フェローコンテンツ: 社会システムデザイン研究会

第1回「社会システム・デザイン」のアプローチ

横山 禎徳
上席研究員(2002年7月-2004年3月まで在職)

かねてから提唱している「社会システム・デザイン」の方法論について説明していく。「社会システム・デザイン」は既存分野横断的であり、まだ明確な概念すら確立していない未完成な分野である。しかし、構造改革を含めて今後の日本が直面する社会変革の実効性を高めるために必要不可欠なアプローチであり、その方法論を組み立てるのが本稿の目的である。当然の事ながら、一個人の能力を超えた広がりのある分野であることは十分認識している。各方面の専門家からのご意見、ご批判を期待している。

説明する項目は

  1. 「社会システム・デザイン」とは何か
  2. どのようにデザイン内容を伝達するかー設計図書の組み立て
  3. 「社会システム・デザイン」の具体的取り組み
  4. 今後の課題
を予定している。ただ、話の展開によっては項目を変更する可能性もあることをご了承いただきたい。

1.「社会システム」デザインとは何か

1-1.「社会システム」の定義

「社会システム」という表現は時々耳にするが、それほど一般的に使われてはいない。当然、その定義はあいまいである。どちらかというと技術主導のプロセスに対して「社会システム」という表現が使われている。たとえば、「資源のリサイクル・システム」とか「産業廃棄物処理システム」などのように、多くの場合、社会を機能させる技術インフラというような意味で使われているようだ。

しかし、「社会システム」とは技術中心のシステムより広範な概念である。たとえば、「教育システム」や「徴税システム」も「社会システム」の定義の範疇に入るべきである。誰が考えても、両システムは技術主導というよりは、労働集約型のシステムである。長い歴史があり、最近ではIT等の先進技術も活用するが、基本的な部分は手法的にそれほど進歩していない。

確かに、「社会システム」の中には技術中心と考えてよいシステムも多く存在する。たとえば電力やガスなどの「エネルギー供給システム」、あるいは「上下水システム」などはそのシステムの設計において技術のロジックが優先する。それに比べると、「教育システム」は必要技能を訓練する以上に、どういう人格を育成したいか、創造性を高めることと規律は両立するのか、詰め込みよりゆとりのある教育の方がすぐれているか等のロジックよりは価値判断や価値観に左右される。

このように考えると、「社会システム」は技術ロジックの軸と価値観優先の軸との間に形成される平面に位置づけることができるだろう。その平面を4つの象限に分けてみると、それぞれの「社会システム」の持っている意味合いが浮かび上がってくる。(図1)

社会システムのタイプ(図1)

当然、技術のロジックも価値観も全く関係ない「社会システム」は見あたらない。また、純粋に技術ロジックだけで成り立つ「社会システム」も存在しない。多少の差はあれ、一定量の社会的価値観に基づいた判断が必要なシステムが大半である。「社会システム」はあらかじめ設定された設計要件に基づいてデザインされているが、それには国や地域社会の持っている価値観が色濃く反映している。

世界共通、あるいは世界標準の技術は存在しても、世界標準的「社会システム」は存在しない。たとえば、都市内「交通システム」において、ヨーロッパ諸都市が最近目指しているような環境破壊が少なく資源効率もよい、そして、高齢者が乗り降りしやすい低床式の電車中心で組み立てるか、アメリカのようにドア・ツー・ドアの利便性を重視した体系のままでいくかは社会のあり方に関する価値判断である。そういう意味においてもこれらのシステムは「社会システム」なのである。

では、「社会システム」と「社会インフラ」とは同義語だろうか。インフラと呼ばれるものがすべてシステム的に機能している限りにおいてはそうである。そして、システム的でない「社会インフラ」はなかなか思いつかない。それなら同じことではないかという向きもあろう。すでに流布している「社会インフラ」という表現を言い換える理由があるのだろうか。実は大いにある。

「社会システム」という表現は「社会インフラ」よりもっと積極的な意味を含んでいる。「社会システム」をここで「最終ユーザーに対する価値提供システム」と定義する。すなわち、市民、国民、消費者、生活者、あるいは企業等、どのような表現でもいいのだが、そのシステムの最終ユーザー、あるいは便益享受者がそのシステムの提供する価値を評価しているかどうかに焦点を当てた定義である。

