辿ると何らかの社会的不公正に行き着く。そして、そのような不公正は、長期間にわたる悪い統治(bad governance)によって引き起こされ、蔓延する貧困と密接に関わっている。

このように貧困は戦略的リスクであり、戦略的に管理されるべきなのである。各国が自らの平和と安全保障のために意識的に自己管理しなければならないリスクであり、そのリスクは世界中の他の国々の貧困と相互に結びついている。それが貧困撲滅を開発援助の唯一の目的とすべき所以である。また、援助国の貴重な資源を効果的に利用して途上国の貧困を効果的に削減できる戦略的な開発援助が重要である所以でもある。

開発援助戦略:問題の核心を突け

優れた公的政策のもう1つの大原則は、問題の核心に働きかける政策手段を講じることである。同じ原則は、公的政策手段としての開発援助にも当てはまる。

前回のコラムで述べたように、南アジアの貧困の根本原因は公的政策および制度の悪い統治である。長きにわたり放置された貧困は、今日のネパールがそうであるように、国家の保全すら危うくする。実際、南アジアは決して例外的な存在ではない。悪い統治と貧困のつながりおよびその戦略的意味合いは、多くの途上国に共通して見られるものである。

したがって、貧困という戦略的リスクを管理するということは、社会経済政策や関連諸制度を構築するとともに、政治プロセスや制度の改革を通してよい統治を実現することを意味する。よい統治(good governance)を政府開発援助政策として捉え、その上で各途上国の事情に見合った個々の援助政策を位置づけるべきであることはいうまでもない。

ただ、現実問題として、途上国自身が優れた指導者が現れるという幸運に恵まれない限り、よい統治の確立に向けた改革が緒につくことも、成果を生むこともあり得ない。したがって、実行可能な政府開発援助戦略は、優れた指導者に投資すると位置づけるべきだ。援助戦略は産業部門もしくはプロジェクトというかたちで定義されがちであるが、そういうやり方で悪い統治の核心に迫ることはできない。

優れた指導者は本当に「効く」のか?

民間企業が成功する上で優れた指導者の存在が重要であることは広く一般に受け入れられている事実である。同じく、途上国に良い統治をもたらし、貧困を削減する上で、指導者は大いに重要な要素である。しかし、おそらくは注意不足や、系統だった情報もしくは経験的事実が欠如しているため、優れた指導者と良い統治のつながりは、多くの人々にとって理論的なものに過ぎず、広く一般に受け入れられてはいない。

良い実例を探したければ、南アジアの草の根をかきわけて「歩く」だけで十分である。そこには、貧困削減で顕著な実績を持ち、世界中の非政府組織(NGO)やその他の開発支援組織のモデルとなっている数々の定評あるNGOが存在する。たとえば、アガ・カーン農村支援プログラム(パキスタン、北部インド、中央アジアで活躍)、バングラディシュ農村開発プログラム(バングラディシュ、最近ではアフガニスタン)、およびオランギプロジェクト(パキスタン・カラチ市)等がある。これらのNGOは、農村地域または都会において、開発「専門家」の期待をはるかに上回る速度で貧困削減を推し進めてきた。

彼らが地域レベルで行う活動には、ある共通のアプローチがある。まず、各地域で指導者となる資質を備えた女性や男性を入念に見極め、あらゆる面で地域のリーダーとしてふさわしい人物になるよう彼らの個人的な成長に集中的な投資(正式な指導者養成訓練も含む)を行うことによって、地域の人々が自ら民主的な良い統治を見いだし、構築する手助けをするというアプローチである。彼らが行う援助において、開発プロジェクトの財政的支援は二義的な手段でしかない。一義的な手段は、技術的なノウハウを提供し、地域の社会的、経済的、政治的な変化を促進する経験豊富で専門的な援助を行うことである。

