農業交渉 日本が打開役を

本間 正義
RIETIファカルティフェロー

世界貿易機構(WTO)の新多角的貿易交渉(新ラウンド)が農業分野の大枠をめぐり難航している。欧米主導で交渉が展開していることに発展途上国の反発が強い。日本は指導力を発揮するチャンスであり、ハービンソン議長案に立ち返り農業交渉を推進する役割を担うべきである。

「妥協案」に途上国不満

新ラウンドが難航している。メキシコ・カンクンで開くWTO閣僚会合で採択を目指す閣僚宣言案に、一般理事会のカスティーヨ議長は新ラウンドで最大の焦点となっている農業分野のモダリティ(大枠)案を盛り込んだ。それは8月に米国と欧州連合(EU)が合意した妥協案を基礎にしている。しかし、途上国をはじめ各国から不満が続出し、今閣僚会議での合意を事実上断念し、先送りすることがほぼ確実となった。本稿ではその背景と日本の対応について考察してみよう。

農業交渉はサービス分野とともに、ビルトインアジェンダ(前ラウンドにおける合意済み交渉項目)としてドーハでの新ラウンド立ち上げ以前の2000年に開始され、2003年3月末にはモダリティを確立することになっていた。

モダリティとは合意すべき約束の基準のことであり、その確立は実質的な交渉の決着を意味し、関税の引き下げ方式や削減の基準となる数値などが決定される。モダリティに関しては今年2月に第1次案、3月にその改訂版がハービンソン農業委員会特別会合議長により提示されたが、大幅な保護削減を求める輸出国と、最小限の削減にとどめようとする輸入国の双方から反対され、確立には至らなかった。

農業交渉の柱は「市場アクセス」「輸出競争」「国内助成」の3分野である。主要各国はそれぞれの分野で独自の主張を展開してきた。日本の関心が高い市場アクセスに関する議論を振り返ってみよう。

まず、大幅な市場開放を訴えて、オーストラリアなどのケアンズ諸国と米国は関税削減方式として高関税ほど大幅に引き下げる「スイス方式」を主張。具体的には、5年間で全ての関税が25%未満となるように削減し、その後、特定期限までに全ての関税をゼロにするという提案を行った。一方、EUや日本は貿易事項と非貿易事項のバランスを維持するように主張し、先のウルグアイラウンドと同様に最低15%、平均で36%の引き下げを提案した。

ハービンソン議長が提示した関税削減方式はこれらの折衷案であった。現行で90%を超える関税は最近45%、平均で60%の削減を行い、現行90-15%の関税は最低35%、平均50%の削減、現行15%以下のものは最低25%、平均40%を削減するというものだ。ただし、これらの数値はあくまで例示とされている。

これは、全ての関税を一定水準以下にするようなスイス方式ではないが、かといってウルグアイラウンド方式のように全品目をひとくくりにするのではなく、高関税品目ほど削減率を大きくして平準化を図っている。今交渉の争点の1つでもあるタリフピークス(突出した高関税)を削減しようという主張を取り込んだものである。

このハービンソン案に対し、米国やケアンズ諸国など輸出国は野心にかけるといい、日本やEUは急進すぎて国内農業が壊滅すると反対した。その後、8月に入ってこれまで激しく対立してきた米国とEUが新たな折衷案を模索し、共同提案に合意した。その提案に基づき、カスティーヨ一般理事会議長はカンクン閣僚会議の宣言文案に農業分野のモダリティに関する考えを盛り込んだ。

カスティーヨ案は関税削減方式では品目によってウルグアイラウンド方式かスイス方式、または撤廃のいずれかで削減を行うこととされている。すなわち、各品目の関税は(1)最低および平均引き下げ率を定めて削減(2)一律に一定水準未満に削減(3)関税の撤廃――のいずれかのグループに配分され、削減される。

また、関税の上限を設定し、それを超える場合は上限まで関税を引き下げるが、関税を引き下げない場合、当該品または他の品目の輸入拡大措置(関税割当枠拡大など)を講じる。各グループへの品目の配分比率や引き下げ率などの数値の書き込みはなく、フレームワークの提示にとどまる。

