IoT, AI等デジタル化の経済学

第125回「人工知能の時代における人間とは何か」

岩本 晃一
リサーチアソシエイト/日本生産性本部

1 はじめに

私は毎年、1~2回、ドイツに出張して専門家と意見交換している。日本では、「IoT、AI等デジタル技術分野」において、自然科学分野の研究者がとても多いが、社会科学の研究者はほとんどいない。国内で意見交換しようにも相手がいないからだ。

ドイツは、労働組合が強いこともあり、インダストリー4.0構想を発表した2013年直後からドイツ連邦経済エネルギー省が「労働4.0」プロジェクトを実施してきた。

AI技術は、人間の働き方に大きな影響を及ぼすので、自然科学と社会科学を車の両輪としてバランスをとって進めないといけないという考えからだ。

ドイツには、推測だが、同分野には社会科学の研究者が1000人くらいいる。そのくらい社会科学からのアプローチが社会的に重視されている。日本は、片輪で進んでいると言っても過言ではない。

2019年の11月、ドイツを訪問し、専門家と意見交換して気付いたのは、「労働4.0」プロジェクトは、ほぼ結果が出ていて、彼らの頭の中ではほとんど終わったプロジェクトだという意識であった。

その次に彼らが最も関心があるテーマは「MMI(Man Machine Interaction)または HMI(Human Machine Interaction)と呼ばれる、機械と人間が共存するはどうすればいいかというテーマだった。

私も大いに彼らに感化され、日本に帰国してこのテーマを考え続けたが、議論できる相手が日本にはいないため、研究がほとんど前進していない、というのが正直なところだった。

2 問題意識

このテーマの「問題意識」をまとめると以下のようになる。

人間と機械の境界はどこにあるのか。機械は一体どこまで人間の動きのなかに侵入させたらいいのか。

例えばロボットであれば、今は人間の手とほとんど同じような繊細な動きができるロボットが作られている。床から人間の手が生えている、という錯覚に陥るようなロボットだ。

工場では、人間でなければできないと言われていた作業、例えばとても細かい部品を取ってきて小さいものを組み立てたり、機械の裏側に人間が入り込んで組み立てるような作業は、人間でないとできないと言われてきた。

だが、こういった作業も多分、もうすぐロボットができるようになるので、生産現場から人間がいなくなる日が、すぐ目の前まで来ている。

最近では人工知能が出現し、視覚を持って、見て、認識して、考えて結論を出すという機械が出てきた。人工知能は、認識をしてもその意味を理解していなかったが、2年ほど前に、猫を猫だと理解して認識することができた。それがさらに進化すると、本当に人工知能が理解して認識をすることが可能になってくると思われる。

最後の人間の砦と言われた芸術分野も、実はよく、分解して見ると、いわゆる繰り返しの部分が結構あり、繰り返しであれば必ずプログラミングできるので、そこも人工知能でできるだろう。

そうすると、最終的に、人間に残される部分は、本当に創造的な部分や初めて実施する部分、何か突拍子もない事件が勃発し、過去に前例のない対応をする部分、などということくらいしか残らなくなる。

40~50年後には、人間の社会は、そういう社会になるだろうというのがもうほぼ見えてきている。

そういった時代に、それでも人間が人間らしく生きるには、人間が生きがいを持って生きるには、どうすればいいか。

やはりわれわれの社会は人間中心の社会なので、機械の進歩が人間の生活を豊かにしないといけない。

機械に仕事を取られた、生きがいを取られたという時代ではなく、技術の発展が人類に貢献することで、人間が生き生きと生活できることが重要である。

生き生きと生きる、生きがいを感じる、人間をあくまでも機械がサポートする、そういう機械と人間の関係は一体どうあるべきだろうか。

人間の考え方、感受性、人間が人間としてどうあるのが一番いい社会なのか、そこを考えていかないと、人工知能も、むやみやたらと技術だけ進歩すればいいというものではない。

そういう領域に入りつつある今、人間と機械の境界はどこにあるのか、どう考えればいいのだろうか。

例えば自動車という機械が世の中に出てきたが、自動車ができたことによって、人間を運んでいた仕事、籠屋の仕事はなくなった。だが、自動車の方がはるかに快適に、はるかに遠くまで、速く人を運ぶということになった。自動車は人間の社会を豊かにしたと思う。

