小林慶一郎のちょっと気になる経済論文

第3回「価格の粘着性は、本当に重要か?」

小林 慶一郎
ファカルティフェロー

マスターくん
某私立大学大学院修士課程2年生(経済学)。経済学者志望で目下猛勉強中。

小林 慶一郎写真小林フェロー:今回とりあげる論文は、Dittmar, R., W.T. Gavin, and F.E. Kydland (2005). "Inflation Persistence and Flexible Prices." International Economic Review 46(1): 245--61.です。

量的緩和などの金融政策の効果を分析する際には、価格粘着性が存在することを仮定し、その価格粘着性のために引き起こされる非効率を、金融政策でどの程度解消できるか、という問題が中心課題とされています。これは現在、金融政策研究の主流となっているNew Keynesian理論の考え方です。しかし、実証研究によると、企業レベルの価格改定の実際の頻度は、マクロデータの動きと整合的な価格改定の頻度よりも、ずっと高いという問題があることが知られています(Klenowほか、 JPE)。たとえば、Christianoは、この問題を解決するために、New Keynesianモデルにおいて、Firm-specific capital(企業特殊的な資本)を仮定すると、企業レベルの実証結果が示す高い頻度の価格改定があっても、マクロデータと整合的になる、というモデルを提唱しています。

しかし、価格粘着性が問題の中心だとするNew Keynesian理論の基本的な考え方を真っ向から否定するモデルも提唱されています。それが、今回紹介する論文です。

現実のデータが示すインフレ率の粘着的変化(フィリップスカーブの根拠となるもの)を説明するために、価格粘着性の仮定は不要であるというのが、この論文の主張です。伸縮的価格の下で、生産性ショックが粘着的であると仮定する。この環境で、Taylor Rule型の金融政策を実施すると、生産性ショックの粘着性が、政策反応によって、インフレ率の粘着性に変換されます。その結果、インフレ率がアウトプットに連動するというフィリップスカーブの関係が、(金融政策の結果として)発生すると主張しています。著者の1人、Kydlandは2004年にノーベル経済学賞をとったReal Business Cycleの理論家ですが、まさしく、Kydlandの面目躍如たる論文といえるでしょう。

マスターくん画像マスターくん:New Keynesian理論の基本的な考え方を真っ向から否定するモデルとはどういうものなのでしょうか?

小林 慶一郎写真小林フェロー:モデルの基本的な構造は、Real Business Cycle モデルです。貨幣は、ショッピングタイムを短縮するものとして、消費者の時間制約に入ってきます。貨幣(実質値)を多く持つほど、消費者はショッピングタイムを節約できるので、労働時間や余暇を増やせます。貨幣需要はこの時間節約についての最適化の結果、決定されます。

この論文ではシミュレーションで、次のような結果を示しています。まず、金融政策がランダムな場合(貨幣供給量が、ある一定の値の周辺で、ランダムに変化するようなケース)、インフレ率は粘着性を持たず、インフレ率とアウトプットの間にもほとんど相関は見られません(わずかにネガティブな相関があるだけ)。

次に、中央銀行がTaylor Rule型の金融政策を実施している場合を検討します。このモデルでは、Taylor Ruleにおけるインフレ率の係数(νπ)が1以上だと、物価水準が不決定になってしまう。これは、νπ<1のときに物価水準が不決定になるというClarida, Gali, and Gertler(2000)の結果と大きく対立します(この違いについて、Dittmarらの解釈は不明確なのだが、とりあえず次のように説明している:Monetary Transmission Mechanismが、2つのモデルで異なっている;この論文では、期待インフレ率の変化を通じて、金融政策は実物経済に影響を及ぼす;一方、Claridaらのモデルでは、期待実質利子率の変化を通じて、金融政策は効果を発揮する;この違いが物価水準決定の違いを生み出す)。

Taylor Rule型の金融政策の下では、生産性ショック(自己相関係数ρ=0.95を仮定)の粘着性が、インフレ率の粘着性に変換され、インフレ率とアウトプットも強い正の相関をもつことが示されます。さらにこの結果は、インフレ率の係数νπを変化させても、定性的にはあまり変化しないことがわかります(Taylor Ruleのアウトプットの係数νyを変化させると、結果は変化します。νyが小さくなると、インフレ率とアウトプットの相関はネガティブになる)。

こうした結果を受けて、Dittmarらは、現実のデータで観測されるフィリップスカーブ(インフレ率とアウトプットの正の相関)の関係は、金融政策によって引き起こされる「人工物」(artifact)にすぎないのではないか、と論じています。

マスターくん画像マスターくん:なるほど。かなり刺激的な内容です。この論理の弱点はあるのでしょうか?

