Economics Review

No.4 政府組織と官僚のインセンティブ:中央省庁再編の評価

鶴 光太郎
上席研究員

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1. イントロダクション

前回のエコノミクス・レビューでは、「仕切られた多元主義」というこれまでの日本の政財界の関係を特徴づけた制度特質がさまざまな環境変化の中で必ずしも機能しなくなってきていることをみた。それでは、「仕切られた多元主義」を超克していくため、政府は何をすべきであろうか。具体的には、政府組織や政策決定プロセスのあり方が問われているといえる。最も単純な発想は、「仕切り」が問題なら「仕切り」を取っ払えばいいではないかという考え方である。言い換えれば「仕切り」はあたかも「ベルリンの壁」のように打ち壊していかなければならない旧体制の象徴とする見方である。こうした「縦割り主義の打破」は、今回の中央省庁改革の1つの理念であったと考えられる。しかし、そうした文脈で行われたいくつかの省庁の統合は、「仕切られた多元主義」の限界を克服していくために本当に有効な改革であったのであろうか。こうした問題は、アカデミックな理論フレーム・ワークの下で再考されるべきであろう。本稿では、以上のような問題意識に対し、最近、経済学の中でも急速に発展している、政府組織・政策決定の政治経済学の立場から考えてみることにしたい。

2. 政府・官僚のインセンティブ:依頼人・代理人アプローチ

企業行動・組織を解明するための道具として、過去四半世紀にわたり、契約理論、情報の非対称性理論、ゲーム理論が大きな貢献を果たしてきたが、政府の行動・組織についても、たとえば、官僚をプリンシパル(依頼人)たる国民(および政治家)から社会的厚生を最大化させることを依頼されたエージェント(代理人)と捉えることができる。こうした分析視点に立てば、企業の経営者が必ずしも株主の利益を最大化するような行動を採らないのと同様、官僚も社会にとって最適な政策を実施するとは限らないことが容易に想像できる。つまり、政府・官僚のインセンティブの問題を考えることが重要になってくるのである(Dixit (1996), Tirole (1994))。

政府・官僚のインセンティブ問題は通常のケース(民間企業やその従業員)と比べるといくつかの特徴を指摘できる。たとえば、こうしたアプローチの端緒となったTirole (1994)は、(1)政府の追求する目標が多様であること、(2)政府のパフォーマンスは絶対評価のみならず相対評価も難しいこと、(3)政府が異質な選好を持った国民に広く薄く「所有」されていること、を挙げている。

複数任務・依頼人モデル
こうした特徴は、実は、政府・官僚に高いインセンティブ(high-powered incentives)を与えることを難しいものにしている。たとえば、複数の任務(multi-task)や複数の依頼人(multi-principal)を持つエージェント(代理人)の場合、パフォーマンスの計測が容易な仕事のみ専心したり(Holmstrom and Milgrom (1991))、自分により目をかけてくれるプリンシパル(依頼人)になびいてしまい、他の任務や依頼人を疎かにしてしまうというバイアスが発生する。したがって、それぞれの任務をバランスよく遂行することを官僚に求めようとすれば勢い彼らのインセンティブは低くならざるを得ない(low-powered incentives)。

また、政府・官僚のパフォーマンスが絶対的・相対的双方の評価とも難しいということになれば、インセンティブ・システムは、Holmstrom (1999)の意味での「出世欲」(career concerns)(正確には測れない現在のパフォーマンスがそのまま金銭的な報酬に結びつくのではなく、「評判」が積み重なることで能力が評価され、将来の昇進や天下りに反映されるというメカニズム)にならざるを得ない。しかし、先ほどの任務の多様性はこの場合、更にやっかいな問題を生むことになる。Dewatripontet. al. (1999)は、Holmstrom (1999)に複数の任務を入れたモデルで官僚のインセンティブの問題を考えると、担当している任務の数が大きくなればなるほどそれぞれの任務に対する努力水準の総和も低下してしまうという別のバイアスが生まれることを示した。つまり、「出世欲」が大事ならば、多数の任務を与えることはますます官僚のやる気を失わせることになる。これは、任務の数が多くなればその総和としてもパフォーマンス、ひいては能力評価の誤差が大きくなるからである。

「使命」の重要性
以上のような分析の結論として、彼らはそれぞれの省庁は多様な目標を持つのではなく、ある「使命」(mission:その組織の構成員に広くかつ熱烈に支持されるような唯一のカルチャー)に特化すべきであると説き、そうすることで少しでも省庁のパフォーマンスは評価されやすくなり、説明責任(accountability)も向上し、ひいてはそれがその省庁の独立性を促進できると主張している。