最終ユーザーに価値を提供するには彼らの求めている価値を理解して認知し、その価値を創造し続けないといけない。その意味では「社会システム」という定義の方が「社会インフラ」というよりは常に変化している動態的(ダイナミック)な様相を捉えている。そして、変化に対応する努力を怠るとすぐに陳腐化するという意味合いも込められている。それに比べると「インフラ」、すなわちインフラストラクチャーはしっかりした構造ではあるがあまり変化しないスタティックな意味合いが強い。

最近では「交通システム」とか「金融システム」という表現が一般的に使われている。「交通インフラ」とか「金融インフラ」とはあまりいわない。多分そういう表現も昔はされたであろう。しかし、今では交通や金融などが持っている性格から、動態的なシステムとしての進化と多様な拡大の中でのシステム・バランスが重視されるようになって来たと考えていいだろう。また、そのようなダイナミクスをいかにデザインするかの技法が重要な課題として注目される時代になったことも示している。

「市場」は自然発生的に出現することがあり得るが、「社会システム」は自然発生的には出現しない。ある意志を持ってデザインされている。その本来の目的はすでに述べたように「最終ユーザーへの価値提供」とその質の継続的向上である。といってもそう簡単に「最終ユーザーへの価値」が定義できない難しさがある。

ここでいう「価値」は抽象的ではありえない。それぞれの「社会システム」において個別具体的に定義できる。それは「医療システムは私たちの病気を治してくれる」という程度のおおざっぱな定義ではない。最適な医師および施設を見つけるための情報、価格水準、病気に付随する心の痛みに対するケア、治癒後のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)、社会復帰、再発防止、家族の負担、治療施設の快適さ等、多様かつ具体的な提供価値が存在する。

最終ユーザーも年齢や性別による違いだけでなく、生活の水準や価値観を含めて多種多様なグループが存在し、そのグループごとの求めている価値は微妙に異なる。しかも、それは時間とともに変化していく。医療に対する要求レベルが高度化するだけではなく、社会環境の変化に応じて新たな要求が出てくることも大いにありうるからだ。1970年代のアメリカにおける麻薬中毒の問題や、最近のエイズの問題、そして、将来のアルツハイマー患者の増大などが例に挙げられるだろう。

昔の「医療システム」は単純であり、病気を治療し、治してくれるだけでありがたかったが、生活水準の向上、生活の高度化とともにそれだけでは満足しなくなってくる。このように提供価値への要求水準も上がっていく。それにつれて「社会システム」自体が複雑になるだけでなく、複数の「社会システム」にまたがった要求になっていくのは自然な流れである。

日本の「医療システム」においても、昔のように結核という伝染病対策が主体の時代から生活習慣病という慢性病対策に時代は移行している。また、生活者の高齢化とともに単なる老人医療という捉え方とは違う高齢者医療が必要になってきている。たとえば、「寝たきり老人」を前提とした医療から、「起きて歩き回り、目的を持って自活できる高齢者」を作り出す医療が求められている。

このような新たな課題は「医療システム」だけで解決できるものではなく、その他の「社会システム」の協力が必要だ。そういう意味では「社会システム」は単独で存在し完結するのではなく、いくつかの「社会システム」の相互連携という姿になるはずである。

そのような変化を継続的に組み込んでいく「社会システム」は価値提供における最終ユーザーとの接点からのフィードバック回路を備えているシステムである。そのフィードバックによって変化のダイナミズムの中でのシステム全体のバランスを保つのだ。現実の「社会システム」がそうなっているかは別として、本来そうあるべきなのである。

1-2.何故「社会システム」なのか

では、何故今「社会システム」を改めて語らないといけないのだろうか。日本にはすでに必要な「社会システム」の大半は存在し、それなりに機能しているではないか。改善の余地はたくさんあるが、わざわざ新たにデザインしないといけないほどではないだろうと反論する向きは多いかもしれない。しかし、それは現在の日本の置かれている状況と時代の認識と大いに関係がある。

日本の社会は明治以来、あるいは第二次大戦後から続いていた「追いつき追い越せ」的社会経済の発展フェーズが終わり、新しいフェーズに移行すべき時期に今ある。そのフェーズでは世界に先例や手本のない先進的課題に直面している。自分で答えのほとんどを新たに作り出さないといけないフェーズなのだ。その転換にとまどっているのが現在続いている停滞感の原因であろう。

