RIETI海外レポートシリーズ 国際金融情報スーパーハイウェイの建設現場から

第三回「投資銀行におけるオフショアリングとアウトソーシングの黎明期(1)」

松本 秀之
コンサルティングフェロー

前回のレポートでは、1970年から1989年までのオフショアリングとアウトソーシングの胎動期に焦点を当て、拡大する国際的金融取引に伴う事務処理を、組織の中でどの様に行うのかという問いに、欧米系投資銀行が直面したことを洗い出しました。今回は、国際政治経済の動き、投資銀行ビジネス、そして事務処理システムという3つの観点から、1990年から1995年までのオフショアリングとアウトソーシングの黎明期を考察します。

国際政治経済:1992年9月の英ポンド危機と1993年1月のクリントン政権発足

公共投資による有効需要創出の重要性を説いた、自国の経済学者ケインズの理論に基づき、第二次世界大戦以降、イギリスは長期にわたり、いわゆる「ゆりかごから墓場まで」の高福祉政策を取り続けてきました。その結果、インフレーションと失業との相関関係を解き明かした、同じく自国ロンドン・スクール・オブ・エコノミックス(LSE)教授の経済学者ウィリアム・フィリップスの指摘とは裏腹に、物価と失業率が共に上昇するスタグフレーションに陥ります。

このスタグフレーションを打破する事を目指して、マーガレット・サッチャーは1979年-1990年までの約12年間の首相在任中、大きな政府から小さな政府への構造改革を実施します。彼女は改革の一環として、証券取引手数料自由化と外国資本のロンドンシティへの参入許可に象徴される金融部門の規制緩和、いわゆる「金融ビッグバン」を推進します。しかし、このサッチャー政権、その後、この政権を受け継いだジョン・メージャー政権の期間には、この改革は大きな成果を実らせることなく、1992年9月、ジョージ・ソロスの英ポンド売り浴びせにより、通貨危機を迎えることになります。

しかし、このポンド危機が起きた1992年から現在に至るまで、ロンドンシティが国際金融市場として発展・拡大する事により、イギリス経済は長期にわたり回復します。その要因の1つとして、ロンドンシティに参入してきた外国資本が、OTCデリバティブビジネスを拡大させてきたことがあります。現在、このOTCデリバティブ市場では、金利、通貨、債券、株式、コモディティ、クレジットなどの様々な原商品に対して、スワップやオプションなどの取引手法を種々組み合わせることにより、多種多様な金融派生商品が誕生し取引されています。

1993年1月、アメリカではクリントン政権が発足します。1981年から1989年までのレーガン政権、その後の1989年から1993年までのブッシュ政権の間に蓄積されてきた、巨額の財政赤字を引き継ぐ事になったビル・クリントン大統領は、政権発足直後から財政再建に乗り出します。彼は、「情報スーパーハイウェイ構想」を提唱するアル・ゴア氏を副大統領に、そして金融業に精通しているロイド・ベンツェン氏を財務長官に任命。さらに、ウォール街で長年にわたり敏腕のトレーダーとして活躍し、当時、アメリカ系大手投資銀行の共同会長の職にあった ロバート・ルービン氏を、経済政策担当大統領補佐官に任命します。1995年、ルービン氏はロイド・ベンツェン氏の後任として、財務長官の職を受け継ぐことになります。このようにクリントン政権は、「金融とIT」を軸としたアメリカ経済の活性化を目指す布陣を取り続けます。その結果、アメリカの企業業績は回復し株価も上昇。アメリカの財政は改善し、長年にわたり赤字であった財政は1998年に黒字転換します。

日本の金融アーキテクチャ:株式市場と債券市場の変化

1990年、日本の株式市場は大暴落します。1990年1月の日経平均株価(日経225)は約3万8900円でしたが、同年10月には2万円を割り込む水準にまで下落。翌1991年には約2万7200円まで回復する場面があったものの、1992年から1995年までの期間に日経225は、約1万4200円から約2万3900円の範囲で推移する事になります。一方で、日本国債の発行残高は、1990年の約166兆円から1995年の約225兆円へと増加しています。因みに1996年以降の数年間で国債発行残高は急増。財投債を除く普通国債のみの残高だけでも、2000年には約367兆円、2005年には約526兆円(財務省の公表値から抜粋(注1))までに達しています。