自動車の出現によって、人間が非常にみすぼらしくなったということにはならないような気がする。

昔は、郵便物は、飛脚という人間が運んでいたが、これも今は人間が走って運ぶことはなくなった。これも人間の社会が豊かになったと考えられると思う。

昔はピラミッドも、重労働を担う労働者が造っていたが、今、重機という機械が登場し、造るようになったので、人間が重労働をすることはなくなった。

そういう機械は、これまで人間社会を豊かにしてきた、心を豊かにしてきた、生きがいを感じるようになった、というとらえ方ができると思う。

だが、これから、人工知能のように、人間の脳の働きを機械が代替するような、本格的な人工知能の時代になってくるとき、頭を使わないで体を使うのが得意な人々、身体を使う仕事をするのが得意な方々は多くいるが、それが完全にロボットで置き換えられたときに、それはどうとらえればいいのだろう、本当にそれでいいのだろうか、それで人間は豊かになったのだろうか。

体を動かして仕事をするのがその人の幸せ、というような人もいる気がする。

3 京大100人論文

そうこう悩んでいるとき、たまたまネットカンファレンス「京大100人論文」が開催されることを知った。この場で是非、他の分野の方々の専門的な知見を伺ってみたいと考えて登録した。私は、「人間とは」というテーマでの議論に参加した。

「京大100人論文」とは、主催者(京都大学 学際融合教育研究推進センター)によれば、以下のような内容であった。

「京大100人論文」とは、研究者が研究テーマを匿名で出し合い、
匿名で意見交換を行う本音で本気の対話の場です。
毎年京都大学で開催され今年8回目。
加えて、この「100人論文」形式は、広島大学、東京大学、
新潟大学、愛媛大学、名古屋大学、関西大学、横浜国立大学等、
たくさんの大学にて展開されました。
この度、2020年度はオンライン開催とし、研究テーマの掲示を
京都大学に限定せず、全国の研究者対象にしました。
さらに、オンラインを活かした新たなとりくみとして・・・

●単なるオンラインポスター発表ではなく,
メディア・企業・文部科学省等のメンバーによる
ラジオ形式のトークセッションを同時開催

●「この研究者とこの研究者が対話したら面白いのでは?」という即興ライブトーク

● 100ものテーマをざっと把握できるようポッドキャストにて全研究テーマの解説音声に挑戦いたします。
ぜひとも、研究者および博士課程院生の方々は研究テーマの応募をご検討ください。
対象以外のかたも、自由に閲覧・コメントが可能ですので、期間中、ぜひともアクセスください。

期間: 2020年12月11日(金)~15日(火)の5日間
研究テーマ掲示の対象: 全国の研究者・博士課程院生。12月4日締め切り
閲覧: どなたでも
参加費: ともに無料
詳細: https://www.cpier.info/2020-100nin

4 各参加者からの「人間とは」

〇 労働に関していえば、西洋では、リンゴの木を黙って食ったから、お前に、罰として働かせてやるといって、労働が生まれた。
一方、仏教では、仏教経済学、仏教哲学で見聞きした言葉ではあるが、仏教では働くということには3つの目標がある。
1つ目は、おのれの与えられた能力を磨く、あるいは試すため。例えば走るのが速いやつは飛脚になるかもしれない。そういう意味で、天から与えられたものを全うする。
2つ目は、人様と一緒に働いてわが身を振り返るため。一緒にみんなで協働し、俺は悪いことがあるなと思って、わが身を戒める。人様と協働して、わが身を振り返るため。
3つ目は、食っていくだけの録を得る。3つ目に金もうけが来る。

〇 人間の階層や世間の差別をなくしたら人間ではなくなると思っている。人間の本性に、差別、区別、階層というのはできてしまうものではないかと思っている。完全になくしたら人間ではなくなるような、何かよく分からない欲がある。

〇 人間というのは生存するということを第一義において、その生存にとって、階級が都合いいから、人類は階級というのを持ったとも言えるかもしれない。いわゆる合理性で説明できるだけではなく、人間の感情的なものが、マイノリティーや差別を存続させていると思う。 それは人間の感情にとって、メリットがあるから、マイノリティー的な差別のようなものがずっと維持されていると思う。それは人間のどういう感情に訴えるから、こういうものが存続させられるのだろうか。合理性と感情と両方から説明をするといいのではないか。

