小林慶一郎のちょっと気になる経済論文

第15回「なにが期待の長期的な変化をもたらすのか? 金融危機が長期停滞を引き起こすメカニズム」

小林 慶一郎
ファカルティフェロー

マスターくん
某私立大学大学院修士課程2年生(経済学)。経済学者志望で目下猛勉強中。

小林 慶一郎写真小林フェロー:今回は、Kozlowski, J., L. Veldkamp, V. Venkateswaran "The tail that wags the economy: Belief-driven business cycles and persistent stagnation" (2015) が提唱する、単発の金融危機が経済の長期停滞を引き起こすメカニズムを概観します。

長期停滞論と「期待の変化」

日本の金融政策の議論でも、「デフレ期待」をいかにして変えるか、という問題が大きなテーマであるように、期待形成のメカニズムを詳細に分析することは、最近のマクロ経済学の重要な研究課題です。

この論文は、金融危機(2008年〜2009年)以降のアメリカ経済の変化を、期待の変化によって説明する理論モデルです。

アメリカ経済では、国内総生産(GDP)は金融危機後に元のトレンド線から12%も下落し、その後も元のトレンド線に収束する傾向を示していません。通常の不況のときは、不況が終わると、GDPは元のトレンド線に復帰していました。したがって、金融危機というイベントは、なにか長期的な構造変化をアメリカ経済にもたらしているといえます。筆者たちの仮説は、「金融危機というテールイベントの経験が期待を長期的に変化させ、アメリカ経済のパフォーマンスを長期的に変化させた」というものです。

マスターくん画像マスターくん:なぜたった1回の金融危機が、期待を長期的に変化させることができるんですか?

小林 慶一郎写真小林フェロー:通常の合理的期待仮説では、そのようなことは起きません。筆者たちは、少しだけ合理的期待仮説を現実的なかたちに緩めています。

不況や金融危機が、外生的なショック(論文では資本ストックが減耗するというショック)によって引き起こされるとします。通常の合理的期待仮説では、「人々は外生的ショックの確率分布関数を事前に知っている」と仮定されます。この仮定のもとでは、金融危機が起きても、それは既知の確率分布関数から発生したショックだから、危機が去ったあとの人々の期待(ショックの確率分布関数)は危機前のものとまったく同じです。したがって、危機が去った後の経済の構造は、危機前の構造と同じだといえるのです。このように、通常の合理的期待仮説のもとでは、金融危機が経済の長期停滞を引き起こすことはありません。

経験からの学習によって期待が更新される

筆者らは、「人々は外生的ショックの確率分布関数の真のかたちを事前に知らない」と仮定しました。これは合理的期待仮説を緩めたことになりますが、非常に現実的な仮定といえます。さらに筆者らは「人々は外生的ショックのこれまでの実現値(サンプル)の時系列を見て、その時系列から計量経済学者と同じ手法で、ショックの確率分布関数を推定する」という学習の仮定を置いています。確率分布の推定方法は、ノンパラメトリックな計量経済学で広く使われるkernel density estimation procedure (核密度推定法)が使われると仮定しています。

この手法はイメージ的には、たくさんのサンプルの頻度をグラフ上にプロットして、それらの点を滑らかな曲線でつないで、確率分布関数の形状を近似するという推定方法です。

このような学習によって確率分布関数が更新されていくモデルでは、1回の経験が推定された確率分布関数に、永続的な痕跡を残すことになります。1回経験したショックのサンプルは、それ以降の確率分布関数の推定に永続的に使用され続けるからです。すると、金融危機が起きると、その後は、ほぼ永続的に、テールリスク(金融危機が再発する確率)が大きな値だと評価されることになる。

