食料安全保障についての2つの誤り

山下 一仁
上席研究員

食料安全保障について注意を喚起したい議論がある。1つは従来から農業界以外で主張される議論であり、もう1つは最近農業界で聞かれる農業界の人たちには心地よい響きを持った議論である。

食料安全保障の主張は誤りか?

最初の議論から批判してみよう。

わが国では「比較優位のない農産物を日本で生産するのは不合理だ。石油を輸入に頼っている日本では、食料安全保障だけ考えても幻想であり、自由貿易を守り、輸入供給ルートを確保することこそが重要だ」という議論である。

農業の生産要素について、例えば除草剤や農業機械は労働で、化学肥料は堆肥でそれぞれ代替可能である。農業機械を動かすのに必要な石油の輸入ができなくなれば農業生産が行われなくなるという議論は生産要素間の代替性を考慮していないものである。農薬、化学肥料、農業機械がなくても戦前まで農業は営めたのである。終戦直後のように食料危機が生じるときは食料・農産物の相対価格が大幅に上昇している事態である。このようなときには市場に委ねた場合でも他の財の生産を犠牲にしても労働やエネルギー等の生産要素を食料・農業生産に振り向けるはずである。戦後の傾斜生産方式ではエネルギーを重点的に化学肥料の生産に投入したし、学校の運動場にはイモなどの農産物が植えられた。

なお、我が国の石油類の消費のうち農林水産業・食品製造業の占める割合はわずか6%にすぎず、輸入が相当期間途絶しても石油備蓄(現在の全消費の170日相当)を食料生産に優先的に割り当てることで相当期間食料生産は維持できる。

自由貿易は経済の厚生水準を向上させる。

しかし、ここには実は看過されている“現実”がある。

まず、輸出国の輸出数量制限や輸出税により、つまり政治によって市場が歪曲されることだ。ウルグァイ・ラウンドでは農産物の輸入数量制限はすべて廃止され関税に置き換えられた。関税化である。1973年のアメリカの大豆禁輸のような輸出数量制限の禁止を我が国は提案したが、インドの大使から不作のときに国内消費者への供給を優先するのは当然ではないかと反対された。また、輸出税は国際経済学では輸入関税と同様の効果を持つとされながら、ガット・WTOでは何らの規律もない。輸出国の論理で組み立てられているWTOでは、他の国が輸出制限や輸出税を課せば、供給が減少し国際価格が上昇するので輸出国は利益を受けるからである。現在、多数の国で輸出制限等が行われている。生命維持に不可欠な食料については、自国の国民も苦しいときにほかの国に食料を分けてくれるような国はない。自由貿易が食料安全保障を確保してくれるというのは国際食料市場の実情を理解しない議論である。

苦しいときには外国は当てにならない。食料安全保障とは、国際的な食料・農作物価格が高騰したり、海外から食料が来なくなったときに、どれだけ自国の農業資源を活用して国民に必要な食料を供給できるかという主張である。このとき必要な農業資源が確保されていなければ飢餓が生じる。

国際経済学の伝統的な理論は、生産要素は企業間・産業間を自由に移動するという前提に立っている。農業にはこの国際貿易理論の前提条件が該当しない特徴がある。それは、ほかならぬ農地である。農業の生産要素の中でも水と土地は他の生産要素で代替できない。しかも、農地は、いったん他の用途に転換すると再び農地に転換することは困難である。

つまり、農地が減少していれば、輸入農産物価格が高騰し食料供給が脅かされるときに、農業生産を十分に拡大できなくなるために通常考えられる以上に輸入国は窮乏化する。これが平時において農地資源を確保しなければならない国際経済学上の理由である。

安全保障とは何か。それは、軍事の世界でもそうだが“いざ“という時のための保険である。むろん、保険が実際に支払われるケースは稀だが、われわれはその“いざ”という事態のために備えて、積み立てておくのだ。農業の世界で言えば、優良農地を維持し増やすことにかかるコスト、具体的にはそのための農業関連予算がその保険料に相当すべきだろう。つまり、短期的には自由貿易がよいのであるが、穀物価格が高騰したり、輸入が途絶したりするなど、条件が変わりうる長期のことを考えると、自由貿易だけに任せて農地をなくしてしまうと、いざとなったときに餓死という大変悲惨なことになるのである。食糧安保とはこの長期のことを考えた保険の議論なのだ。