新たなフェーズにおいては現行の「社会システム」は多少の改善と変更では済まない状況にあると認識すべきである。これまでは年々増加する豊かな財源をもとにナショナル・ミニマム(シビル・ミニマム)は充足し、安全で快適、かつ健康的な生活を送る基本的な条件が日本中に確保できた。しかし、それらの条件は今大きく変わろうとしている。

ナショナル・ミニマムを達成するまでは「社会システム」、あるいは「社会インフラ」への投資が果たして経済的つじつまが合うかどうかは問題にならなかった。日本中どこに住んでいても、最低限の安全で快適、かつ健康的な生活を保障することがすべてに優先された。それは「日本全体の均衡ある発展」のフェーズであった。

しかし、その目的はすでに達成した。従って、今後の投資は経済的つじつまが合う必要がある。何故なら、これからは「無くてはならないもの」への投資から、「あった方がいいもの」への投資に移行するからだ。その意味でもフェーズが変わったのだが、その変わり目のメリハリははっきりしていない。従って、投資効果の評価のないまま公共投資を続けて行っている。その結果、膨大な財政赤字を抱えるに至った。

一方、歳入の方はバブル崩壊以降減少し、一向に回復が見えない。人口の高齢化を考えると、労働人口は減少し、消費市場も縮小傾向に向かうはずである。急速な歳入増加を期待するのは現実的ではない。歳出の削減は避けて通ることができないことは明らかだ。ナショナル・ミニマムの公共サービスの水準を落としたくないなら、より生産性の高い「社会システム」に転換し、コストを下げていかざるを得ないはずだ。それが新しいフェーズの意味である。

別の見方をすると、戦後の「産業立国」を前提にした国家戦略の寿命が終わろうとしているともいえる。その戦略は日本を復興させ、世界に伍して戦える企業を排出し、結果として日本を世界第2の規模の経済まで発展させ、国民も豊かになり、物質的には恵まれた消費を可能にした。

「産業立国」は製造業の発展を暗黙の前提としたが、すでに製造業のGDPと雇用に占める比率は全体の3分の1以下にまで縮小している。製造業が衰退しているのではない。これまでずっと成長してきた。しかし、非製造業の成長がより速かった。そして、すでに製造業の雇用は減少を続け、非製造業が新たな雇用の大半を作り出している。

「ものづくり」の重要性が否定されたのではない。発展する非製造業、すなわち、国内サービス業のニーズと深く結びついた「ものづくり」が要求される時代になったと考えるべきだ。これまでもITの最大の顧客は国内の金融機関であったように、今後も非製造業の発展が新たな波及効果を作り出す。

このように、すでに日本は非製造業による「産業立国」の時代なのだが、それを「生活大国」という表現で捉えたのは間違ってはいない。しかし、その名のもとに90年代に430兆円つぎ込んだが、大半は建設業に消えていった。そして、「土建国家」と「箱物行政」という汚名が残ったのは周知のとおりである。

この最たる原因は「生活大国」の定義がはっきりしていなかったため勝手に解釈されてしまったことにある。生活の質の改善には各種公共施設、すなわち、ハードウェアの建設がありきではなく、オペレーティング・システム(運営の仕組み、OS)というソフトウェアが先にありきであったのだが、その認識は十分ではないまま予算が投入された。

バブル期以降、昔のような陰気な雰囲気ではない、見てくれだけは立派な病院が各地で建設されてきた。しかし、施設のハードウェアの改善だけが先行していたのが実態だ。患者の満足度を重視した上で、患者を引きつけ、経営的にも優れたOSを考え、それを施設の設計要件に組み込んだ病院の出現は遅れていた。

非人間的な巨大空間の壁に彫刻を施し、「癒しの壁」と名づけてみても、それを眺めて病人の心は癒されるわけではなく、長時間不安な気持ちで待たせない仕組みや医師の思慮深い言葉一言の方がよほど癒しにつながることにやっと気が付き始めた。しかし、それら個々の施設を目に見えない地域医療ネットワークにまでうまく組み込んだOSはこれからの課題である。

パソコンがインテルなどのチップを組み込んだ回路やLCDスクリーンやキーボードを組み合わせたハードウェアと、マックとかウィンドウズ等のOSとが表裏一体で出来上がっているのは誰でも知っている。しかし、最近のITの中核であるインターネットがTCP/IPという通信プロトコルによって成り立っていることを素人はあまり知らない。それ以上に、インターネットという「ハードウェア」がないことは誰も気にしない。一般大衆、あるいは「生活者」はOSという概念を無意識に受け入れている。