〇 感情と、一言で言うが、感情というのは何だろうか? 感情というのは、基本的に体の反応があった上に、過去の経験であるとか、現状の把握から、どこに体の変化の意味付けを持続させるかということでしかない。感情と一言で言っても、コグニティブな面もあるし、生理的な反応の部分もある。生理的な反応の部分で、例えば怖い恐怖の部分、例えばつり橋の上に立ったときに起こる体の反応というのは、隣に彼女、彼氏がいるときのドキドキと同じ。そこにつり橋というのを帰属させれば、高くて怖いだし、彼女が、彼氏が隣にいるというのを帰属させれば、俺、好きなのかもしれないとなる。
人間の肉体ではない部分、スピリチュアリティという言葉を使ってみようと思う。

〇 酒鬼薔薇事件では、犯人になった子供の生活世界から、悪いものというのが全部捨象されていて、学校でも、犯人が住んでいたニュータウンも悪というものが存在することを許されなかったから、彼は、独りになれる森、池のほとり、にずっと独りで通っていて、そこで、彼の抑圧された悪の部分を出すところに行き着いたのではないか。
でも、悪は、みんな持っている。悪いものを出す場所がなかっただけ。
悪はすごく強いパワーを持っていて、その強いパワーを自覚、持っているのではないかと自覚することは必要なのではないかと考えている。

〇 インドのカースト制にしても、どの階層の人でも、そういうものだ、と思って、その中で幸せにもなったり、不幸にもなったりするのではないか。

〇 インドはレイプ事件が多いが、レイプされる女のほうが悪いということになり、逮捕されるのは女。イスラムの地域でもそういう価値観が根強く残っているところがある。
それが西洋的な価値観にのっとって、レイプ自体が暴力だというふうに主張し、レイプするほうが悪いと主張したら、その女性は、糾弾される。
それはかなり極端な例だが、暴力を暴力として、批判してしまったら、もっと強い暴力を受けることがあることになるのであれば、合理的判断で、そういうものだ、と受け入れて、振る舞うというのはあるかと思う。

〇 脳が、アート、美、歌、神を生み出すのは、生存という意味で、何かあっさりと説明できるのだろうか。
アートというのは、人の知覚や感覚は、変化するものに、注意が持っていかれるというのは結構あって、私はラーメン理論と言っているが、おいしいラーメン屋さんは、おいしいだけでは駄目で、少し違うところが欲しい。その辺が美的なところに通ずるのかな。
結構いろいろなことが言葉で説明できると思うが、それでも説明しきれない部分というのはあり、分かっていてもできない部分だと思う。

〇 芸術というのは、合理的に割り切れない部分というのはあると思っていて、石器時代の石器を調べてみても、機能以上のプロポーションや美しさがかなり追求されている。
人間というのは、ホモサピエンスになる前からそういう、美的な感覚というのは持っていて、それは何のためにあったのか、その1つの説は、異性を引きつけるため。
鳥の羽とか鹿の角と同じようなもので、目立つやつが異性を引きつけて、そちらの方向に洗練されていく。異性を選ぶ目もそちらの方向に行く。
性選択の暴走というのがあり、芸術というのは結構そういうところがあり、科学にも同じことがあるのではないか、と最近思う。
クジャクの羽や鹿の角のように、どうしてこんなものを持っているんだと思われる、その合理的な説明はないが、その集団内ではそれを評価するというのが出来上がっていて、それに適合することがその集団の中では合理的であるということになる。
人間の文明とか社会制度というのは、何かしらの効率とか合理性というのがあるところも大きいが、それだけでは説明できない、そういう非合理的な方向に適用してしまったというところが結構あるのではないか。

〇 生存や生殖だけで僕らは生きていると思うと、何かさもしいなと思う。誰かを救うために、僕らは身を投げ出すし、他人の人でも線路に落ちた人を救う事例とかいっぱいある。いいか悪いかは別として、自分で突っ込むということも、それも説明できるのだろうか。

5 おわりに

コ-ディネーターの方が何度もおっしゃっていたが、専門は単なる一面でしかないのだろう。「人工知能」の観点から取り組む「人間とは」というテーマであっても、さまざまな分野の専門家がたくさん集まり、自分の専門領域の知恵を出し合って、それらをすべて整合的にまとめて、ようやく答えが出るか出ないかというようなテーマだ。

単に人工知能の専門家だけが、考えて答えが出るというものではない。

人工知能の進化が、そうした領域に入り込もうとしている今、学際的な研究が重要だと感じた。

2021年1月12日掲載

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