マスターくん画像マスターくん:すみません、もう少し分かりやすく説明していただけますでしょうか。

小林 慶一郎写真小林フェロー:つまり、2007年までは、人々は金融危機の経験がまったくなかったので、危機の経験から学ぶことができず、「テールリスクはゼロだ」と思い込んでいた。ところが2008年、2009年に大きな金融危機を経験し、「80年に1回くらいは金融危機が発生する」と考えるようになった。「金融危機は絶対に起きない」という期待が「金融危機は(数十年に1回)起きるかもしれない」という期待に変わったことは大きな違いです。この違いが、2007年までのアメリカ経済と2009年以降のアメリカ経済との長期的な違いを説明します。

筆者たちは、数値計算によるシミュレーションで、この「期待の長期的変化」が、アメリカ経済の変化(元のトレンド線からの長期的な乖離)を説明できることを定量的に示しました。つまり、1回かぎりの短期的な金融危機が、期待を長期的に変化させることによってアメリカ経済を長期停滞に陥らせた、と説明できたことになります。

クレジットスプレッドはなぜ戻ったのか?

金融危機が長期停滞の原因だという説に対して、説得力のある反論があります。金融危機が長期停滞の原因だとしたら、貸出金利と安全金利の差(クレジットスプレッド)も金融危機のあと長期的に上がっているはずですが、現実のアメリカ経済では、クレジットスプレッドは速やかに危機前の水準まで低下しています。したがって、金融危機は長期停滞の原因ではない、という考え方です。

マスターくん画像マスターくん:金融危機は長期停滞の原因ではないという説に対して、この論文ではどのように反論しているんですか?

小林 慶一郎写真小林フェロー:筆者たちは、彼らのモデルでシミュレーションを行い、クレジットスプレッドが速やかに危機前の水準まで戻ることを示しています。彼らのモデルでは、長期期待の変化が消費や投資の長期停滞を引き起こす一方で、クレジットスプレッドは危機前の水準に迅速に回帰します。つまり、金融危機が長期停滞の原因であることと、クレジットスプレッドが元の低い水準に戻ることは、両立することを示したのです。

金融危機後にクレジットスプレッドが低下する原因は次のように説明されます。

期待の変化(金融危機の再来の確率が以前に想定していたよりも高い、と人々が期待するようになること)によって、企業や家計が消費や投資を減らし、そのための借り入れを減らす。借り入れの総量が減るため、借り入れの債務不履行確率が低下する。その結果、債務不履行にそなえるためのクレジットスプレッドも低下することになります。こうして、金融危機の結果、経済は停滞しますが、貸借についてのクレジットスプレッドは危機前の水準まで低下します。

過去の経験で説明できること、できないこと

この論文では、金融危機という「過去の経験」によって、テールリスクについての期待が恒久的に変化します。その結果、需要(消費や投資)が低迷するが、それはGDPのレベルが一定の量だけ永続的に低下することとして観察されています。GDPのレベルは下がるが、GDPの成長率は、下がらない。この点は、リーマンショック後のアメリカ経済とは整合的です。

マスターくん画像マスターくん:日本経済におきかえても整合的なんでしょうか?

小林 慶一郎写真小林フェロー:日本のバブル崩壊後のように、GDP成長率が下がることは、この論文のメカニズムでは説明できません。

日本ではむしろ成長率の低下が大きな問題です。過去の経験に期待が引きずられているというVeldkampたちの理論では、日本の問題は説明できないことは重要です。日本の問題が「将来不安が、年々、悪化して大きくなっていること」だとすれば、この理論を応用して経済成長率の低下を説明することができると思われます。将来不安とは、財政悪化による経済の大混乱というテールリスクです。政府債務が増えるにつれて、このテールリスクは大きくなります。テールリスクが年々大きくなれば、消費や投資の非効率も年々大きくなり、経済成長率は低下します。つまり、将来不安が期待を悪化させ、経済停滞を招くというシナリオです。

過去の経験に期待が引きずられているなら、大きなサプライズで期待を変えれば、問題は解決します。それが異次元緩和の基本哲学だったはずです。もし、過去の経験ではなく、将来の財政不安で期待が悪化しているのなら、日銀がサプライズをいくら起こしても、期待の悪化は止められません。

現実はどちらなのか、見極めることが重要です。

2016年10月4日掲載

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