※本プロジェクトは、終了しております。
いつまでも「消尽」しない著作権
東:
僕は特許の問題は門外漢なので分かりませんが、著作権については、権利が消尽する場所が重要な問題になるのではないかと考えています。モノの売買ではモノの所有権は完全に移転してしまうけれども、アイデアの売買ではそうではないですね。作品や製品を購入した人が、その製造過程を分析して、同じものを再構成するのは駄目だということになっている。つまり、モノそのものがいくらオリジナルの作成者の手を離れて複製され転売されても、ずっと作成者自身の権利が残っていると思われている。そして、最近ではその傾向がますます強くなっている。
この傾向はデジタル技術だけの話ではありませんね。例えば、新古書店やマンガ喫茶の台頭に対して、出版社や作家は経済的な還元を求め始めている。本をモノとして見れば、いちど買われたモノがどう使われつぎにだれに売られようがもともとの所有者は口を出せないはずですが、著作権については、二次使用、三次使用まで含めて、何らかの権利が残っていると見なされ始めている。つまり、モノの所有権は移転可能だけど、アイデアの所有権は移転不可能で、どれだけ流通の過程を通してもずっと権利が存在し続けている、という考え方がいま急速に台頭していて、それが、著作権の強化、ひいては流通の管理強化に繋がっていると思うんです。
池田:
これはデジタル化によって起こった問題ではなく、情報の内容が物理的な媒体に依存しないという性質から生じる本質的な問題ですね。活字にも、もともとそういう「亡霊」性はあったけれど、本などの紙媒体を丸ごとコピーするのは面倒なので、情報の移転を紙の売買によって代行していたし、権利はそこで自然に移転されて、消尽したわけです。だから著作権も、昔は今みたいにうるさくいわなかったですよ。しかしデジタル化によってコピーのコストが下がったために、物理的な媒体で守れないから、法的な差し止めという生の形で国家権力が情報の流通に介在するようになってきたわけです。
東:
所有権が成立するためには、消尽の場所、つまり権利の範囲が定まらないといけないのではないか。しかし知的財産権はその点が曖昧ですね。契約で著作権を移転することはできるけれど、著作権の一部分である著作人格権は自然発生してしまう。日常的な感覚としても、いちど僕が書いたものであれば、どこまでコピーされようが、永遠に「これは俺のもんだ」と主張できるようなところがある。そういう感覚を「所有権」と定義して法的に護り始めると、きわめて強力な差し止め権が発生してしまう。
著作権保護でつねに話題になるのは音楽ですが、そもそもメロディは、いちど聴いてしまえば頭の中にコピーができるようなタイプの著作物なんですね。例えばインターネット上には、楽曲を「耳コピー」してMIDIで打ち直したデータがたくさんアップされている。このデータの著作権は作曲者にあるわけですが、じゃあ鼻歌はどうか。僕が宇多田ヒカルの曲を鼻歌で歌っていたとしたら、そのメロディーは宇多田ヒカルのものなのか。こういう問題を「所有」の枠組みで考えるのは根本的に間違っているのではないか。
林:
それはそうなんだけど、一般的にはプロパティというのはもう一度しっかり考えなければならないということだと思うんです。ITはやっぱり革命なんです。ところが、政府がだまされる側に回ってるならいいんですが、政府が旗を振って推進する側に立っているので話がややこしい。散々だまされたほうが、しっかりした対策を作ることができるんじゃないでしょうかね(笑)
法務省は良く考える必要があると思うんですね。モノを中心にできている法体系に無形財産が入ってきた際のインパクトについてまじめに考えて、先ほどの占有や所有の対象は(無形財産の場合)何なのかとか、法律学の縦割りを問題にしたりとか、その辺を徹底的に見直す必要があるということです。私が思うに、やっぱり今はチャンスのように思います。米国人はビジョンは得意だけど実際にはプラグマティックだから、日本のように制定法に従って動くということがあまりないので。
池田:
私はむしろ、この問題についてはアジアが有利だと思います。所有権というのは、近代西欧の「個人」という概念と表裏一体です。自己完結した個人という概念は、人類の数千年の歴史のなかでも、また地域的にもきわめて特殊な考え方です。日本は幸か不幸か、今でも近代的な個人は確立していないといわれてるし、権利の観念も強くない。これはインターネットのようなオープンな世界にむしろ向いていると思うのですが。
