公共セクターの経営に関する一考察

横山 禎徳
上席研究員

「経営」という言葉を聞くと、多くの人はまず何を思うだろうか。多分、すぐに思い浮かぶのは「企業経営」であろう。「企業は利益をあげないといけないから当然経営しているはずだ」と誰もが思っている。「経営者」という言葉も、自動的に「企業経営者」を意味することが多い。どこかの企業に「名経営者」がいればすぐ世間の話題になる。

一方、それ以外の組織、特に公共セクター、あるいは公共性が高いと一般に思われている分野、すなわち、教育、医療、福祉、文化等の組織において、「経営」はどの程度重要だと思われているのだろうか。端的に言えば、それらの組織の長は「名経営者」と呼ばれたいと思っているだろうか。それを名誉だと思うのだろうか。

すべての組織体は「経営」の対象である

1990年代における第三セクターの破綻は公共セクターのある種の典型的姿を示している。その破綻の理由を外部環境のせいにすることはたやすい。すべて外部環境が悪いせいにできるのなら経営者は楽だ。企業経営では事業環境が良いとか悪いとかを言っていられない。どのような状況でも乗り切っていくのが「経営」だ。売り上げが落ち込むなら経費を削らないといけない。赤字のツケや債務超過の責任を誰かに押し付けるわけにはいかない(そういう意味では最近のある種の企業に対する銀行の債権放棄は理にかなっていない)。

昨今の医療改革や道路公団民営化の議論を聞いていると、ぜひ解いておかないといけない誤解があるように思う。それは「公共性と収益性の矛盾」という形で提示されることが多い。つまり、民間企業の経営にすると営利主義になり、本来「広く、あまねく、公平に」提供すべきサービスが出来なくなるという議論である。特に、株式会社的経営を認めることには強い反対が出てくる。しかし、この議論は現代の企業経営の実態を知らない、かなり幼稚な議論である。そのような幼稚な議論が公共セクターの組織や団体から出てくるのは、既得権益確保の意図か、勉強不足のどちらか、あるいはその両方であろう。

まず極めて当たり前の共通認識からスタートしないといけない。すなわち、すべての組織体は「経営」の対象であることだ。国も、地方自治体も、公団も、企業も組織体であるかぎり「経営」しないといけない。家計という小さな組織体も「経営」が必要だ。営利であろうと非営利であろうと、大きかろうと小さかろうと関係ない。永続し、発展するためには「経営」が必要だ。

また、「公共サービスという世の中に必要不可欠で、崇高なことをやっているのだから、予定調和的にシステムが機能するはずだ。たとえ、経済的につじつまが合わなくても、それは誰かが面倒を見るべき」という理屈は、昔はいざ知らず、今日では成り立たない。

すでに日本において、地域的に多少の差はあってもシビル・ミニマム、あるいはナショナル・ミニマムは達成されている。公共インフラ整備がひどく遅れた貧困地域が存在する時代でなくなって久しい。公共セクターの役割は違うフェーズに入っている。このような時代に経済性を無視して公共サービスを提供するロジックは組み立てられない。

そうは言っても、公共サービスの経済性を考える時、過疎化は新たに浮上する難しい問題ではある。例えば、最近では新過疎法の定義による過疎団体は全市町村の約40%に達しており、人口減少が確実な将来、この比率はもっと大きくなるであろう。過疎地域に対する公共サービスを経済的つじつまが合うかたちで提供することが可能かは議論すべき問題であるが、このような問題でも世界の民間企業は知恵を働かせている。参考になる例を1つ挙げよう。

長続きする経営の秘訣は顧客も自分も得をするアプローチ

世界最大の小売業であるウォルマートは創業者であるサム・ウォルトンの経営哲学である「Every Day Low Price」という標語でよく知られている。その初心はお客が買った後、使って気に入らないものはたとえ、それが半分消費してしまったインスタント・コーヒーであっても無条件で取り替えるということであった。

日本の高度成長期初期に、大都市郊外の発展にタイミングよく乗ったダイエーやイトーヨーカドーと違って、ウォルマートは丁度同じ時期に、アーカンソー州ロジャースという、人口が少なく、今後増える見込みもない土地でスタートした。従って、日本のスーパーのような「売り場面積の拡大による成長」ではなく、「単位売り場面積当りの売り上げ増大による成長」を考えるよりなかった。その答が、商品購入後のいかなる制約条件をもつけない保証によって顧客満足度を高めるということであった。