さて、1990年を迎える前の数年間、日本の金融市場は株式市場と債券市場の2つの分野で大きな変化が見られます。

まず株式市場では、1986年シンガポール国際金融取引所(SIMEX)に、日経225先物が上場したことを受けて、1988年「海外証券先物取引等に関する規則」が日本証券業協会(JSDA)により施行されます。これにより日本の証券会社はSIMEXの先物を運用する事が可能となります。同1988年、東京証券取引所(TSE)に東証株価指数(TOPIX) 先物、大阪証券取引所(OSE)に日経225先物、翌1989年、TSEにTOPIXオプション、OSEに日経225オプションが上場します(注2、3)。このように新しい先物オプション市場が構築されたことを受けて、1990年以降、現物取引と先物取引との価格差を利用して収益を得る、いわゆる「裁定取引」(アービトラージ取引)が、TSE、OSEそしてSIMEXにおいて活発に行われることになります。これに伴い1991年5月から、各証券取引所は裁定取引状況を毎日開示します。

株式市場と同様、日本の債券市場は新しい仕組みを取り入れています。1985年10月、TSEに償還期限10年国債を基準とした長期国債先物取引市場が開設。1987年7月、ロンドン国際金融先物オプション取引所(LIFFE)で同じ長期国債先物取引が開始されます。1988年7月、償還期限20年国債を基準とした超長期国債先物取引が開設(注4)。また、1989年4月、選択権付債券売買取引、いわゆる債券店頭オプション(OTCオプション)取引が解禁されます。これは、証券取引法(当時)の有価証券店頭オプションの範疇としてではなく、あくまでも債券売買の取引形態の1つとして定義付けることで可能となりました。更に、1989年5月、債券貸借取引市場の創設が行われた結果、日本の債券市場は、現物、先物、オプション、そして貸借を有する仕組みが出来上がりました。

事務処理のシステム:多種多様な情報システムの存在

前回のレポートでは、1989年までの胎動期に「大量に発生した国際金融取引を、何処の誰が、どの様に処理を行うのかが、最大のテーマとなっていた時代」としました。1990年以降、投資銀行は国境を跨いだ多種多様な金融取引を益々増加させます。それと同時に、取り扱う金融商品が日本株式や日本債券である場合は東京支店、それが英国の株式や債券である場合はロンドン支店という縦分けが、投資銀行の組織内部に確立・定着していきます。その結果、ニューヨーク・ロンドン・東京・香港などの各拠点間の事務処理、またそれぞれのローカル市場での事務処理の両方を行う必要が生じ、事務処理の現場で取り扱うシステムの数が急激に増加しています。

一般的に投資銀行の事務処理システムは、3つの階層にある複数のモジュールによって構成されています。まず、第1階層には、株式、債券、先物といった金融商品の属性、たとえば銘柄名、銘柄コード、額面単位、通貨、株式の上場証券市場、株式発行会社の本決算日・中間決算日、債券の利率、経過利子の計算方法などを管理する商品マスター、取引する相手方すなわち顧客とブローカーの属性、たとえば顧客やブローカーの名称、口座番号、住所、職業、居住者・非居住者の別などを管理する顧客マスター、そして商品マスターと顧客マスターからデータを取り込み、個々の金融取引に関わる約定年月日、受渡年月日、通貨、単価、額面、委託手数料、経過利子、市場名などの情報を付加することで、約定データを作成・記録するモジュールが存在します。