今の著作権は18世紀はじめにできたもので、それ以前には複製を禁止する権利なんてなかった。リチャード・ポズナーというアメリカの裁判官(レッシグの師匠にあたる人)が、シェイクスピアの作品はみんな盗作だといっています。たとえば『ヘンリー6世』なんて、実に3割以上が同時代の作品の丸ごとコピーです。今だったら、シェイクスピアは犯罪者として社会から抹殺されてますよ。創造というのは、ほんらい共同作業であって、本を作る作業も編集者や植字工などとの共同作業ですから、シェイクスピア以前には「著者」という概念もなかった。
現代は逆に、シェイクスピア以前の時代のような共同作業に近づいています。特にマルチメディア作品は、権利の塊というくらいたくさんの人が関わっているので、たとえば主演女優が「いやよ」というと大河ドラマのビデオ化もできなくなる、というような「アンチコモンズ」(権利の重複した状態)になっています。
著者と作品が1対1に対応するというのは、18世紀のロマン主義の作り出した神話にすぎない。「私が遠くを見ることができるのは、先人の肩の上に乗っているからだ」というニュートンの言葉のように、すべての創造物は人類の共有財産なのだという謙虚さを持つ必要があると思います。
自分の情報をコントロールしたいという欲望
東:
少し話を変えますが、知的財産権 という枠を超えて、データの所有権一般の話をするとなると、見逃せないのは個人情報の扱いです。例えば最近増えている監視カメラでは私たちの映像がどんどん撮影されているわけですが、その映像の差し止め権とか、利用目的を知る権利が今後は問題になってくると思います。情報社会とは、自分の身体について情報の断片(データ・シャドウ)があちこちに拡散する社会でもあるわけで、それらを管理する方法が今度求められていくことでしょう。個人情報保護法の成立にしても、2ちゃんねるの方針転換にしても、そういう流れのなかで起きている。
そうすると厄介な事態が生じます。監視カメラの問題を例にとると、通常、管理派(監視カメラ容認)対プライバシー擁護派というわかりやすい対立軸ができるのですが、今起きているのは、プライバシー擁護派であればあるほど、情報の「自由」な流通に不安を抱いているので、かえって規制強化に傾くという逆説なのです。仮想現実においては、インターネット上に流れる個人情報を、P2Pも含めてなるべく管理可能にするようなシステムを志向する。物理的な現実においても、今回の長崎の幼児誘拐殺人事件におけるマスコミの論調で見られたように、私たちの安全とプライバシーを護るためにむしろ監視カメラを使えという意見が多数派になってくる。ちなみに、『中央公論』九月号でも書きましたが、今回の長崎事件は、イギリスが今のような監視カメラ大国になるきっかけとなった一九九三年の幼児殺人事件とよく似ている。日本社会は、この事件を契機に大きくカメラ容認に傾いていくことになると思います。
いずれにせよ、現状では、権力者(ビッグ・ブラザー)が市民監視のためにカメラそのほかの電子機器を設置し、それに市民がプライバシー保護を訴えて対立すると言う古典的な対立軸はもう崩れ去ってしまっている。ここから引き出せるのは何かというと、プロパティ(所有=財産=固有性)を守るというとき、デジタル技術の進展でプロパーなものの境界が広く拡散した結果、いまでは、プロパティの保護と全体的な管理強化が矛盾しなくなってしまっているという一般的な状況です。
これは厄介な状況で、つまり、どういう立場から議論を始めても、結局はセキュアで管理されたネットワークを使って不法な侵入を撃退しなければならない、というような結論に落ち着いてしまうわけですね。米国の音楽業界によるP2Pネットワークの管理強化も、結局はこういう論理で支えられていると思います。私たちは自由な創造性を支援するが、そのためにこそフリーライダーは撃退しなければならない、というわけです。自由と規制は対立していないんですよ。
林:
今の話はとても面白い。少なくともそうなる可能性はありますよね。米国のウーマンリブの過激な人たちが結局ミロのビーナスとかは良くないとか言い出して、実は共和党右派の主張と変わらなくなってきている話とか、もう一個は、たまたま日本には個人主義が根付かないうちにあっち(共有主義)のほうに行ったらどうかと言う池田さんの意見ですけど、僕は根付かないのなら、共有じゃない仕組みも用意して、システム全体を流動化させる、つまり複数のやり方で競争させると言うことですが、そういうやり方が良いのではないかと思います。