このように、優れた民間企業は工夫をする。そして、結局長続きするのは、顧客も自分も得をするというアプローチである。過疎地であればあるなりの知恵を出していくのが企業家精神である。「公共性と収益性の矛盾」などという概念が如何に陳腐なものかわかるであろう。勝手に「矛盾」と決めつける公共セクターの人々特有の発想が結果として視野狭窄を作り出し、創造性を押さえ込んでしまうのだ。

今や、多くの企業にとって顧客満足度を高めることが至上命令である。企業間の競争は顧客満足度競争であるといってもよい。企業経営者たちは、その工夫によってリピート・オーダーを確保することが経費を下げ、企業を長期的に安定させることを身に染みて知っている。

それでも経費効率の悪い顧客セグメントを無視するのではないかという反論もあろう。しかし、ビジネスの世界では、「2割・8割の法則」を誰もが知っている。すなわち、多くの市場において顧客の20%が利益の80%を占めている。残りの80%の顧客は利益にほとんど貢献していないのが実態である。そのような顧客を切り捨ててしまえばもっと効率的ではないかと思うかもしれないが、大半の企業はそれをしない。

銀行における個人口座の実に80%以上が赤字なのだが、それによってサービスの差別を受けたという人はあまりいないはずだ。それは経験の蓄積から来る経営の意思であり、当局の指導の結果ではない。また、銀行はその赤字のせいで苦しんでいるのではなく、法人への融資が不良債権化したことで苦しんでいることは周知のとおりである。

また、世の中には構造的に儲かる事業と儲からない事業がある。本当に企業が利益追求を至上命令にしているのなら、儲からない事業分野に参入企業はいないはずだ。しかし、実際は、儲からない分野でも、企業家精神を発揮し、色々工夫することに喜びを感じている経営者は多くいる。

このように考えると、公共セクターの経営は民間企業と本質的に変わらない。利益を出すかどうかの前に、投資の回収を含めてかかっている経費分は収入がないといけない。非営利団体だから経費分は回収できなくていいという理屈は今も昔も成り立たない。

また、コスト分だけ補填されるという「収入」体系の非営利団体の多くは、今後、組織単位間の「トランスファー・プライス」を決めるプロセスを導入することによって、常にプライス対効果を考える経営の規律を醸成することを検討すべきだろう。「コスト」と「プライス」が違うことは経済学を持ち出すまでもない。

利益を出すかどうかはその組織のガバナンスと関係しており、ステークホルダー(多くの組織では出資者か株主)が配当を要求するのか、その他のことを要求するのかによる。また、配当を要求しないまでも経営環境が悪化してもゴーイング・コンサーンとしての存続が可能なだけの蓄え、すなわち妥当なレベルの社内留保がされていることをステークホルダーは望むだろう。ガバナンスが効力を発揮するために不可欠な要素である業績評価は、その組織の持っているミッション(使命)に対する定性的評価と組織の経済的健全性に対する定量的評価の二本立てで考えるべきだろう。定性的評価は評価者が十分な時間を使えば、大方の予想より極めて精度の高い評価が可能である。定量評価だけでは全体像がつかめないことは民間企業の経営でも同じである。

専門性の高い公共機関の経営にとって最も重要な課題とは?

これまで述べたような時代認識、民間企業経営の本質への理解、そして、明確なガバナンスの体系と業績評価の哲学を欠いているために「経営」という名の規律が確立していない公共セクター組織は数多く存在する。そして、いまだ改善の方向が明確ではない。

例えば、「医療」の分野がその典型である。「医は仁術」という哲学がすでに建前と本音に分離した二重構造であるにもかかわらず、あるいはそれが分かっているせいか、「経営」を専門的にやるべきという考え方はなかなか受け入れられない。「民間企業的経営」といいだそうものなら、すぐに大反対される。その理由は利益志向になり、患者に十分なサービスをしなくなるというものだ。しかし、それは幼稚な理屈であることはすでに述べた。

結果はどうか。人口の高齢化によって「患者市場」が拡大していくきわめて有利な環境において、半数をはるかに超える病院が赤字経営といわれている。健保制度の制約や人件費の高騰などを言い訳にしているが、実際は、同じ制約の中で、患者の評判もよく、利益も上げるということを両立させ、優れた経営をしている病院はかなり存在する。

