山口一男の日本社会論

寄せられた感想

山口 一男
客員研究員

「感想」

不平等について

この手の比較物はわりと好きなので最後まで一息に読ませていただきました。お礼がてらに(なるかどうか分かりませんが)2、3点フィードバックさせていただきます。

まず、不平等への過敏な反応が気になりました。恐らくこれはアメリカ人一般に広く見られるのではないかと思ったからです。社会人類学者エマニュエル・トッドによれば家族制度を根拠にアメリカも日本も不平等社会に属します。現実にアメリカ社会は人種差別など不平等があふれています。

実態は不平等、自意識は平等社会志向、そして不平等への過敏な反応。これはアメリカの社会病理の一端を現しているのではないかと直感しました。同じ不平等でもアメリカは父親が自由に遺産配分を決めるいわば自由相続制、一方日本は長子相続と決まっています。この自由、つまり自由競争社会であることがこの問題の鍵だと思いました。

自由競争社会では他人は皆ライバルであり信頼できない存在です。ですから弱者が強者にハンデをくれと要求することなど思いつきもしないはずです。逆に、強者から不利な立場での競争を強要されないよう、常に対等な立場を主張し続けることが自分の身を守るために必要になります。そこには恐れがあります。これが不平等への過敏な反応の根源ではないかと思いました。

一方、強者は対等な立場でも自分が有利なことを知っているため対等に反対しません。これがアメリカの自由競争と対等というイデオロギーが再生産され続けるメカニズムだと思います。同じ平等でも結果平等ではなく、対等および機会均等(根は同じ発想)でなければならないわけです。

一方日本は不平等ではあっても弱者が強者にハンデを要求できる高信頼社会です。そこには対等はなくても一種の安心感があります。このシステムがもっともうまく働いているのが現在の北欧だと思います。アメリカ人には実感としては恐らく理解できないシステムだと思います。

恥の内面化、創作話

恥の内面化ですが、率直に言って後出しじゃんけんのような、無理に理屈付けをしたという違和感が残りました。自分の解釈はこうです。アメリカ人は罪を独立した実態のある存在と考えています。一方日本人は、罪とは加害者と被害者との関係の中でのみ生じるものと考えています。前者であればたとえ被害者が許そうとも罪は罪として存在しつづけます。しかし後者においては、被害者が許せば、その時点で罪の存在根拠が薄らぐことになるのです。これは心理学者R.E.ニスベットの論理思考のアメリカ人と包括思考の東洋人と いう説と一致します。

前者は対象物のみに注意が集中し、周囲への注意がおろそかになるのに対し、後者では対象物と周囲との関係に注意が注がれます。長くなったので最後に1つだけ。後編の2つの創作話ですが、自分は学生の話はまったく面白くありませんでした。理由はどこかのアメリカ映画で見たようなストーリーでしかなかったからですが、文化的観点から見ても、大事なことが欠落しています。

創作話のテーマとして紛争解決が前面に出すぎたのが裏目に出て、アメリカ人の個人としての判断基準・価値観の変化と言うものがまったく伝わりません。弁護士の言うなりになってまったく思考停止しています。それともこの専門職への全面委任と個人の思考停止こそが現代アメリカ人個人の判断のあり方を象徴しているのでしょうか。

そうは思いたくありませんが・・・。(山田太郎)

山口先生のコメント

山田太郎様
感想の投稿ありがとうございます。2点だけ感想にコメントさせていただきます。
最初の「不平等について」の部分ですが、山田さんにかなり勘違いがあると思われます。
まず「アメリカ社会は人種差別など不平等にあふれています」という点ですが、結果の不平等についてアメリカは確かに自由競争主義でこだわりませんが、機会の平等の実現に対しては非常に熱心に進めてきた国です、人種や性別による差別解消のための、公民権運動や、アファーマティブ・アクションなどさまざまな経緯を経て、少なくとも以前よりは結果においても人種や性別の経済格差や社会格差は昔より遙かに少なくなっています。また山田さんは米国は「自由競争社会では他人は皆ライバルであり信頼できない存在です。ですから弱者が強者にハンデをくれと要求することなど思いつきもしないはずです」と書かれていますが、これは大変な誤解だと思います。社会心理学者の山岸俊男氏のご研究によれば、自分と同じ組織に属する人間でない、いわゆる「他人」への信頼感はアメリカ人の方が日本人より大きいし、また「弱者にハンデをあげる」点については、米国が身体障害者に対して社会環境をバリア・フリーにすることは我が国より遙かに進んでいますし、また実際身体障害者の社会参加でも我が国より遙かに進んでいます。これも身体障害者に社会的機会を平等に与えようという倫理・道徳の発達の結果です。ですから不平等についてのメアリーの「過剰反応」は個人的資質によるものと思います。