著作権について言えば、そりゃあ強化したい人もいるでしょうから、そういう人は権利を強化させればいい。ま、現行法をこれ以上強化するのはどうかと思いますがね。で、一方で、何らかの許諾の下で共有させるとか、もっと進んでパブリック・ドメインにしてしまうとか、お金を稼ぎたいとか、名前だけは護りたいとか、そういうさまざまなニーズに合わせた自由な構造にしないといけないのではないかと思います。
山田:
自分の意思や知的財産は自分でコントロールしたい。その際に、選択肢が一杯あればそれでいいと思います。権利が50年か70年もそのままでハッピーだと言う人は、まああまりいないと思いますが、そうすればいいし、3年でいいやと言う人はそれでもいい。そのような環境を作るのがよい。
創造のインセンティブとモチベーション
池田:
知的財産権の基本的な前提になっているのは、「人間は金銭的なインセンティブがなければ創造は行わない」という仮説です。世の中では、経済学者がそういう通俗的な人間観をもっていると思われているようですが、最近はそうでもありません。この「経済人」の仮説は、実証研究をしてみると、自明ではないばかりか、もしかすると誤っているかもしれない。例えば実験では、金銭的なインセンティブを与える場合と、ほめたりしてモチベーションを与える場合を比較すると、確かに金銭的なインセンティブはきくんですが、カネがなくなると、かえって労働意欲は落ちてしまう。
もちろん、金銭的インセンティブが必要な場合もありますよ。そりゃあ人間楽しい仕事ばかりじゃないですから。でも、本当にクリエイティブな仕事をする際には、モチベーションをいかに高めるかと言うことを考えたほうがいいでしょう。で、これから日本が新しい産業、例えばコンテンツ産業をどう育てるかとかを考えるときに、求められているのはどっちのタイプなのか、つまり金銭的なインセンティブで無理やり働かせるような産業なのか、それとも誰もやったことのないことに(自発的に)取り組む産業なのかと言うことです。答えは自明でしょう。
玉田:
そういう形でのインセンティブというのは、マズローの言う人間の5段階欲求の最後のほうの、自分が集団から価値ある存在だと認められる「自我の欲求」と言えますね。 また、学者(Scholor)の語源は「余暇」から来ているそうです。要するに暇で暇で学問でもするか、ということですが、そういう人は金銭のために働くというよりは、自分の才能が求められればどこへでも出かけていくし、アカデミック・コミュニティの中でお互いに認め合って生きていたわけですね。今も論文はお互いに参照し、評価しあう世界です。このように学術の世界と言うのは池田さんが言うような共有の世界に非常に近い。 また、Linuxの世界も、オープンソースの世界の根幹を支えているのは、「あいつはスーパーハッカーだ」という仲間からの評価だと思うのです。
東:
それは少し楽観的に響きます。モチベーションだけでクリエイティブな作品を作り出せる期間はとても短い。だからこそ面倒な問題が発生してくる。実際に著作権の強化をもっとも強硬に主張しているのは、もはやモチベーションだけでは作品が作れなくなった人たちでしょう。そして、実際に、そういう人たちの生活も守っていかなければならない。そのときに、君たちもっとオープンにやれよと言ったところで、納得を得るのは難しいでしょうね。
山田:
確かに、難しい話ですね。先ほどの特許制度は陳腐化するという話も、ムーアの法則が効いている世界では確かに陳腐化しますが、例えば、医薬品のように、研究開発から製品化まで長いスパンを必要とする分野では特許と言うのは非常に重要な意味を持っているわけです。だから、一方的に日本は世界の最先端を行くことにしたので、特許の保護期間を3年にします、というのは何も意味がないし、全体のバランスから見ても好ましくない。だから、15年がいいかもしれないし、50年じゃないと駄目な産業もあるかもしれない。そのような場合場合に応じた、柔軟な制度を考えていく必要があると思う。
玉田:
最近、制度改正があって、そのカーブがすこしなだらかになったという話を聞きました。実際に、ソフトウェアなど技術分野別に特許期間を定めてはどうか、という議論がありますね。
