X(旧ツイッター)などSNS(交流サイト)は毎年10月ごろになると小さなお祭り状態で、あちこちでノーベル経済学賞(正式名・アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞)の予想が飛び交う。2023年は、ノーベル経済学賞に米ハーバード大学のクラウディア・ゴールディン教授が選ばれ、驚きと、例年にない共感を呼んでいた。
ゴールディン教授の専門は経済史と労働経済学だ。女性としてはエレノア・オストロム氏、エステル・デュフロ氏に次ぐ3人目で、単独受賞は初。経済史と応用ミクロ経済学の手法を使って、200年にわたる女性の賃金と労働参加率に関するデータとともに、その変化の要因や男女の賃金格差の源を実証したことがクローズアップされた(注1)。ゴールディン教授は1990年、女性として初めてハーバード大学経済学部の終身教授となった(注2)。研究でも人生でも、後進に道を切り開いたフロンティアだ。
2人のノーベル賞経済学者に師事
受賞発表後のインタビューで、ゴールディン教授は今回の受賞、そして女性として単独で受賞したことなどを聞かれ、「“It certainly means a tremendous amount. It also means a lot because it’s an award for big ideas and for long-term change(本当に、途方もないほど多大な意味がある。素晴らしいアイデアと長期的な変化に対して報いたものでもあるからだ)”とコメントした。この言葉の後、ゴールディン教授は今回の受賞が、師である2人のノーベル賞経済学者、経済史のロバート・フォーゲル氏と、市場ではない社会の問題にミクロ経済分析を応用したゲイリー・ベッカー氏から連なるものであることに触れた(注3)。
フォーゲル氏はゴールディン教授の博士論文のアドバイザーで、ゴールディン教授は1972年に米シカゴ大学で経済学の博士号を取得した。また学生時代のゴールディン教授は当初、産業組織論を専門としていたが、ベッカー氏のシカゴ大学着任後に大きな影響を受け、専攻を労働経済学に変えた。シカゴ大学経済学部のロバート・シマー教授によれば、「ゴールディン教授の研究は、2人の業績を織り込み、土台にして発展させたもの」。女性単独受賞は初、という快挙はいうまでもない。それだけではなく、ゴールディン教授を育てた2人のノーベル賞経済学者が切り拓いたイノベーティブな研究が進化した結果、もたらされた受賞なのだ。
ゴールディン教授の研究業績や人柄などに関する詳細な解説は経済学者の論考を参照いただくとして(一般向けには、大阪大学の安田洋祐教授が公開した記事(注4)など)、ウォッチャーの筆者は教授の「長期的な変化」という言葉に注目し、別の視点から考えたい。
ベッカー氏は、市場ではない社会の問題を、経済学で分析したフロンティアだ。1973年の有名な論文で「結婚の経済学」を取り上げ結婚の利点として分業、子どもを持つことの心理的なメリット、家計の規模が大きくなるメリット、「保険」としての機能などを指摘した。一方で女性の高等教育が所得を増加させ、結婚によって得られる利益が減少するとした。
ジェンダー規範の経済学
ゴールディン教授は、ベッカー氏が切り拓いた結婚の経済学や差別の経済学などをさらに発展させ、結婚が女性の就労にもたらす影響を分析。結婚をめぐる法律や、将来のキャリアに対する期待が、女性が働き方を決めるにあたって大きな影響を与えることなどをエビデンスで突き止めた。
同じシカゴ大学出身で、ジェンダーの経済学研究で知られる気鋭の労働経済学者に、シンガポール国立大学のジェシカ・パン教授がいる。パン教授は今回の受賞を受け、「とても素晴らしいこと。ゴールディン教授からはたくさんの知的刺激をいただいた。多くの後進を育てた偉大なメンターでもある」とコメントした。パン教授はゴールディン教授の後進の1人といえるだろう。パン教授らは2021年にThe Review of Economic Studiesに発表した共著論文“Social norms, labour market opportunities, and the marriage gap between skilled and unskilled women”で、熟練女性と非熟練女性の結婚率について調査している。
一般的には、「女性が高学歴になるほどキャリアを優先し、結婚しなくなるのではないか」と考える人が多いだろう。だがパン教授らの研究によれば、社会規範が変化して男女の平等意識が高くなった社会では、高学歴女性のほうがむしろ結婚率が高かった。そしてパン教授らは「世界中どこでも高学歴の女性は低学歴の女性より結婚しにくいという単純な話ではない。国によって異なる何かがあるに違いない」と指摘した。
パン教授は、その「何か」が、男女の役割を固定する伝統的な「ジェンダー規範」だとする。そして、「伝統的なジェンダー規範の改善に向けてまず、対処する必要がある」と指摘した(注5)。実態と合わなくなった規範、例えば「女性はかくあるべし」のような規範が続くことは、公正とはいえない意思決定を再現し続ける。いわば「社会のゆがみ」だ。