このアプローチは、辺境農村地域や都会の貧民街における人々の暮らしの向上に大きな力を発揮したことから、最近、「地域主導開発(CDD: community driven development)」アプローチとして多くの二国間および多国間援助機関によって採用されることになった。英国の国際開発省(DFID: Department for International Development)や世界銀行も南アジアのNGOの活動にヒントを得て、援助のあり方を変更した。

私は、数々の地域が社会的、経済的、政治的に驚くべき変革を遂げる様をこの眼で見てきた。バングラデシュのとある貧しい農村では、平均世帯収入が約5年間で4倍になった。パキスタンでは、読み書きのできなかった女性たちが読み書きできるようになり、地域のビジネスリーダーとして活躍する女性、選挙に立候補する女性が出てきた。インドのある村では地域の女性グループが村の貯蓄クラブを立派な地域銀行に発展させ、彼女たちが自ら専門的に管理している。いずれの事例においても、地域の中に傑出した指導者が存在した。彼らは、地域住民の気持ちを動かし、その力を結集し、地域住民が共有する構想や価値観の一体性を前向きな開発の推進力に変え、貧困削減という成果をもたらす上で、決定的に重要な役割を果たした。

国レベルでも模範となる事例がある。1990年代初期以降のインドの急速な経済成長は、少数の大物政治家と官僚が大規模な経済改革に着手し、ソ連仕込みの社会主義経済から市場主義経済への移行をもたらしたことにその端を発する(マンモハン・シン現首相は、当時、この改革を推し進めた主要な指導者の1人だった)。(参照:選択連載1月号

軍事政権に対する政治的な見解はさておき、パキスタンのムシャラフ将軍も社会経済的、政治的な変革を促進させる役割を果たした卓越した国家指導者の1人である。破綻状態の経済を引き継いだムシャラフ将軍は、貧困削減を唯一の改革目標とし、パキスタンの社会、経済、政治組織の改革のための戦略として良い統治を推し進めてきた。納税者を苦しめる腐った税制度の改革、架空の政治的融資で疲弊しきった銀行システムの改革、「幽霊教師(ghost teachers)」だらけの教育制度の改革等、いずれの改革においても、1、2年のうちに個々の国民が良い統治の効果を実感し、数年のうちに経済が回復し始め、経済成長と雇用回復がもたらされてきた(参照:選択連載1月号6月号)。

ブータンは南アジアで、そしておそらく世界の中でも、際立ってすばらしい事例といえる。賢明な指導者、すなわちブータン国王は、「国民総幸福量(GNH: gross national happiness)」という型破りな哲学によって国家の発展プロセスを率い、国民誰もが自らの幸せを求められるようにすることを唯一、真の政策目標として打ち立てた。その結果、良い統治は異例ではなくごく当たり前のこととなり、自然環境や文化遺産を守りながら急速な経済成長を過去30年間にわたり維持してきた。そして、平和的な政治変革によって、絶対君主制と中央集権は参加民主主義と高度な分権制に基づく統治に取って代わろうとしている(参照:選択連載6月号8月号9月号10月号)。

良きプロジェクトではなく、良き指導者への投資から

開発援助戦略としての優れた指導者への投資は、ほとんどの場合において、これまでのやり方からのパラダイムシフトを意味する。政府開発援助は、あたかも「クリスマスツリー」のようにお願いごとリストがぶら下がっているのが常である。稀に「戦略」なるものがある場合においても、必然的に具体的なセクター(教育、健康、インフラ等)もしくは大型プロジェクト(ダム建設、鉄道整備等)というかたちで定義されている。

優れた指導者への投資は、ある特定のセクターの開発プロジェクトや大型プロジェクトに資金提供することでもある。違いは指導者としての資質を持った人々によって主導される投資は、真に「国内産(home-grown)」であり、したがって当然、持続する可能性が高いということである。こうしたプロジェクトへの投資は、良い統治をもたらす触媒の働きを果たすことも多い。