「使命」の重要性を考える上で分かりやすい例は中央銀行である。中央銀行は、通常、物価、景気、金融システムなど明示的、黙示的にさまざまな目標を持っているが、組織としてのインセンティブを考えた場合、なんらかの目標に焦点を当てる必要がある。国際的にもそれは「物価の安定」であることがコンセンサスになっており、新日銀法でもそれが明確にされた。その是非はともかくとしても、「インフレ目標設定」はそうした中央銀行の「使命」への取り組みを計測可能な方法で評価することで中央銀行の説明責任、独立性を確保するためにいくつかある手段の1つであると考えれば、その政策的な位置付けもわかりやすいと考えられる。

3. インセンティブにおける利益相反と「提唱者」の役割

政府・官僚の任務の多様性に起因して最も事態が深刻になるのは、官僚のいくつかの任務が互いに利益相反する場合である。Dewatripont and Tirole (1999)は、ある意思決定をするために、それを支持する証拠と支持しない証拠を集めるという任務を考えた場合、どのような仕組みが証拠集めの努力を最適化するかを考えた。ある標準的な仮定の下では、同じ者が二つの任務に従事するのではなく、裁判における検事と弁護士のように、それぞれ相反する任務を別のものが担当する方がより望ましいことを示した。つまり、特定のポジションに論陣を張った「提唱者」(advocates)になることで解決を図る方法である。なぜなら、一人が両方の証拠を見つけることは片方の証拠探しへの努力を無駄にすることになり、双方の側に立った証拠探しへの努力がなされない、または、そのためのコストがより高くなるためである。政府組織の場合も、1つの政府組織に相反する任務がある場合、組織を分離し、それぞれが別の任務を受け持つ方が望ましくなる。これは「チェック・アンド・バランス」の一形態とも考えられる。

景気判断と「提唱者」
ここで興味深いのは、筆者がかつて政府部内で景気判断の政府統一見解を作成・調整する部署に勤務していたときのエピソードである。景気判断は経済の変化に応じて迅速に改訂していくことが重要であるが、特に下方修正を行う時は関係省庁の間でかなりの軋轢を生むことになる。この場合、調整官庁の原案に対して、たとえば、旧大蔵省は財政均衡主義のもと財政出動への圧力を回避することが至上命題であるため、「景気はまだそれほど悪くない」ことを証拠づけるような情報・統計を徹底的に集めて景気判断の下方修正を食い止めようとする。一方、旧通産省は、産業界のために財政を含め対策を発動させたいというインセンティブがあるため、むしろ、「景気はもっと悪い」ことを示すような証拠集めに奔走する。最後は三つ巴で論争し、調整官庁は両者を原案に近い線まで歩み寄らせるのである。この時、それぞれの省庁が「証拠」と主張するものの中にはとても論拠といえないものも多かったが、その情報収集に対する熱意に感銘を覚えた経験がある。単独ではそこまで相反する証拠集めへの努力は到底行われなかったであろうことを考えると、景気判断を行うための情報収集プロセスという観点からみれば、あながちこうした各省庁の合議も無駄ではないかもしれない。一方、先の裁判の例からいえば、調整官庁が「裁判官」の役割を果たすわけなので、その役割を単純に「足して二で割る」と批判するのもこうしたダイナミックなプロセスを無視した議論であることがわかる。

組織内の利益相反:旧大蔵省のケース
ここでは、更に、同一の政府組織内に利益相反があるケースについて考えてみよう。第一の例は、同一の省庁が2つの産業の育成を担当しており、ある産業の発展は逆にもう一方の産業のマイナスになるという利益相反が存在するケースである。たとえば、前回のエコノミクス・レビューでも論じたように、銀行・証券の垣根撤廃へのイニシアティブが十分発揮されなかった背景には、同じ組織(旧大蔵省)の中に銀行局と証券局が存在し、特に垣根の撤廃については、「片方を立てればもう片方は立たず」という利益相反があったことも大きかったと考えられる。

第二の例は、同一産業を管轄する場合でも、その管轄の時間軸で利益が相反する場合である。具体的には、管轄産業の不正行動を防ぐため、事前に行う監視(monitoring)と事後に行う検査(inspection)である。もしこの2つの任務を同じ政府組織が行えば、事後的に不正を見つけたとしてもそれは事前の監督が不十分であったことを明らかにすることになるので、それを見逃したり、そもそも事後的に不正を見つけるインセンティブは弱くなってしまうであろう(regulatory cover-ups:規制者の隠匿, Boot et. al. (1993), Dewatripont et. al. (2000))。したがって、少なくとも検査を行う部門は組織的に切り離すことが必要となる。91年に証券業界で損失補てんスキャンダルが発生した後、92年に証券取引等監視委員会が旧大蔵省から分離して設立されたこともこうした文脈で評価できる。

以上のように政府・官僚のインセンティブの観点からすると、追求しなければならない目標・任務が多くなりがちなので、それぞれの組織がある目標・任務に焦点をあて「使命」を明確化すること、また、特に、同一組織で利益相反となる任務がある場合はそれを別の組織に切り離していくことが重要である。