第2階層には、第1階層で作成した金融取引約定データをもとに、投資銀行の自己勘定におけるポジションを管理する機能と、資金証券決済を取り扱うモジュールが存在します。自己勘定のポジション管理モジュールは、全社、部門別、グループ別、そしてトレーダー別というさまざまな階層で括ったポジションと、金融取引を行った際の約定価格と日々変動する市場価格との価格差を洗い出し、ポジションと価格差とを掛け合わせることで、現在の評価損益を算出します。また、資金証券決済モジュールでは、中央銀行、証券取引所、証券振替機構、証券金融会社、顧客、ブローカーなどとの、資金証券受渡に関わる銀行口座の確認や現金送金あるいは現物証券の受渡などを管理します。

そして第3階層には、資金決済と証券決済のデータを統合し、利金および配当金の受け払いや株式分割、合併、社名変更などを取り扱うコーポレートアクションを管理するモジュール、各国の一般会計原則(Generally Accepted Accounting Principles:GAAP)に基づく経理処理を行うモジュール、各国財務省、中央銀行、証券または金融取引所そして業界団体が、投資銀行に提出を義務付けている定期報告書や法定帳簿を作成するモジュールが存在します。ニューヨーク、ロンドン、東京、香港など異なった金融市場であっても、基本的に投資銀行の事務処理システムは、この3階層構造で作られています。

当時、この3階層構造の中で、あるシステムは外部組織のホストコンピューターに直結しているオンライン型、また別のシステムは国境を越えて各拠点間をつないでるグローバルネットワーク型、更に拠点独自に導入した特殊な社内ローカル・エリア・ネットワーク(LAN)型など、異なったシステム環境で稼動するシステムが複数存在しました。その結果、きちっと整理整頓された「幕の内弁当型システム構造」ではなく、殆どの投資銀行で「スパゲッティ型システム構造」と揶揄されるシステム構造となりました。

参入障壁との格闘:投資銀行の日本への進出と撤退

ハーバード・ビジネス・スクール教授のマイケル・ポーター博士のファイブフォースモデル(注5)が説明するように、新規参入には必ずそれを阻もうとする障壁が出現します。1980年代の半ばから後半にかけて、東京支店を開設し証券業の免許を取得した欧米系投資銀行は、ニューヨークとロンドンで確立した金融取引手法を、日本の金融市場で応用・展開しはじめます。日本の債券市場では機関投資家が億単位の取引を相対で行うことが既に定着していました。これは欧米の金融市場とほぼ同じアーキテクチャであり、更に前述の債券取引の先物、オプション、貸借取引に関する新たな市場創設およびルール改正が追い風となり、欧米系投資銀行は日本の債券市場において収益を拡大することができました。

他方、日本の株式市場は、いわゆる「日本版ビッグバン」の株式手数料体系自由化以前であり、まだまだ古くからの日本独自の慣習が色濃く残っていました。このことから、日本の株式市場において戸惑いながらの経営を強いられ苦戦が続いた欧米系投資銀行が少なからずありました。この中には日本での証券業の免許取得後、僅か数年で株式業務から撤退する投資銀行が数行ありました。その最大の理由は、株式業務に付随するシステム運用開発コストを含む事務処理コストが予想よりも高く、費用に見合う収益が得られないことでした。

以上の事から、今回のレポートで焦点を当てた投資銀行におけるオフショアリングとアウトソーシングの黎明期は、債券市場の収益性という点から日本の金融市場の魅力は充分に理解できたものの、「異なったアーキテクチャを持つ日本の株式市場で、どの様に投資銀行ビジネスを展開し、収益性を確保していくのか」という問いに、欧米系投資銀行は悩まされていた時期といえます。そこで次回は、1990年から1995年までの間に欧米系投資銀行が遭遇した日本の金融市場に参入する際のコスト高の原因に焦点を当てて、ご報告を致します。

2007年11月22日
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脚注
  1. 財務省(2006)、「債務管理リポート2006-国の債務管理と公的債務の現状-:国債発行残高の推移」
  2. 東京証券取引所(2007) 、「TOPIX先物取引の歴史」
  3. 大阪証券取引所(2007)、「歴史・沿革」
  4. 東京証券取引所(2007)、「国債先物取引の歴史」
  5. マイケル.E.ポーター(1995)、『新訂:競争の戦略』、ダイヤモンド社、ISBN 978-4478371527

2007年11月22日掲載

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