リサーチインテリジェンス

MITのアセモグル教授が、AI開発に警戒する理由

広野 彩子
コンサルティングフェロー

2023年5月19日から広島で開かれた主要7カ国首脳会議(G7サミット)における焦点の1つが、急激な進歩を遂げつつある人工知能(AI)への政策的な対応だった。首脳宣言にも「我々が共有する民主的価値に沿った、信頼できるAIという共通のビジョンと目標を達成するために、包摂的なAIガバナンス及び相互運用性に関する国際的な議論を進める」とする内容が盛り込まれている。

筆者はこのほど、長年、本テーマで提言を発信してきたMITのダロン・アセモグル教授にインタビューする機会を得た。経済学界隈では知らぬ人などいないアセモグル氏だが、日本で一般的な知名度が高いとは言いがたい。本稿では、生成AIをはじめとする技術イノベーションの在り方に警鐘を鳴らし続けるアセモグル氏の問題意識について、過去のインタビューや、サイモン・ジョンソンMIT経営大学院教授との話題の共著『Power and Progress』(注1)の内容もひもときながらご紹介したい(注2)。

アセモグル WHO?

アセモグル教授は、トルコ出身の経済学者である。過去には、経済学で最も専門性が高く権威がある学術誌の1つEconometricaの編集長を務めた。政治経済学、労働経済学、自動化とイノベーションの研究などその実績は幅広く、いずれノーベル経済学賞を受賞することが有力視されている。

非営利のオピニオンメディア「プロジェクト・シンジケート」での発信も活発で、昨今、とりわけ注目を集める。2023年2月、サイモン・ジョンソン氏とプロジェクト・シンジケートに投稿したAI開発のリスクを警告した内容も呼び水の1つとなり、AIの先端研究に6カ月間以上の中止を求める署名運動が起こったのが一例だ。だがアセモグル氏の影響力の源泉は一般向けの言論活動ではなく、研究対象分野の幅広さ、そして量と質のすさまじさだ。

米経済学会会長で米スタンフォード大学経営大学院教授のスーザン・エイシー氏は、2023年1月6日の米経済学会年次総会でアセモグル氏が登壇する特別講演に先立ち、アセモグル氏をこう紹介した。「ダロンに関するジョークには事欠きません。まずは最近のツイッターに投稿されたものを紹介しましょう。『ダロンの今年の論文引用数があなたの論文の全引用数を超えるまで、あと何日か?』。そして私からも1つ。『この特別講演中にどちらの引用数がより速く増えるか覚悟しなければならない。聞いている経済学者全員分か、それともダロンか!』」

産業の自動化、ヘルスケアとエネルギー業界に「ゆがみ」

特別講演の内容はこちらにワーキングペーパーとして掲出されている。産業の自動化、ヘルスケア、エネルギーの各分野において技術の方向性による均衡のゆがみが生じるため、そのゆがみを是正することが社会に大きな福利をもたらすと論じている。つまり、技術革新の恩恵がどこか・誰かに偏ってはならない、という結論だ。同じ主張が、共著『Power and Progress』では、歴史を踏まえたアプローチで分かりやすく書かれている。

本書は1000年にわたる技術革新を振り返り、技術が社会にもたらした経済成長や、技術の登場が引き起こした社会の力関係の変化を論じている。例えば中国・宋時代の活版印刷や羅針盤は当時、世界最先端だったが、中国内で産業革命を起こす力にはならなかった。だが海を渡ると、欧州では産業革命が起こる直接・間接のきっかけとなり、社会全体を変容させた。著者らは一貫して技術による「繁栄の共有」の重要性を主張し、技術がもたらす利益や権力が一部に偏りすぎることの弊害を説く。

著者らは技術開発の方向性を、「人ができることの自動化ではなく、人間の能力を拡大する方向に転換すること」を繰り返し訴える。それに加え、新たな技術により高まった生産性の恩恵を、資本と労働でシェアできる仕組み(レントシェアリング)を整備することが、技術革新で繁栄を共有するための2つの柱だとする。

「人の主体性」の危機

AI開発に対するこうした介入策をめぐり、アセモグル氏がインタビューで繰り返し強調したキーワードが、「主体性(Agency)」だった。人の主体性を損なわない、人の能力を拡大・補完する技術開発が望ましく、野放図な自動化は人の主体性を著しく損ないかねないと警告する。

Agencyは社会科学の専門用語だが、さかのぼるとヒューム、あるいはアリストテレスといった道徳哲学にルーツがある(注3)。過去の経験や思考を生かし、目的に向かって自ら行動を起こす力のことだ。欧州委員会が2019年、AIに関する倫理ガイドラインを発表したが、そこでもHuman Agency(人の主体性)の重要性を指摘している。「AIシステムは、人が十分に情報を持って意思決定するという本質的な権利を育むための、人の活躍に資する存在であるべきだ。同時に、AIを適切に監視する仕組みを確保すべきだ」(訳は筆者)とする(注4)。

アセモグル氏は学術論文でもかねてより「国家は、産業による経済成長を通じてより裕福になり、社会をより良く発展させることができる」とする、社会科学の近代化理論を批判してきた。本書でも「技術イノベーションが世界をより良くする」という楽観論に待ったをかける。そしてビジョンと、技術開発で何を実現するのか、目指す方向性をはっきりさせることの重要性を詳細に論じる。

また、2020年のロビンソン氏との共著『自由の命運(上・下)』(早川書房)(注5)でも、民主主義の維持には、国家と社会のバランスが変化し続ける狭い回廊を走り続けるような危うさがあり、全員が努力する必要があると訴えた。今回は技術革新を議論のフレームとして前面に押し出して洗練させているが、問題意識は同じである。つまり「一部の声だけを聞いてはならない」という、シンプルだが、時に困難な民主主義の原則だ。

「独裁者に押し付けられるか、自分で選ぶか」

アセモグル氏はこちらの2021年9月のワーキングペーパー「Harms of AI」でも、AIが現状のまま野放しで進歩すると政治や社会に多大なコストを生む、と指摘していた。AIはやがて「(企業間)競争と消費者のプライバシーや選択権を損ない、仕事の過度な自動化により非効率に賃金を押し下げる。そして格差を拡大して生産性向上を挫き、さらに民主主義の最も重要な生命線である政治的な論議を損なう」と警告している。

「私は、独裁者に何かを押し付けられるより、自分たちで選んだほうがいいと思う。これが『主体性』で伝えたい意味だ。主体性とは、選択の自由と能力があるということなのだから」。アセモグル氏は言葉に力を込めながら述べた。

ちなみにインタビューから約1カ月後の2023年5月28日。アセモグル氏の母国トルコの大統領選では、10年間現職にあるレジェップ・タイイップ・エルドアン氏が再選された。

脚注
  1. ^ 『Power and Progress: Our Thousand-Year Struggle Over Technology and Prosperity』(2023 年 5 月)
  2. ^ アセモグル氏へのインタビューは、2023年5月12日付けの日経ビジネス電子版に掲載されている。
  3. ^ https://plato.stanford.edu/entries/agency/
  4. ^ https://digital-strategy.ec.europa.eu/en/library/ethics-guidelines-trustworthy-ai
  5. ^ 原書タイトル "The Narrow Corridor: States, Societies, and the Fate of Liberty"(邦訳タイトル『自由の命運:国家、社会、そして狭い回廊』早川書房)

2023年6月26日掲載

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