「生活者」は自分の望むサービス、あるいは抽象的にいえば、期待「価値」を確実に提供してさえくれれば、それが提供されるための目に見え、触ってみることが出来るハードウェアにそれほどこだわることなく、その「価値」を享受し、納得するのである。大半の「生活者」にとってはATMが24時間どこでも稼働していればいいのであって銀行の本店や支店が立派な建物である必要は全くない。

かつて、まだインターネットによるメールなどが思いもよらない時代に、受験生に問題を送り、返送すると採点して返し、全国の受験生の中での自分の順位を教えてくれるサービスがはやったが、その組織がどこにあり、どのような建物に入っているのかを受験生はとりわけ知りたいとも思っていなかった。質のいい問題をきちっと送りつけ採点して返し、自分の得点順位を教えてくれるOSを信用していたのである。

「生活大国」にまず必要だったのはこのようなOSの設計であった。そのために必要なのはこれまでの時代に合わなくなったOSを見直し、「生活者」の新たな要求に合わせて設計要件を書き直し、それに応じてOSをリデザインする作業であった。しかし、時の政府と官庁はそのような認識に全く欠けていたようだ。その最大の理由は、「『生活大国』を支えるのは『生活者に対する価値提供システム』の質の向上であり、それは古くなっているシステムのOSをデザインしなおすことだ」と誰も明確に定義しなかったからだ。

幸か不幸か、OSの古いままの箱物も、それ自体はパソコンほどの陳腐化スピードにはない。従って、これからOSをデザインし直しをしても、現在の箱物は多少の手直しで活用できるだろう。今、大々的にやるべきことは「社会システム」を古くからあるもの、新しく必要なものをはっきりと定義して列挙し、古いOSを作り直し、新しいOSを設計することだ。それが「社会システム・デザイン」なのである。

1-3.「社会システム」の特徴

「社会システム」は産業横断的である。「医療産業」と「医療システム」は同じものではない。医療産業といえば、伝統的に製薬業、医療デバイス業、医療機器製造業、病院、診療所、医療卸業、薬局、検体検査業、医療出版業、医療・製薬情報業等が挙げられるだろう。それぞれの業種、業態での競争や市場地位、技術開発、新製品、そして分野の発展、衰退が議論される。

ここで大きく欠けている議論はそれぞれの業種、業態がどのように相互関係を持ち、全体として効率よく機能しているのかということである。また、医療分野はもっと幅広い他の分野、すなわち、介護、金融・保険、就業者の健康管理、情報技術、食品衛生などの分野と関わり、影響を与え、また支援を受けている。そのような広がりの視点も欠けている。

それに比べて「医療システム」という視点であれば、上記の業種、業態に加えて、医者や看護士を教育する大学や専門学校、国民、政府管掌、組合の各種健康保険、医療保険、医者の責任賠償保険等の保険を提供する国や民間の保険業、医療機関に融資をする銀行業、病院等の施設を設計し、建設する設計・建設業、病院内および広域に医療情報ネットワークを構築し、運営するIT関連業等が当然加わる。

「医療システム」においては、医療とは直接関係ない他の産業分野も関わっているのである。もっと正確には他の「社会システム」、この場合、「教育システム」、「金融システム」、「保険システム」、「通信システム」、「建設システム」等の一部が絡んでいると捉えるべきだろう。すなわちどのような連携が「社会システム」間に存在するか、それはうまくいっているのかがデザインの作業において大きな関心事になる。

そのような連携に関わるのは多くが民間企業であり、彼らが魅力ある事業機会に仕立て上げることが出来ると考えるならば、当然その部分に注力し、企業家精神を持って工夫し発展させ、ある種の連携が成り立っていく。すなわち、結果としてシステムの自己調節を一定量自律的に行うであろう。しかし、全体のシステム・バランスは自己調節に任せておくわけにはいかない。

「社会システム」の多くは官民が入り混じって一体になったシステムである。当然のことながら、そこには官の関わりが必ず出てくる。しかし、その関わり方はこれまでのように官が隅から隅までコントロールするシステムではない。その意味合いは、運営段階での裁量に頼った形でシステムを回すことが難しくなったということだ。従って、最初から全体のシステム・バランスが取れるようにデザインするのが官の新たな責任である。