まず第1に、いかに社会経済効果の高い投資であろうと「セクター」や「プロジェクト」によって開発がもたらされるわけではないということを忘れてはならない。貧しい人々の目を通して見る開発ニーズは全体的(holistic)である。たとえば、南アジアの貧しい人々の命を奪う最大の原因は、特定の病ではなく、屋内で汚い燃料を燃焼させることによる空気の汚染なのである。電力のようなきれいなエネルギーが使えるようになれば、貧しい人々、特に女性や子供の呼吸器疾患の罹患率は大幅に下がる。公衆衛生向上のために投資するということは、貧しい人々にも手の届くきれいなエネルギーの開発に投資するということであり、たとえば効率的で管理の行き届いた発電・送電システムの構築がこれにあたる。このような全体的なニーズは、縦割りの既得権益にまみれた政府省庁から出てくるものではなく、一般の人々の視野にたつことのできる優れた指導者であればこそ汲み取れるものである。

第2に、お金は代替可能なものであることを忘れてはならない。国家の財政的枠組みを無視して「良きプロジェクト」にお金を注ぎ込んでもすばらしい開発成果を得ることができないように、悪い統治を放置すれば、間違いなく、追い銭をする結果になる。優れた指導者が関わる開発活動もしくはプロジェクトの内容がいかなるものであろうと、良い統治を実現したいという意思を持った人々を援助することによって、長期的に、負い銭のリスクを最小限にとどめることができる。

第3に、お金は力を持ち、思いもよらない危険をはらんでいることを思い起こす必要がある。前回及び前々回のコラムで示したような蔓延する悪い統治は強力な既得権益を生み出す。その権益は危険で、時として地下犯罪組織が絡んでくることもある。変化を求める人々にとって、その信念に基づいて行動することは自らの名声や暮らし、ときには命さえも危険にさらすことを意味する。教育制度における汚職と闘うにしても、公的医療サービスや電力供給の手続きを優先的に進めてもらうための「スピードマネー」と称される袖の下の支払いを拒むにしても、悪い統治がはびこる状況の中で正しい行いをするのにどれほど勇気が必要か、容易く想像できるものではない。良き指導者たちは、その取り組みを続けていくために信頼できる独立した「政治的保護」を必要としており、外部からの援助は、彼らがこのような保護を求めて頼ることのできる唯一の中立した政治的保護の提供源なのである。

最後にもう1つ忘れてはならないこと

我々が「開発(development)」と呼んでいるものは途上国に住む人々の立場から見ると「改革(reform)」であるということはあまり理解されていない。開発プロセスは、いかなる国においても、社会的、経済的、政治的変革、つまり改革にほかならない。

援助を決定することは被援助国の改革プロセスに関わることを意味する。援助国は、この事実から逃げることはできない。したがって、日本が援助の実施を決定した場合、それは、日本の国家としての名声を賭けることを意味する。この事実に真正面から向き合わずに、国益の問題として良き援助を語ることは許されない。正しいことをすべきであり、正しいことは正しい方法で行うべきなのである。

その際、正当な理由があるときは明確に「ノー」と言う勇気と力を持たなければならない。悪い統治を放置し妥協することは、貧困の根本的原因をますますはびこらせるのみならず、援助国としての名声を危険にさらすことでもある。援助の要請に対して悪い統治のために「ノー」と言うことは、開発の年間予算を消化するといったような形式的な目標を達成するために妥協するより、はるかに大きな影響力を及ぼす。

マスメディアが取り上げようと取り上げまいと、「ノー」を表明することは大いに報道価値のある出来事であり、その行動によって、信じられないほど多くの優れた指導者や多くの援助要請が導き出されるのは常に起る現象だ。その結果、援助機関や援助国の「顔」は、より明確に「目に見える」ものとして、被援助国の人々に認識される。

外部援助機関が信念に基づく姿勢を示すということは、とりもなおさず、良き指導者と彼らに代表される人々、つまり、良き変化を求める人々に支援の手を差し伸べることにほかならない。残念ながら、現実にはそういう姿勢はめったに目にすることができない。日本のODAのあり方が変わり、世界中の他の援助国の模範を示してくれることを望んでやまない。

2005年10月4日

2005年10月4日掲載

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