Economics Review

No.10 金融行政のジレンマ:「シグナル効果」の明暗

鶴 光太郎
上席研究員

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1. イントロダクション

9月に入ってから株価が急落し、バブル以降の最安値が更新される中で、金融不安、銀行の不良債権問題が再燃している。問題の深刻さはここ数年、増すことはあっても軽減されるような状況ではないにもかかわらず、株価が比較的安定している時期にはこうした問題はまるでもう解決されたかのように忘れ去られてきた。それが、決算期末を迎えたり、株価の水準が低下すると、金融危機への懸念がそぞろ台頭することを繰り返している。これは、プールに立っている人(銀行)にとって水面(株価水準)が首までであればなんともないのであるが、それ以上になれば溺れるためギャーギャー大騒ぎをするのと似ている。はたからみておれば、やや滑稽な感じも否めないが、本人にとっては即、「死」を意味するので事態は殊のほか深刻なのである。

しかし、今回がこれまでと異なるのは、9月18日に日銀が銀行保有の株式買入という、いわば、「捨て身」の政策を発表すると同時に、9月末の内閣改造では、公的資金導入に消極的と言われてきた柳沢前金融担当相からそれを選択肢として視野に入れていると目される竹中経済財政担当相に金融行政がバトンタッチされたことである。こうした動きは、金融行政の転換点となりうる可能性を秘めている。不良債権の抜本処理に向けての最後であろうこのチャンスを生かすか殺すか、それはこれまでの金融行政のジレンマ・失敗にもう一度目を向けるかどうかにかかっている。本稿では、政策の「シグナル効果」をキー・ワードとしてこの問題を考えてみたい。

2. 日銀の銀行保有株式買入の評価

日銀が銀行保有株式買入を表明した際、市場から驚きの声が上がったが、政府・与党や海外のメディアには辛らつなコメントもあった。確かに、これまで追加的な金融緩和策の手段として、「リスクの相対的に高い資産も購入して流動性を供給すべき」という議論に対し、日銀は、「こうした資産の保有からキャピタル・ロスを蒙った場合、その埋め合わせはどうするのか、また、通貨(円)の信認を大きく損なうことになるため不可能」と一貫して主張してきたため「肩透かし」を食わされた印象はぬぐいきれない。日銀側としては、今回の政策は流動性供給や株価維持のための政策ではなく、あくまで、銀行保有株式削減を促進して銀行の経営の大きな不安定要因になっている価格変動リスクを削減するという、一回限りの臨時異例の政策として位置付けるため、キャピタル・ロスの問題はあるものの、これまでの主張とは必ずしも矛盾しないという立場であろう。

確かに、金融政策でも財政政策でも節度と規律が重要であることは言うまでもない。しかし、それは経済政策に「タブー」を作るということとは違うはずである。経済の状況が大きく変化すればそのデメリットを明確に意識した上で大胆な政策を行う必要が当然出てくる。つまり、ある政策が望ましいかどうかはその置かれている経済状況に依存するという考え方である。その意味で、中央銀行の資産買入についてもその目的がなんであれ経済状況の変化で連続的に考えていくべきであり、くしくも、今回、日銀が自ら証明することになったともいえよう。

銀行保有株式買入については、さらに10月11日にその具体的スキームが発表された。今回の政策に対する評価は時期尚早であるが、二つの大きなインプリケーションについて指摘しておきたい。第一は、政策的に銀行の株式保有を削減するということは、大恐慌後、それまで株式保有を通じて企業に大きな力を持っていた銀行(モルガン)の不祥事などから、グラス・スティーガル法制定で商業銀行の株式保有を禁止したアメリカのように、金融システム自体が大きく転換していく端緒になる可能性があることである。債権者と株主を兼ねることでガバナンスを効率化・強化するという意味でのメインバンク・モデルの終焉を意味するためである。

そしてより重要なのは、本政策そのものよりもそれの持つ「シグナル効果」である。金融庁の検査とは別に銀行の考査を行う日銀は銀行の経営状況をつぶさに知る立場にあるはずだ。しかし、その惨状をそのまま公にすれば金融危機が起きかねない。むしろ、今回の政策は銀行の内情を知る日銀が自ら政策のコスト、批判を承知の上であえて「禁じ手」である政策を採用することにより、世間に「銀行の自己資本の毀損とそれによる経営の不安定化が危機的状況にまで達している」という事実をクレディブルにシグナルするという意味で大きな役割を果たしたと考えられる。事実、10月11日に日銀が公表した「不良債権問題の基本的考え方」にも、これまでその重要性は認識しつつも所管の関係で及び腰であった不良債権問題に正面から取り組み、危機における自らの「最後の貸し手」機能の発揮と並んで公的資金の注入をひとつの選択肢として(政府による)検討を促すなど日銀の相当な決意が読み取れる。

こうした経済政策の信頼性の議論については、いわゆる「改革の経済学」と呼ばれる分野でも盛んに議論されている( Sturzenegger and Tommasi (1998))。ポイントは、自らの信条とは異なった改革を提案することでむしろ政策のクレディビリティを獲得するというメカニズムである。たとえば、ポピュリスト的な政府が市場指向的な改革を提案するような場合である。自らの政治的支持基盤を犠牲にしたり、同じ党派から反発を受けたとしても、このような改革を行うことが不可欠であること、つまり、経済がそれだけ危機的状況であることをシグナルしていると解釈できるからである。したがって、こうした改革の信頼性は高まることになる(たとえば、アメリカの国際経済研究所のウィリアムソンらは、市場指向的な改革を行った13カ国のうち、右派は3つのみであり、残りは全部左派の政権であったと報告している (Williamson (1994))。