そのように考えると、農地を減らすという減反に保険料が支払われている現状は、矛盾に満ちているといわざるを得ない。また、公共事業等により110万ヘクタールの農地造成を行った傍らで、1961年に609万ヘクタールあった農地の4割を超える250万ヘクタールもの農地が減反等による耕作放棄や宅地などなどへの転用によって消滅した。農政は主張していることとやっていることとの乖離が大きすぎる。食料安全保障上、大切なのは、この農政の根本的な矛盾を正すことである。

日本の農業保護は少ないのか?

他方で、日本の農業保護の水準はアメリカやEUと比べても低いのだという主張がなされるようになってきた。その1つの根拠に日本の平均関税率12%はEUの半分だというものが挙げられているが、これにはコメ等の高い関税率は含まれていない。

もう1つの根拠として日本の国内保護額(6400億円)は1.8兆円のアメリカや4兆円のEUよりも小さいことが挙げられている。しかし、これは国内の補助金について算定したWTOのAMSの数値であり、その性格上OECDのPSEのように関税によって消費者が高い価格を負担している部分を制度的に無視したものだ。しかも、10月5日号で指摘したように、日本の農業保護の9割がこの消費者が負担している内外価格差によるものである。

しかし、論者はOECDは関税以外の消費者の評価による「国産プレミアム」という部分を非関税障壁として算入してしまっているとして、OECDを批判している。そうだろうか。OECDによる日本のPSEは4兆円であり、これとAMSとの差の3兆円以上が国産プレミアムとはとても考えられないだろう。さらに問題は、日本のAMS自体が国産プレミアムを算入していたということである。

AMSは、行政価格支持と補助金等の国内政策(関税は別途削減を行う)の削減の指標である。これもPSEと同様の考えにたつものであり、行政価格による消費者負担(内外価格差×生産量)の部分と財政負担による貿易歪曲度が高く削減対象となる補助金の部分からなる。97年度のAMSは3兆1708億円だった。このうち、補助金等の財政負担は2029億円にすぎず、消費者負担による内外価格差相当分は2兆9679億円で93.6%も占めていた。品目別にいえば米のAMS2兆3975億円のうち2兆3153億円(96.5%)が米の市場価格支持に由来する部分である。この部分は総AMSの73%も占めていた。これは食管法時代の日本の短粒種の米政府買入価格と長短粒種のタイ米の価格の差をとったものである。国産プレミアムは算入されていたのだ。

ところが、AMSは98年度には7665億円に大幅に減少した。これは食糧管理法が廃止され、行政価格である米の政府買入価格がなくなり、AMSの7割を占めていた米の行政価格による内外価格差相当分がAMSの算定約束上消滅したからである。我が国のAMSの減少は農業の生産性向上や国民・消費者負担の減少を反映したものではなく、行政価格廃止という単なる制度変更の結果にすぎない。しかし、国内政策だけを規律するAMSが内外価格差を行政価格と国際価格の差とするのに対し、関税等国境措置を含めトータルの農業保護を示すPSEは、行政価格の存在いかんにかかわらず、関税によって(国内市場を国際市場から隔離しているため)守られている国内価格と国際価格の差を内外価格差とする。したがって、現実の納税者・消費者の負担を表すPSEでは、米の内外価格差が残る以上算入されるので、PSEはAMSのように減少しない。

農業界が歩むべき道は、国内の消費が人口減少時代を迎え減少する中で、生産性向上に努め、国際競争力を向上させることによって、輸出に活路を見いだすことである。困難な努力を必要とする道だが、これ以外に日本農業が生き残る道はない。

2008年11月5日号『週刊農林』に掲載

2008年11月14日掲載

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