小林 慶一郎写真小林フェロー:この論文の問題は、生産性ショックに強い粘着性(ρ=0.95)を仮定していることと、νπ>1だと物価水準が不決定になってしまうことであると考えられます。

たとえば、改善の方法として、Kiyotaki and Moore (1997)の担保制約のモデルに、貨幣を導入したモデルを考えて、そのモデルでTaylor Rule型の金融政策を考えてみましょう。Kiyotaki and Mooreのモデルでは、生産性ショックに粘着性がなくても、土地(担保資産)の価格変化が担保制約を経由して生産活動に影響するため、資産価格とアウトプットは粘着的に変化します(正確にいうと減衰振動を行う)。このアウトプットの粘着的変化があれば、Taylor Rule 型の金融政策は、(Dittmarらのモデルと同様のメカニズムで)インフレ率の粘着性を生み出すのではないかと思われます。この場合、ρの値が小さくても、おそらくフィリップスカーブのようなインフレ率とアウトプットの相関も強く出るのではないでしょうか。また、Kiyotaki and Moore のモデルでTaylor Ruleを考えれば、インフレ率の係数νπが1を超えても、物価水準が不決定にならないかもしれません。もしそのような結果が出れば、既存の研究とも整合的になり、Kydlandらの仮説(価格粘着性がなくてもインフレ率の粘着性やフィリップスカーブは説明できる)を補強することになるでしょう。

マスターくん画像マスターくん:Kydlandらの仮説が正しかった場合、政策的インプリケーションはどうなるのでしょうか?

小林 慶一郎写真小林フェロー:この論文のモデルの世界では、金融政策そのものは、実物経済を変化させる効果をほとんどまったく持たないことになります。金融政策の役割は、実物経済の変動を、ただ単にインフレ率の動きに伝えるだけです。したがって、「何パーセントのインフレが経済にとって最適か」という設問は意味をなさない、ということになります。つまり、インフレ・ターゲットは議論する必要もない、ということです。Kydlandたちは、物価変動は(おそらく、この論文のモデルでは取り上げていない小さな撹乱効果によって)経済活動を阻害するので、金融政策の目標は好況期であっても不況期であっても、物価安定(ゼロ・インフレ)とするべきだと考えています。彼らは、マクロの景気変動を金融政策で緩和できる、という考え方そのものに、強く反対しているのです。

さらに、この論文のモデルをKiyotaki-Mooreモデルに置き換えて、それに名目貨幣とTaylorRule型金融政策を組み込んだモデルを考えると、その政策的インプリケーションはどうなるでしょう? まだ、厳密な分析はしていませんが、おそらく、資産価格の変動を通じて、金融政策は実物的効果を持つことになるでしょう。しかし、その場合も、おそらく一般物価のインフレ率(あるいはデフレ率)は、実物経済に対して直接的な影響はほとんど与えない、ということになるのではないでしょうか。ひょっとすると、金融政策のターゲットとして、むしろ、土地価格や株価のような資産価格を重視すべきだ、というインプリケーションが得られるかもしれません(注1)。このような考え方がうまく示されれば、(価格粘着性がすべてというNew Keynesianや、金融政策は無意味というReal Business Cycleよりも)実世界の感覚に近いモデルになるのではないかと考えます。

2006年3月30日
脚注
  1. ^ 次回紹介する論文(Iacoviello、AER2005)は、粘着価格モデルとKiyotaki-Mooreモデルを組み合わせたものですが、そこでは、金融政策が資産価格に反応しても効果が改善しないことが示されています。しかし、この結果が示しているのは、金融政策にとって資産価格が重要でない、ということではないかもしれません。たとえば、(伸縮価格の世界で、あるいは粘着価格の世界で)資産価格を経由して金融政策は実物経済に影響を与えるのだとしても、金融政策を実施する上では、一般物価のインフレ率に反応するだけで十分だ、ということを示しているのかもしれません。

2006年3月30日掲載

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