上記のような「医療システム」であれば、厚生労働省だけではなく、保険や金融、医療会計等に関わる財務省、医療関連技術や成長分野としての医療市場育成に関わる経済産業省、医療施設や用地に関わる国土交通省、そして、医療関係専門職の教育に関わる文部科学省の最低5省に関連する。実際は局のレベルではもっと関わるべき部署は広がっているだろう。

ではそのような視点から「医療システム」のマスターマインド的なシステム・デザイナーが官に存在するのだろうか。「社会システム」という発想がない以上、存在するはずはないのである。お互い集まって連携の相談をしていないとはいえないだろう。しかし、それでは「社会システム」デザインをしているとはいえない。それだけでなく、「生活者への価値提供」という観点からよりよいシステムはあり得るのにも関わらず、それを真剣に追求し、構築する責任を果たしていない。まして、省庁間の利害が相反することはあり得るはずだ。その場合は「社会システム」構築を阻害する方向に力が働く可能性がある。

たとえば、「ベンチャー・ビジネス育成システム」を考えてみる。アメリカに比べてベンチャー・ビジネスの出現数が少なすぎるという議論はビジネスマンの集まりでは必ず出る。すでに長年聞き飽きた「古くて新しき問題」になっている。そして、あきらめを込めて、日本人はリスクを取らない国民性だとかいった間違った議論になりかかっている。

政府は対策を打ってきたはずだがたしかに成果は上がっていない。しかし、それは日本人の性格の問題ではない。各省庁が構成部品だけ揃えても「ベンチャー・ビジネス育成システム」という「社会システム」が有機的にデザインされていないことが問題なのだ。

何故そうなるか。それはそのシステム・デザインのため省益を超えた発想をする、そして、一定の権限のあるマスター・デザイナーがいない、あるいは任命される仕組みがないことが明らかな問題だ。そのため、システムを有効に機能させるために重要な構成部品がいくつか欠落している事になかなか目がいかない。そのひとつはハイリスクの投資による損失に対する税控除である。

高額所得者の一部はどこに使われるかわからない税金を取られるよりは自分の意志で使って欲しいところに直接お金を出したいという気持ちを持っている。たとえば、高額の寄付金に関しても、色々議論があるにも拘わらず、税の特典はアメリカのようには認められていない。

それと同じように、アメリカには極めてハイリスクの投資の損失は税の控除が認められているが、日本にはそのような税の仕組みはない。国税局は短期的視点から、税の減収や制度の悪用をおそれるのだろうが、財務省のレベルでは一段上の違う見地からの判断がされるべきだ。

ベンチャー・キャピタルはファンドのマネージャーであり、自己リスクを取っているのではなく、投資家の資金を預かって運用しているに過ぎない。従って、投資家に一定の運用リターンを達成する責任がある。確かに、10社に投資して、1勝9敗でもその1勝が大きければいいとはいえ、ベンチャー・ビジネスの成功確率は時間の経過とともに高まるのは確かだ。従ってビジネスのスタート時には目も向けてくれなかったベンチャー・キャピタルも上場が視野に入ってくると群がってくるという傾向は常にある。

しかも、日本のベンチャー・キャピタルは金融機関や大企業の子会社が多く、どちらかというとリスク・アバースであるという自己矛盾を抱えている。そうであれば、アメリカ以上に日本ではベンチャー・ビジネス発足時の最もリスクの高いシード・マネーが集まりにくいはずだ。従って、そのような投資、あるいはそれに関わる損失は所得税から控除できる仕組みが「ベンチャー・ビジネス育成システム」の構成部品として必要だ。

ベンチャー・ビジネスがどのステージにあっても投資資金が見つけられるのでないとシステムが一貫性を持って完成しないし、他の構成部品は宝の持ち腐れになる。特にベンチャー・ビジネスに対するインキュベーター投資をハイリスク投資と定義し、それに対する優遇税制があれば、スタートするベンチャー企業の数を増やすことに効くはずである。その後、諸々の理由から多くは挫折していくのが現実だから、パイプラインの最初のステップで数多くの企業が流入するようにしておかないといけないはずだ。そのような全体感をもった発想をするのが「社会システム・デザイン」なのである。

2003年10月31日

2003年10月31日掲載

この著者の記事