池田:
確かにクリエイターの中で、本当にモチベーションだけでやれる人は少ないですよね。大多数の人は「仕事」としてやっているわけで、そういう人たちが内発的なモチベーションだけでやれるわけがない。じゃあそういう普通のクリエイターの利益をどう守っていくかということですが、私は「差し止め権」は最初にアーティストが仲介業者に渡すときに「消尽」させ、あとは「報酬請求権」だけをもつというしくみにしたほうがいいと思います。
これは現実に放送局やカラオケでとられているルールで、「強制ライセンス」という誤解をまねく名前がついてますが、「自動ライセンス」と呼んだほうがいい。要するに自由にコピーさせて、あとから「1曲いくら」という定価で料金を徴収するという方法です。コンテンツに「電子すかし」のようなIDをつければ、P2Pで音楽を配信しても、料金をとれます。いつまでも差し止め権が消尽しない今の著作権は、利用をさまたげて、権利者の収入にもならない。
文化産業のビジネスモデル
東:
日本ではまた独特の問題がありますね。たとえば、漫画やアニメやゲームは、いまもっとも注目されているコンテンツ産業であり、同時に長いあいだオープンソース的な伝統(コミケ)で作品を生産してきたという利点をもっている。そういう意味では、放っておいてもちゃんとコモンズが成立していたのです。ところが、ここになって急に業界全体が著作権強化に向い始めている。これはグローバル化と関係がある。海外進出を本気で考え始めたら、先方の基準で権利強化を図るしかない。しかし、そうやって知的財産権をガチガチにかためると、今度はいままでのコミケ的伝統との整合性が取れなくなる。その矛盾をどう解決するかが、今後の課題になるでしょう。
池田:
東さんの意見が、なぜか経済産業省の皆さんの意見とわりとよく似てますね。彼らも、アニメやゲームが日本の有望な産業になると見ている。しかし、私は産業としてそんなに大きくなるかどうか疑わしいと思うし、なることがいいかどうかもわからない。ポール・ローマーという経済学者が言っていることですが、音楽産業は全世界で360億ドルぐらいで、GDPの誤差以下だと。
CDのディスクの原価は5円くらいらしいですが、それに音楽を録音して2000円くらいで売って、この独占権を法的に守っている。いわば400倍の税金を消費者にかけているわけです。しかし2000円で1万枚しか売れないCDも、100円で売ったら100万枚売れるかもしれない。ローマーの計算では、こういう異常な価格設定によって音楽産業の得ている利益よりも、消費者の損失のほうがはるかに大きい。ミュージシャンがウェブで音楽配信をして、仲介業者が料金を徴収できれば、レコード会社なんかいらないわけです。
東:
はいえ、いわゆる「文化産業」が本当にそういう経済的なモデルで分析できるかどうかは、分かりません。そもそも文化的な消費の場合、消費者の行動がまったく合理的ではない。だいたい、本当に音楽の好きな人やアニメを見たい人はごく少数でしょう。にもかかわらず、文化産業が産業として成立するためには、嫌な言い方ですが、品質が分からない大衆に無理して買わせなければならない。だからこそ、莫大な広告費を投入し、とにかく店に商品を一杯並べることが必要になる。そして、出版から音楽までみな歪んだ構造になる。
こういうのは、アドルノ=ホルクハイマーのころから指摘されていることで、二〇世紀後半の一般的な問題ですね。そして、いまの問題は、経済のグローバル化に呼応して文化産業の肥大化もますます進行していて、日本市場内では勝ち組だったアニメやゲームも、そういうグローバルな競争に勝てるかどうかかなり怪しいということです。これはコモンズがどうとか、創造性がどうとかいう話とは、レベルの異なる話題です。単純にカネの話ですね。
ところで、池田さんの誤解を解いておくと、僕は別にコンテンツ産業を「有望な産業」と見ているわけではないのです。マンガ・アニメ・ゲーム系作品については、むしろ、その支援を「産業振興」の枠組みで捉えるべきではない、というのが僕の考えです。そんなことをしてもどうせディズニーに適うわけがないし、その「産業振興」のため、知的財産権 を強化し国内のコモンズをズタズタにしていくことに長期的なメリットがあるとは思えないからです。池田さんもどこかで指摘されていたように、産業としてみれば、音楽産業は豆腐産業とほぼ同じ市場規模(年間約5000億円)でしかない。コンテンツの価値はそういうところにはない。
