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no.18: また見送られたカルテ開示法制化 - 誰のための個人情報保護法か

池田 信夫
RIETI上席研究員

カルテの開示について検討してきた厚生労働省の検討会は5月29日、法制化を見送る報告書をまとめた。「今国会で成立した個人情報保護法で本人がカルテの開示を求めることができるようになったので、医療情報について特別の立法は必要ない」というのが厚労省の説明だが、これはおかしい。個人情報保護法で開示を要求できるのは「本人」だけで、医療事故で死亡した患者の遺族がそのカルテの開示を要求する法的な根拠はない。

また個人情報保護法の対象とする「個人情報取扱事業者」は、5000件以上の個人情報をもつ事業者に限られるが、開業医の平均患者数は約6000人、歯科医は4800人で、ほぼ半数の開業医(および歯科医)が対象外になる。さらに「学術研究機関」は対象外なので、大学病院も開示しなくてよい。個人情報としてもっとも重要な医療情報について、満足な開示もできないばかりか、「何もしない言い訳」になる個人情報保護法というのは、いったい誰のために作られたのだろうか。

カルテ開示はインフォームド・コンセントの条件

カルテの開示は、10年以上前から議論されてきた問題である。日本では、医療事故に関する訴訟が少なく、起こしてもほとんど勝てない。もっとも重要な証拠であるカルテを病院に提出させる法的根拠がなく、それを改竄しても罰則がないからである。また、治療の内容や請求額に疑問があっても問いただす証拠がないので、患者側が「泣き寝入り」せざるをえない。今回の検討会でも、委員の過半数が法制化に賛成だったというが、「全員一致」を求める医師会の要求によって、またも先送りになってしまった。全員一致を必要条件とするなら、カルテ開示の法制化は永遠に不可能だろう。

米国では、カルテを開示することは法的義務であるばかりでなく、医療サービスの一環である。患者が病院を移るときやセカンド・オピニオンを聞くとき、前の病院のカルテを見せることは、検査や診察の重複を省き、医療へのチェックをきびしく行う上で重要な役割をもっている。さらに、このデータは電子化されてオンラインで利用でき、高額化する医療費を患者や保険組合がチェックする道具にもなっている。患者が自分のカルテを見る権利は、現代の医療の原則である「インフォームド・コンセント」(説明による同意)の必要条件である。

日本でも、1998年に厚生省(当時)が法制化の方針を打ち出したが、日本医師会は「カルテは自発的に開示するので法制化すべきではない」とか「開示が法的に義務づけられると、記載内容が制約されて十分な医療ができない」とかいう不可解な理由で反対し続け、問題は何度も先送りされてきた。自発的に開示する意思があるのなら、法的に義務づけることに問題はないだろう。医師会は、カルテを開示する米国では十分な医療が行われていないとでもいうのだろうか。その本音は、医療事故の訴訟で不利になるのを避け、乱診乱療や医療費の不正請求を隠すためと疑われてもしかたがないだろう。

「民間情報公開法」を

個人情報保護法では「個人を識別できる情報」をすべて対象にする薄く広い規制がかけられ、その開示を要求できるのは、記載されている「本人」だけということになったが、これではデータベースやインターネットに広く規制が及ぶばかりでなく、医療や金融のようなもっとも重要な情報についての被害を救済できない。この種の事件を手がける現場の弁護士がもっとも求めているのは、欧米の裁判では広く認められている情報開示(ディスカバリー)の権利を日本でも強化することである。

プライバシーを保護するというのは、要するに個人情報を「隠す」ことだが、これだけ大量の情報がインターネットで流通する時代には、情報を隠すことはきわめて困難だし、それによって個人を守ることもできない。むしろ生命や財産にかかわる重要な情報は、徹底的に透明にすることによって個人を守るという発想の転換が必要である。また、この場合に開示を要求する主体は必ずしも「本人」ではないし、必要なのは「個人情報」とも限らない。遺族にも権利は認めるべきだし、病院の医療体制などについての開示も必要だろう。

ただ過剰な規制は情報の流通を妨げるので、こうした情報開示は行政による事前の規制ではなく、専門の第三者機関による事後的なチェックによって行うことが望ましい。情報社会に必要なのは、あらゆる個人情報を政府が監視する個人情報保護法ではなく、問題が起こったとき、医療情報や信用情報など特定の分野に限ってきびしい開示を義務づけることによって当事者による紛争解決を支援する「民間情報公開法」ではないか。

2003年6月11日

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2003年6月11日掲載