医療費の上昇は、現在の先進国に共通する悩みである。国内総生産(GDP)に対する医療費の割合が先進国でもっとも高い米国では、オバマ大統領が就任1年目の最大の課題として、政権の命運をかけて医療保険改革に取り組んでいる。わが国では経済が低迷した1990年代に医療費の対GDP比率が上昇した。政府はその後、一連の医療費抑制策を打ち出したが、これが医療崩壊を招いたという批判を浴びている。
先進国が経験している医療費の伸びは、経済学的に見て是か非か。最近の研究では「大筋では是」という回答が出ている。医療費が増加しても、医療による健康寿命(介護の必要なく元気に日常生活ができる期間)の伸びの経済的な価値が医療費増を上回るならば、われわれの生活水準は改善していると考えられる。
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ハーバード大学のカットラー教授とデューク大学のリチャードソン氏の1999年の研究によると、70年から90年にかけて米国民1人が生涯に使う医療費は2万5000ドル増加したが、健康寿命の伸びによる経済価値の上昇は医療費増の4倍近い9万5000ドルにもなると推計している。健康寿命の伸びには医療以外の要因もあり、医療サービスの貢献度がどれくらいか確定するのは困難だが、相当の貢献があるのは確実であり、医療費の増加は全体として有益だったと考えられる。
その後の複数の研究も、この結論を支持している。わが国でも、京都産業大学の福井唯嗣准教授と筆者の研究では90年99年にかけて、医療費増の4倍弱の健康寿命伸長による経済価値の増加があった。また、内閣府の河越正明氏の研究では70年から2005年までの期間に、医療費増の約10倍の経済価値の増加があったことが報告されている。ただし、これらの研究は医療サービス全体についての考察であって、個別の医療行為について無駄なものがないとは言い切れないことに注意しないといけない。
スタンフォード大学のホール教授とジョーンズ教授による07年の研究は、医療費が個人の選択で決められる場合、経済成長によって所得が上昇すると、医療費の対GDP比が上昇することを指摘している。医療サービスの目的は健康寿命を延ばすことにある。所得が上昇すると、その恩恵を享受できる健康寿命の価値も同等に上昇する。同じ医療行為でも、健康寿命を延ばす経済的価値は所得上昇後の方がより大きいため、医療サービスにより多く出費することが正当化される。
所得上昇が医療費増加の重要な原因であることは、かねて通説となっている。ハーバード大学のニューハウス教授による77年の研究は、先進国13カ国の所得と医療費の水準を比較して、所得が1%上昇すると医療費は1.2%程度増加するという結果を報告している。医療サービスを消費財の一種と考えると、所得の増加率以上に需要が増える奢侈財だということになる。消費者が医療に対してそういう選好をもつという説明にとどまらず、医療サービスの特性に基づいて医療費決定の構造を理論的に明らかにしたのが、ホール教授とジョーンズ教授の貢献である。
また、両教授の研究のもうひとつの大きな貢献は、健康寿命の伸長が経済的厚生(国民全体の経済的満足度)の大きな増加につながる事実を、経済成長理論の標準的モデルのなかに取り入れたことである。これによって、医療経済学とマクロ経済学の両分野にまたがって、健康寿命の伸長を経済成長の果実としてとらえる視点が与えられた。
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生活水準の指標として用いる1人当たりGDPは1年間の所得を示すものであり、寿命が伸びることでその生活水準を長く享受できる効果は考慮の対象外である。しかし本来なら、生活水準は生活の「質」(1年間の所得)と生活の「量」(健康寿命)の両者があわさったものとして考えるべきだろう。20世紀の間に平均寿命は大きく伸び、生活の「量」の拡大は非常に大きい。1900年の米国人の平均余命は47歳であったが、2000年には77歳に伸びた。わが国の平均余命の伸びはもっと大きく、20世紀初頭の44歳から2000年には81歳となった。つまり経済成長で1年間の生活水準が高まった上に、その水準を享受できる期間が米国で約60%、日本で80%以上伸びたことになる。
シカゴ大学のベッカー教授とフィリップソン教授、リオデジャネイロ・カトリック大学のソアレス助教授による05年の研究は、先進国と途上国との所得を比較する際には平均余命の違いも考慮に入れることが重要であると指摘している。途上国の平均余命は先進国よりも短いことから、1人当たりGDPで比較する以上に、先進国と途上国の生活水準の格差は大きいといえるだろう。一方、平均余命の伸びは途上国の方が大きかったので、先進国と途上国の生活水準格差の改善には、所得格差の縮小以上に健康寿命の改善が貢献したといえる。
米国では、政府による医療サービス保障は高齢者向けの公的医療保険制度と、貧困者への医療扶助制度に限られる。その他の現役世代については民間の医療保険への任意加入にまかされている。ホール教授とジョーンズ教授が想定するような「個人の選択で医療費が決定される世界」は、現在の米国の実態を表現しているとも考えられる。
そうすると、米国で医療費の対GDP比率が上昇を続け、先進国の中でももっとも高いという事実は、個人が望ましい選択をした結果だと解釈もできるので、両教授の研究は「政府の介入は必要ない」という医療保険制度改革への反対論に根拠を与えるようにも見える。しかし、シミュレーションの数値の設定を変えると、現実の医療費が望ましい水準にないことを示すことも可能であり、政府介入の必要性を否定する根拠とすることは適当ではない。
医療サービスの提供を市場にまかせ、個人の選択で医療費が決定されると、貧富の差が医療の差、ひいては寿命の差につながってくる。米国は世界随一の高度な医療が提供される一方で、多数の無保険者が存在するという医療格差の大きい国である。
米国以外の先進国は、貧富にかかわらず医療サービスを平等に享受できるよう、国民皆保険やそれにかわる手段を講じている。先進国の中で突出して米国の医療費が高いことは、政府の介入が医療費を低めるように働いていることを示している。ただし、ここで市場にまかせる米国の医療費の水準が適正なのか、それとも日本を含むその他の国の方が適正な水準に近いのかは、一概には決められない。医療サービスについては市場の失敗も生じる可能性が大きいからである。
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医療費についての意思決定が政治過程に組み込まれると、医療費はその拡大を求める勢力と抑制を求める勢力の均衡で決定されることになる。若年層が支払った医療保険料が高齢者の医療に使われるような世代間移転の仕組みや、公費負担が導入されることで、医療費を誰かほかの人が負担してくれるのではないかと有権者が考えて、コスト意識なく医療の充実を訴えるという「財政錯覚」が働くかもしれない。医療業界も医療費を増やすように政府に働きかけるだろう。一方で財政当局や、保険料の事業主負担をする企業は、医療費をコストという視点からとらえ、その抑制を目指すことになる。
医療費が決定される政治過程を明らかにすることも重要な研究課題である。しかし、それだけではあるべき医療費の考え方を見失うことになる。医療サービスを平等に受けられることを保証した上で、費用と便益を合理的に評価することにより、国民が納得する水準の医療を提供する必要がある。その際には、これまで十分な関心がもたれてこなかった健康寿命の経済学的な評価と、それに対する医療の貢献についての研究の知見を活用すべきだろう。
2009年10月5日 日本経済新聞「経済教室」に掲載