3. 公的資金注入とその「シグナル効果」

一方、政府側も「危機的な状況ではない」と主張してきた金融庁大臣の交代を契機に、竹中プロジェクトチーム(金融分野緊急対応戦略プロジェクトチーム)が金融安定化に向けての行動計画を策定する予定である。報道によれば、竹中氏は、銀行の不良債権加速に向けた公的資金活用について、(1)資産査定の厳格化、(2)自己資本の充実、(3)銀行の統治機能の発揮、という3原則の重要性を強調されたとのことである。日銀の「不良債権問題の考え方」にも示されているが、確かに、不良債権の査定を厳しくし、より現実的な引当を行うべくその手法そのものも見直していくことの重要性に議論を挟む余地はないであろう。しかし、今までもその重要性が認識されつつも、なぜ不十分な対応しかできなかったかについて再考しなければ、また同じ過ちを繰り返すだけである。

問題の本質は、基本的には「銀行をつぶさない」という大前提の元で金融行政が行われてきたことに尽きる。「銀行をつぶさない」ことが暗黙の前提となれば、不良債権の査定が当局、銀行自身も甘くなり、引当もそれぞれの銀行の体力に応じてしか行われないのは明白である。それでは、なぜ、つぶせないのか?

それは、日本の置かれているやや特殊な状況にも関係している。通常の銀行監督行政や銀行理論で想定されている不良債権問題の処理のフレームワークでは、自己資本が著しく毀損して退場願わなければならない銀行は金融システム全体の中でごく一部を占めるに過ぎない。しかし、日本では、バブル経済の崩壊の影響がほとんどの金融機関を直撃し、“too many to fail”(多すぎてつぶせない)状態を引きずってきている中で、都市銀行などの合併による4大グループへの集約にみられるように、”too big to fail”(大きすぎてつぶせない)が更に深刻になっている状況である。

したがって、日本の場合、不良債権の抜本処理・損切を徹底して行うと過小資本になる銀行が多数出てきてしまい、しかも、規模が大きいため、金融危機やシステミック・リスク発現につながる可能性が不良債権処理を行った他の諸国に比べても格段に大きいことが政府・与党で懸念されているのは間違いない。どんな政治家でも世界大恐慌の引き金を引いて後世に名を残したいと思う人はいないであろう。

しかし、債務超過になった銀行を破綻させることが本当に大規模な金融パニック、システミック・リスクに繋がるのかという問題は実は詳細に検討されなければならない課題でもある。また、たとえ、グローバルなつながりを持つ金融・決済システムを金融界に「人質」として取られていたとしても、断固として債務超過の銀行には退場を促す覚悟が必要である。

なぜなら、そうした選別ができて初めて公的資金注入の是非が議論できるからである。債務超過銀行ではなく、自己資本が過小になったとしても将来性のある銀行のみに公的資金は注入されるべきである。しかし、公的資金注入においては、以下のように二つの「ジレンマ」がある。第一の「ジレンマ」は経営・監督責任への波及である。公的資金の注入を受ければ、銀行の経営陣や監督当局も責任を取る必要が生まれる。しかし、両者とも責任を認めたくないわけで、当然、「公的資金の注入は必要ない」と主張しがちである。つまり、本来、公的資金注入が必要な銀行がそれを拒否してしまうという「ジレンマ」である。したがって、公的資金を注入するためには、銀行業界や監督当局をも超えたなんらかの強制的なメカニズムが必要となる。

第二のジレンマは、公的資金注入自体の「シグナル」としてのジレンマである。公的資金が導入されるためには、対象となる銀行が不良債権の査定を厳格に行い、十分に引当を積む、または、損切りをした結果、自己資本がどの程度になるか、その真の姿がつまびらかにされる必要がある。したがって、個々の銀行の状況に応じて必要とされる公的資金注入額は異なってくるであろう。

しかし、公にされた銀行のバランスシートの状況が市場の認識と異なる場合には、市場からの攻撃(株価の急落、インター・バンク市場の混乱)や預金取り付けに直面する可能性がある。そうした情報を公表せず、個々の銀行への最終的な公的資金注入額が明らかにされる場合でも、その額が現実的な自己資本レベルを正しく反映している以上、銀行のバランスシート状況を的確に反映する「シグナル」となり、個別銀行の公的資金注入策が明らかになる時点で、上記のような市場の混乱や取り付けが起こる可能性が生まれてしまう。

つまり、適切な政策がむしろ「シグナル効果」で金融危機を起こしかねないという深刻なジレンマである。過去二回の公的資金注入をみると、98年3月時点では主要行は1000億円であからさまな横並びであり、99年3月期の場合は、注入額のレベルでみればばらつきがあるが、銀行の資産規模等で評価すると、主要行では旧富士、旧大和が高め、旧住友が低めである以外はそれほど大差なかったといえる。「シグナル効果」を仮定すれば、公的資金注入額の銀行間格差は小さく、かつ、過小にならざるを得ない。しかし、このような小規模かつ横並びの資本注入を繰り返していると、格差がついた、より実態に沿った資本注入策を実施する際の「シグナル効果」はますます大きくなってしまう。

したがって、上記の二つの「ジレンマ」をいかに乗り超えていくのか、そのための方策を今、真剣に議論すべきである。つまり、つぶすべき銀行はつぶすとともに、その影響が健全な銀行にまで及ぶような場合は、日銀の「最後の貸し手」の機能を活用する。そして、「シグナル効果」の影響を最小限にするためには、不良債権の抜本的処理と公的資金の注入はセットで行い、しかも1回限りで強制的に完了させる必要がある。これは、金融システムの壮絶な大手術なのである。

2002年10月17日

2002年10月17日掲載

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