「仕切られた多元主義」との関係
こうした考え方は政府関係者を含めて違和感が持たれる場合もあろう。政府が社会的な厚生を最大化させるためには、さまざまな外部性(externalities)を内部化(internalise)すること、つまり「諸般の事情を総合的に勘案して適切な対処に努めてまいりたい」という官僚の常套文句に政府・官僚の基本的な姿勢が表れているからである。問題は、だからこそ、政府・官僚の任務・目標の数が増え過ぎて、複雑化してしまい、適切な政策遂行のためのインセンティブを十分与えることができなくなることである。その意味で「仕切られた多元主義」は政府においては各産業を担当する「原局」に管轄産業の発展・既得権益の死守という明確な「使命」を持たせることでインセンティブの問題を解決してきたとも考えられる。このような観点からすれば、政府組織からみた「仕切られた多元主義」の問題点は、例えば、旧大蔵省の内部に利益相反する銀行局と証券局が存在していたように、両立できない「仕切り」が1つの組織に存在し、「仕切り」自体が徹底されていなかったことが大きいかもしれない。

4. 中央省庁再編の評価

最後に、以上の理論フレーム・ワークに基づいて、今回の中央省庁再編について論じてみよう。これにはいくつかの側面があるが、ここでは大蔵省からの金融部門分離といくつかの合併によるメガ官庁の出現に焦点を当ててみたい。

まず、旧大蔵省からの金融部門の分離はこれまでの議論から推察できるように大きなメリットがあったといえる。なぜなら、たとえば、銀行の不良債権問題においては、「規制者の隠匿」が先送り政策に結びついていた部分があったと考えられるためである。当時、大蔵省は金融部門の分離を阻止するための理論武装の1つとして、「同じ組織に金融部門と財政部門を持つことは金融危機が起こった際に迅速に財政支出ができる」ことを強調した。しかし、これは逆に、銀行部門の惨状が明るみに出れば財政負担が避けられないため、財政当局の立場からは、むしろ、銀行に関する情報をなるべく国民に知らしめないようにするという別な形での「規制者の隠匿」を生んだ可能性もあろう。

第二は、国土交通省などのメガ官庁の出現である。表向きは各種政策の重複をなくし、調整を容易にするための合併であったであろう。いわゆる「縦割り主義の打破」である。しかし、上記の理論に照らしてみれば、1つの省庁として受け持つ任務があまりにも多くなりすぎて官僚のインセンティブに悪影響を与えているのが実情ではないであろうか。もともと異なった伝統、文化、考え方を持つ省庁が合併し、融和していくことは多大な労力を伴う。このようなメガ組織の場合、トップがすべての局を掌握し、調整することがほとんど不可能である一方、組織の構成員もその業務を円滑に進めていくためには、たとえば、銀行の合併のケースをみても分かるように、へたな融合を図るよりも内部で完全に棲み分けすることが得策となる(例:人事の「たすきがけ」)。つまり、合併のシナジー効果などはもともと期待できないのである。こうした傾向は最初から互いの業務関連性の薄い官庁が合併した総務省や内閣府においては更に強いであろう。

こうした統合の更なる問題点としては、合併する前であれば省庁の利害の対立は公になるのと同時にそれは旧大蔵省主計局や官邸の調整などを通じて解決されてきたが、統合後は、そうした対立が1つの省庁で内部化されることが挙げられる。内部化された場合、確かに意思決定のスピードは上がるかもしれないが、強力な調停者が存在せず、また、利害対立も表には出ないため、利害対立は不透明かつ非効率的な形で解決される可能性も高い(局間の結託や談合)。

以上をまとめると、今回の中央省庁改革は、旧大蔵省から金融部門が分離されたことは上記の理論フレーム・ワークからはプラスに評価できるが、いくつかのメガ官庁の出現は望ましい方向からすればまさに逆行しているといわざるを得ない。組織を分離し、組織の「使命」を明確化させることは組織の存在意義を問い直すことにも役立つ。組織を分離すれば、大臣や次官の数が増えて官僚の「焼け太り」につながるという議論もしばしば聞かれるが、統合にまつわるさまざまなコストの大きさを考えればいかに取るに足らない議論であるかが判ろう。中央省庁再編においては、それぞれの省庁が組織防衛のために膨大な資源を投入した。そのため、霞ヶ関の政策決定の場において重要な時期に大きな「空白」を作ってしまったことは否めない。再編の多くが組織の統合になってしまったことは将来に大きな禍根を残したといえる。しかし、組織の統合ラッシュは、省庁のみならず、銀行も含め民間の広範な分野に起こっている。こうした統合ブームはいかに評価できるであろうか。次回のエコノミクス・レビューで考えてみたい。

2002年2月28日

2002年2月28日掲載

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