ゴールディン教授らの研究をはじめとする知見が蓄積されたこともあり、英語圏ではダイバーシティー(多様性)のあり方などに対する理解が進み、規範の大きな変化を後押ししてきたように思う。経済学・経営学の領域では近年、「Equality(公平、あるいは平等)とEquity(公正)」の違いを掘り下げる話題を盛んに聞くようになった。全く同じものを与えるのが「公平、平等」。一方、努力では克服できない環境、例えば生まれた時の経済力や環境、属性、育った時代の規範に起因する機会の不利を理解し、人生を支援するのは「公正」である。
とはいえ社会的な規範が変化する時は、古い価値観と新しい価値観が衝突する。高齢者層の相対的な人口増加が進む先進国社会ではなおさら壁になりそうだ。政治経済学者である大阪大学感染症総合教育研究拠点の北村周平特任准教授は、LGBTQや同性婚、選択的夫婦別姓といった昨今大きな話題となるテーマの共通点として、「年代や時代によって人々の考え方が異なること」を挙げる。多様な社会だからこそ、過去の規範に生きる人がいる。
社会規範と民主主義
よって問題が可視化され理解されただけでは、社会に埋め込まれた人々の規範自体を変えることはできない。だからこそ、過去の規範に合わせてつくられた税制や労働法制などのうち、現在公正でない状況を数多くもたらすものを見直す改革は、社会の課題解決を前進させるために重要であろう。
規範は国家の未来にも作用するからだ。例えば、今回もノーベル経済学賞の有力な受賞候補として話題になった米マサチューセッツ工科大学(MIT)のダロン・アセモグル教授は、2021年のワーキングペーパー、2022年の共著論文で、民主主義的な社会がどうあるべきかについて論じた。社会の文化と国家制度は、相互に影響を及ぼしながら変わっていくとして、社会の文化を「文化の構成(Cultural configuration)」という概念で説明する。
前出の北村氏によると、社会には、文化をつくる様々な属性(家父長制などのような社会階層のあり方、社会的責任の構造、美徳の定義と重要性、宗教的戒律、古くからの習慣や伝統を尊重する程度など)があり、「文化の構成」はそれをつないだものである(注6)。文化の構成は、いわば規範のパッケージでもある。
規範は、技術変化や経済発展、教育など様々な要因から影響を受け、相互作用で変わっていく。人の行動は制度の制約を受ける。一方、制度もまた人々の規範の変化から影響を受け、変わっていくというわけだ。
古い規範にも優れたものがあり、すべてを否定すべきではないだろう。では規範の変化は、どこまで受け入れるのが最適なのだろうか。市場や制度をつくろうとする分野、マーケットデザインを切り開き、ノーベル経済学賞を受賞したアルビン・ロス米スタンフォード大学教授は、倫理観の変化に踏み込む探究を続けている。ロス教授は、「Repugnant Transaction(忌まわしい取引)」という概念で、同性婚や麻薬取引、臓器の取引など「禁断」とされてきた取引について規範や価値観の変化を掘り下げ、社会の最適解を探る考察を続ける(注7)。
「規範」はどこまで変われるか
人を殺めることは、ほぼどこの社会でもしてはいけないこととして、倫理上、社会通念上、受け止められる。一方、米国のカリフォルニア州に住んでいれば同性婚が可能で、別の場所では不可能といった場合、その違いはどこからくるのか。ロス教授はこのような規範の違いや変化を踏まえ、どのような枠組みをつくれば最適解を得られるのかを考察している。
それでは、規範の変化がより公正で望ましい時に、それをさらに推し進めるにはどうすればよいのだろうか。北村氏は、サイエンス誌に掲載された “Durably reducing transphobia: A field experiment on door-to-door canvassing”(注8)という論文の社会実験を挙げ、政策介入における対話の重要性を指摘する。
この研究では米国・南フロリダ州で501人の担当者が1998人の有権者を戸別訪問し、玄関で対話をした。介入群と非介入群をランダムに振り分け、介入群にはトランスジェンダーに関する話をし、非介入群にはそれとは無関係な話をする実験をした。具体的には10回、約3分間の会話をした。
前者との対話では、その住民が過去、人と違うことで否定的に判断されたことがあるかどうか尋ねた。そして経験がある場合、それがトランスジェンダーの人々の体験を見つめる際にどう役立つかを尋ねた。その結果、介入群では、トランスジェンダーの人々に対する許容度が数年にわたって高まった。北村氏は「制度変化が遅々として進まない要因の一つは、ほんの少しの対話の欠如なのかもしれない」と評する(注9)。
男女の賃金格差という社会のゆがみを「見える化」し、新しい社会政策の理論的支柱ともなったゴールディン教授のノーベル経済学賞受賞により、今後世界各地で、男女格差に関する自然な対話が増えるかもしれない。日本の性差による賃金格差は22%で、OECDで最も格差が大きい国の1つだ。さらには、主導的地位にある女性の比率や国会議員における女性の比率はOECD加盟国の中で最も低い(注10)(注11)。
受賞を機に、日本でも男女の格差に関する対話が頻繁で身近なものとなり、より公正で公平な変容につながることを願う。