後半の「恥の内面化、創作」の部分についてですが、恥の内面化の理解について山田さんが「アメリカ人は罪を独立した実態のある存在と考えています。一方日本人は、罪とは加害者と被害者との関係の中でのみ生じるものと考えています。前者であればたとえ被害者が許そうとも罪は罪として存在しつづけます。しかし後者においては、被害者が許せば、その時点で罪の存在根拠が薄らぐことになるのです」とのご指摘は、重要な指摘だと思います。社会学では普遍主義(Universalism)と特殊主義(Particularism)とそれぞれ呼ぶのですが、社会学者のパーソンズによれば特殊主義は人的関係に根ざす道徳・価値観、普遍主義は非人格的(Inpersonal)な道徳・価値観に基づくものとしています。「恥」に関わらず、「恩」「義理」「忠」「孝」など我が国の古い道徳・規範はすべて人的関係の道徳・規範であり、武士の道徳であった儒学はもとより、江戸時代の商人の道徳であった心学も、特殊主義的道徳であることを、宗教社会学者のベラーも指摘しています。ただ私が『ライオンと鼠』で指摘した「すまない」という負債の意識は『恥の文化再考』で作田啓一氏も指摘していますし、我が国特有の犯罪者更生法である「内観法」にも取り入れられています。ですから罪を犯した相手に限定されず、恥には「重要な他者(significant other)」と社会学用語でいうのですが、自分を教え育ててくれた人々や、過去に暖かく接してくれた人々など、自分が愛着を持つ人々に対し「すまない」「このままでは顔向けできない」という意識を持つという面があると思います。「郷土の人に顔向けできない」などという表現もあります。つまり、西洋のように非人格的な普遍主義的道徳ではないけれど、自分が罪を犯した時、被害者である相手に対する気持ちを超えた、自分を教え育ててくれた人々や愛着を持つ人々に、申し訳ないという気持ちを持つ。それが特殊主義的ではあっても、西洋の普遍主義的な罪の意識に劣らない内面化された日本古来の恥の意識であると私は考えており、それを作品で読者に伝えようとしたのです。力不足でうまく伝わらなかったようなのが残念ですが。
山口一男


「前編への感想」

この寓話に関する学生たちの議論がとても内容が濃くておもしろく、本当に感心しました。彼ら(特にウェンディ)の指摘に大いに共感するところがありました。先生は日米の比較ということで講義をなさっていますが、寓話を読みながら、私は少し違う捉え方をしてしまいました。寓話のストーリーが全然変わってしまうのですが、私にはアメリカの鼠が「ホリエモン」、日本版のライオンが「フジテレビ等の経営陣」のように思えてなりませんでした(つまり、実際は日本人同士の交渉なのですが、文化的には先生もご講義でおっしゃていた、よい結果を期待できない「異文化」の取り合わせです)。ホリエモンの一連のM&A行動は先生もご存知だと思いますが、小さい身体ではあっても知恵のある鼠である(アメリカ的思考の)若者ホリエモンが勇気をもって(油断して居眠りしていた)大きな中高年ライオンの背中に飛び乗り、自分に有利になるように交渉する。その際、組織の大きさは違っても、鼠は経営者として自分を同等に扱ってもらいたいと考えそのように行動している。それに対してライオンは、ナマイキな鼠がひたすら頭を下げてお願いするどころか、「身の程知らずに」立ち向かってくることに激しい怒りを覚える。友情とは言えないが、最後は一応和解して、今後ひょっとして一緒に経営を行なうかもしれない。寓話ならぬ現実のストーリーはこのように変化しました。興味深いことは、いろいろな世論調査ではこのようなホリエモンが世代を問わずかなりの人々に支持されていたことです。特に若い人々には彼の行動を支持する人が多かったと記憶しています。50代にも支持されていました。これら一連の反応から、4ページあたりで今回の寓話は話の内容が古いという意見がでていましたが、私も同感しました。日本は、若い人たちを中心に文化あるいは価値観が変化しているという印象を受けています。後編を本当に楽しみにお待ちしております。(鈴木淳子、大学教員)

山口先生のコメント

鈴木淳子様
大変示唆に富む、また話題の発展性のある、コメントをしてくださりありがとうございます。確かに「ホリエモン」とフジテレビなどの経営陣はおっしゃるように異文化の取り合わせですね。それにホリエモンはまさに「アメリカ的思考」です。近年コーポレート・ガバナンスについて会社は株主のものだというアメリカ的思考と会社は会社自身のもので株主は出資者に過ぎないという日本的思考の対立があります。もともと岩井克人氏が『会社かこれからどうなるのか』(平凡社)で指摘するように、会社には株主に所有される「モノ」としての側面と会社資産の所有者である法人の「ヒト」としての側面があるので、どちらの思考が正しいともいえません。アメリカの経営学者は少数経営者対多数の株主という図式を念頭において株主主権は「民主的」という主張すらしています。

アメリカ的株主主権の考えは、本来株主は一票でなく株数に比例した権力を有するので、法人である会社やその経営者が往々にして「民主的」どころか大株主となって、最近のM&Aに見られるように、異なった制度や文化を持った他の会社組織を買収と支配の対象とする行為に及ぶことを示しています。
「小さな鼠」でありホリエモンが「惰眠をむさぼっていたライオン」であるフジテレビなどの経営陣に挑むという図式が、若者らを中心に好評だというのはわかりますが、会社が買収や投機の対象となるモノであるという面が強調され、またそれにより短期的な株主利益が最優先される経済文化が支配するようになると、日本的企業組織の特徴であった長期的雇用や長期的ビジョンによる経営の土台が次第に切り崩され、長期の関係による信頼関係の育成がますます難しくなるのではないかと危惧します。これから日本は『後編』で議論したように山岸俊男氏の言うような西欧型「信頼社会」への移行に向かうべきなのでしょうか。それとも新たな日本型信頼社会を再形成しようとすべきなのでしょうか。もし後者ならその道筋はどこに。疑問は多々ありますが、とりあえずはホリエモンとフジテレビの関係がどうなるのか興味あるところです。
山口一男