しかし、この提案に対し各国から不満が続出した。特にインドやブラジルなど途上国からの反発が激しい。1つにはハービンソン案に比べて途上国への優遇措置が明確ではなく、また途上国の輸出拡大につながるような先進国の保護削減も十分ではないからだが、同時に欧米主導で交渉が進められていることへの不信感も大きい。

ハービンソン枠組み支持を

先のウルグアイラウンドは、米国とEUの2者によるブレアハウス合意で決着したが、それは両者の利益のみを調整したものであった。他の加盟国、特に途上国が交渉の外におかれた感は強い。実際、ウルグアイラウンド合意で途上国は何の利益も享受していないとの不満が多く聞かれる。そして今回もまた欧米による決着が図られたが、加盟国の4分の3が途上国となった現在、同様の手法は通じないことが明らかになったといえよう。

今、日本の指導力が求められている。欧米案が途上国の反対で立ち往生しており、日本は彼らに変わり、農業交渉をまとめる絶好のチャンスである。それはこれまでの日本の主張を繰り返すことではなく、また欧米案を支持することでもない。基本はハービンソン案に戻ることであろう。

何も同案をそのまま受諾すべきだというのではない。その枠組みをまず支持して関税削減率などは日本独自の数値を書き込んで新たな提案とする。ハービンソン案の数値は例示とされている。もちろんこれらの数値自体が重要なのであるが、まずハービンソンの枠組みを承認することが打開への一歩となる。ハービンソンの枠組みはむしろ日本が積極的に支持すべきものである。

交渉の成功で構造改革推進

同案はこれまでの農業交渉の経緯を最も反映したものであり、交渉を取り仕切ってきた議長ゆえにバランスのとれた提案でもある。日本にとっては例示された関税削減率を基礎にしても大いに交渉の基礎となりうる。

例えば現在コメの関税相当量(2次税率)は490%とされており、案に従って現行90%以上の関税の最低減税率45%を適用するとすれば、5年間で270%まで引き下げることになる。国産米と類似した米国産米(うるち精米短粒種)は1キログラムあたり100円程度で輸入されるので、関税賦課後の国内価格は370円ほどとなる。国産米価格は1キログラム平均で300円程度であるから、まだ高関税で守られるであろう。ただし中国産など1キログラム80円程度のコメは国内産とほぼ同じ価格水準になると見られる。

なおハービンソン案ではミニマムアクセス(最低輸入義務)は最低8%までの拡大にとどめることができ、計算の基礎となる国内消費量は最近3年平均にできるため、コメのミニマムアクセスは現行より大幅に増えることはない。

今、世界は多くの地域自由貿易協定(FTA)などによりブロック化が進展し、WTO体制は弱体化の危機にある。WTO体制の維持と自由貿易の推進は日本経済の生命線である。また、この新ラウンドを成功させるためにも日本に寄せられている期待は大きい。

そもそもWTOは自由な貿易を通じた経済的繁栄を目指す国際機関であり、農業協定もその前文で長期目標として「公正で市場志向型の農業貿易の確立」を掲げている。農業協定第20条で規定している農業交渉の目的は「助成及び保護」の削減を通じた「改革過程の継続」である。日本は農業交渉を農業の構造改革へ結び付けていくことが重要である。

日本農業が国際競争の中で生き残るには、いまや一市町村の農地すべてを一経営体が担うほどの構造改革が必要である。そのためには農業以外の資本導入を促し、また新たな人的資本を蓄積するあらゆる方策を検討すべきだ。家族農業に固執することなく様々な経営展開の道を開き、市場競争を通じて生産資源は効率のよい農家、農企業に早急に集中すべきである。

欧米案かハービンソン案か。さもなければ決裂か。もし農業交渉が失敗に終わり、WTOが機能不全に陥るなら、日本経済のみならず世界経済へのダメージは大きくその費用は計り知れない。

2003年9月2日 日本経済新聞「経済教室」に掲載

2003年9月4日掲載

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