ハリウッド型が唯一のモデルではない
山田:
さっきのニュートンの言葉のように「先人の肩の上に乗っている」という自覚が大事だと思います。今は、先人の業績も権利問題がうるさくて利用できない。たとえば国立国会図書館が明治・大正の古文書をデジタルアーカイブしようとしたら、誰かが「著作権はどうなの」と言って作業がそこで頓挫してしまったという。NHKが番組で鶴が飛び立つ映像を流したので、その際に使った定点観測的な映像を学者が研究のために見せてくださいといったら、「番組に使用していないので駄目です」という返事だったという。こういう学術資料は、インターネットにアーカイブを作って、有料でもいいから開放すればいいんです。他人の肩の上に乗って新しいことをする際に、肩に乗せてもらう料金は払います、という仕組みはきちんと作ればいいわけです。
池田:
今のように差し止め権を強くする方向でやっていくと、どんどん既存の業者に権利が集中して、独占が強まると思います。そうすると、千葉大学の本間忠良さんの論文にもありますが、大規模に広告を打って同じアーティストの曲を刷り込んで売りまくる、というハンバーガーと同じマーケティングになって、大して創造的でもない「芸能商品」にお金が集中する。これからは、もっといろいろなオプションを広げるような仕組みを考えていく必要があると思います。
東:
そのとおりですね。さきほどの話に付け加えると、そもそも、ハリウッドを文化発信のモデルとして考えることが根本的に間違っていると思うんです。僕は消費者としてはハリウッド映画は大好きですが、あれは従来の映画鑑賞とは異なった独特の消費文化を形成している。シネコンに行って『マトリックス リローデッド』を観るのは、テーマパークに行くのとほとんど変わらない。
文化産業は、コンテンツの品質そのものではなく、コンテンツを介在としたコミュニケーションによって支えられます。裏返せば、大量の宣伝によって「これを見ないと仲間はずれにされる」という強迫観念を刷り込むことで、文化産業は成立している。その内容は一種の「ゼロ記号」で、教室内や職場での会話の役に立てば何でもいいのです。そういう方向にポップカルチャーを駆動させていくと、必ず、利得の一極集中を生み出し、少数のスターを生み出す一方、多数の才能あるクリエイターが生きにくい状況になっていく。
それに対して日本に優位があるとすれば、アニメやゲームを支えるサブカルチャー(オタク?)の集合体が、欧州的なハイカルチャーとも、米国的な文化産業=ポップカルチャーとも異なった、独特の市場構造や評価構造を備えていることです。それは、流通としてはポップカルチャーのようでありながら、そのなかにかなりカルト的な作家の存在を許す独特の柔軟さを備えている。古い例になりますが、『新世紀エヴァンゲリオン』のようなカルト的な作品がメガヒットに化けてしまうのも、そのような柔軟な構造があるからです。これこそが日本の優位であり、「知財立国」とかいうのであれば、そういう非ハリウッド的な伝統を活かすことこそ考えるべきです。それは、単純な著作権強化とか業界支援策では不可能ですね。
池田:
そもそも政府の戦略目的として、「知的財産立国」というのはおかしいと思う。知的財産保護とか企業収益の向上とかいうのは、個別企業にとっては目的ですが、社会の中では手段でしかないわけです。たとえば検索エンジンの登場によって、有料のデータベースは成り立たなくなりましたが、新聞記事ひとつ読むのに100円かかっていた時代のほうがGDPが高かったからよいということにはならないでしょう。情報が広くゆきわたる非金銭的なメリットのほうがはるかに大きいからです。「生産性パラドックス」としてよく知られるように、情報技術による効率の向上は、金銭ベースの国民所得には必ずしも出てこないのです。
もちろん財界のみなさんは、知的財産は既得権だから守ってほしいでしょう。しかし、それはユーザーを不便にするかもしれないし、独占を守って新しい企業の参入障壁になるかもしれない。経済学の実証研究では、今より特許や著作権を強化することは社会的にマイナスだという結果が多い。政府が戦略として考えなければいけないのは、個別企業の立場を超えて、消費者の立場から保護と活用のバランスをはかることだと思います。
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