それらの病院は患者という「顧客」のためにならない過剰投薬や患者の長期入院等の保険の点数稼ぎをしないで、顧客満足度を高める発想の転換をしている。現行の健保制度がいいとはいわないが、すべてを制度のせいにするわけにはいかない。ただ、そのような優れた経営をしている病院の数が少ないのは、有能な経営者の人数の問題だ。

教育の分野も同じである。「教育」は「経営」と無縁だと思い込んでいる人が多いようだが、最近はビジネス・スクールやMBAが大流行で、日本の大学も競って経営大学院を作っている。しかし、大学自体に「経営」を多面的、かつ具体的に教えることのできる教授陣が育っていないことが問題になっている。マクロ経済学が専門の教授は多いが、ミクロ経済学と行動科学を基礎にした「経営」そのものを勉強した教授は少ない。まして、教育機関全体でも、経営の実践経験が豊富な人材が多いとはいえない。「紺屋の白袴」という状況だ。

教育の場合、医療よりも条件は不利である。いうまでもなく、少子化の環境では伝統的な定義による教育対象市場は縮んでいかざるを得ない。そのような縮小が続く市場で経済的つじつまを合わせて経営していくことは、たとえよく訓練され、かつ非常に優れた民間企業の経営者でも至難の技である。教育機関の経営者はそのような極めて難しい経営環境に対処するための、知識、技能、知恵の三拍子そろった訓練を求めていないのだろうか。内外のビジネス・スクールに教育機関から来ている学生はほとんどいないのが実態だ。

「誰も勝たない、誰も負けない」という時代は終わり、医療や教育、その他の公共性の高いセクターの組織も淘汰されていく。長い伝統や質の良さ等の理由だけで生き残れる保証はない。残念なことだが、たとえ世間の評価が高くても経営破綻をし、税金によって救済されるか、やむなく消えていく機関も出てくるに違いない。結果として、経営力のある機関が生き残っていくことになる。

今、優れた経営者が公共セクターに必要な時代である。それは、優れた医者や教育者、あるいは優れた官僚が、そのままそれぞれの機関の優れた経営者になることでは必ずしもない。優れた野球の選手であっても、優れた監督になるとは限らないからである。しかし、一方で、野球の選手の経験のない優れた監督もありえない。このジレンマをどう解決するかが専門性の高い公共機関の経営にとって最も重要な課題である。

ひとつの方法としては、経営能力のある人材がサポートするというアプローチがあるだろう。実際、病院の場合、経営意識の高い院長と経営手腕のある事務方の長との二人三脚で経営されていることが多い。しかし、今後は経営の実学を教育するプログラムによって経営意識の高い医師を増やし、医療経営者層の裾野を広げる努力が必要だ。

教育機関にとってはそれ以上に難しい問題がある。大学を例にとると、私学の場合、学長と理事長という組み合わせで経営されているが、意思決定は教授会にある。たとえ学長や理事長は経営意識が高く、将来に対する危機感が強くても、それが教授陣にまで共有されている場合は極めてまれである。教授陣も今の時代、問題意識がないはずがない。しかし、人は「問題意識」のみでは果てしない議論はすれど、行動はおこさない。常に「危機感」が行動を呼ぶのである。「危機感」まで高めないといけない。

公共セクターにおける組織経営の質を向上させる2つの施策

今求められているのは、公共セクターにおける組織経営の質を抜本的に向上する施策である。それは、1)組織経営の自己規律が常に試されるようにガバナンスと内部の意思決定および業績評価のプロセスを組み立てなおすこと、2)経営手法の訓練を受けた人材を増やすための実際的な訓練プログラムを持った職業学校を作り、将来の経営者を数年訓練し実践を経験させることである。

この両方とも、筆者の研究テーマである「社会システムデザイン」に絡んでいる。従って、この続きは「社会システムデザイン研究会」の方で今後議論することにしたい。

しかし、忘れてはならない前提条件がある。ある日、筆者はゴルフのレッスン・プロに質問してみた。「いくらレッスンを受けてもうまくならない人はどんな人か」彼の答えは「ゴルフは所詮遊びだから無理してまでうまくなりたいと思わない人だ」というものだった。最も大事なことは、公共セクターの組織の経営者が「名経営者」、あるいは「優れた経営者」と呼ばれることを名誉と思い、そうなりたいと強く願うことである。

2003年4月15日

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2003年4月15日掲載

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