中国経済新論:中国の経済改革

中国における権威主義体制の光と影
― 権力と資本を如何に制約するかが課題 ―

関志雄
経済産業研究所

中国は1970年代末に改革開放に転換してから、年平均9.9%の高成長を遂げた。その「成功」の経験を「中国モデル」として総括する際、「ワシントン・コンセンサス」と対峙する「北京コンセンサス」のように、多くの場合、「中国的特色」が強調されている。しかし、政治面における一党独裁と経済面における市場経済の活用という点に注目すると、「中国モデル」と1980~90年代まで、韓国、台湾、インドネシアなどのアジア諸国が採っていた「開発的独裁」と呼ばれるようになった権威主義体制との共通点が浮かんでくる。

中国式の権威主義体制の下では、政府は国民の政治参加に対する厳格な規制を敷くことで、政治安定を実現し、国内外企業の投資に有利な環境を作り出した。同時に、投資の拡大と無限に近い廉価な労働力とがうまくかみ合って、輸出をテコに高成長を遂げた。その一方で、政府の権力と企業の資本の暴走を防ぐ仕組みが欠如しているため、所得格差の拡大と、それに伴う労資の対立と官僚と大衆の対立が招かれ、労働者のストと集団暴動が頻発している。社会を安定化させるために、中国は民主主義体制への移行が求められている。

全体主義体制から権威主義体制へ

中国は、1949年に共産党政権が樹立されてからの30年間、全体主義体制下にあったが、1978年に改革開放に転換したことをきっかけに権威主義体制に移行した。権威主義体制は、政治権力の集中度、権力と自由の関係、統治の方法、イデオロギー、政権の正当性などの面において、全体主義体制と民主主義体制の中間に位置づけることができる(表)。

表 全体主義と民主主義の中間に位置づけられる権威主義体制
表 全体主義と民主主義の中間に位置づけられる権威主義体制
(出所)筆者作成

全体主義体制下の中国では、政府の影響力は社会の隅々まで浸透し、個人の自由が厳しく制限された。毛沢東が独裁者として君臨し、彼に対する個人崇拝も行われた。共産主義という一種の平均主義的なユートピアを目指すイデオロギーや、共産党による一党統治、高度な社会動員が社会を統合する基盤となっていた。しかし、「大躍進」や「文化大革命」など、政治運動が絶えない中で、経済が疲弊してしまった。

共産主義の実験は失敗であったことが明らかになるにつれて、改革の機運が高まった。特に、毛沢東が1976年9月に亡くなってから2年あまり経った1978年12月に、鄧小平の主導の下で中国共産党第11期中央委員会第三回全体会議が開催され、これをきっかけに、中国は経済建設を中心とする「改革開放路線」に転換し、事実上、全体主義体制に別れを告げ、権威主義体制に移行したのである。

権威主義体制の下で、中国共産党は依然として政治権力の独占を堅持しているが、従来の全体主義体制とは違い、国民生活のすべての面に対する統制が行われることはなくなった。たとえば、経済活動や個人に対する統制が緩やかになり、イデオロギーが日常生活から消え、大規模な大衆運動も発動されなくなった。また、対外開放政策を実施し、積極的にグローバル化を進めた。共産党は一党統治を維持すると同時に、市場化改革と対外開放を推進することを通じて、経済発展を目指すようになったのである。鄧小平が提示した「一つの中心(経済建設)、二つの基本点(改革開放の推進と、四つの基本原則[社会主義の道、人民民主独裁、共産党の指導、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想の堅持])」という「党の基本方針」はまさに中国における権威主義体制の真髄を表していた。

高成長をもたらした権威主義体制

権威主義体制下の中国では、国民の政治参加が厳しく制限されていることで、政治の安定が維持され、国内外企業の投資に有利な環境が作り出された。同時に、投資の拡大と無限に近い廉価な労働力とがうまくかみ合って、輸出をテコに高成長を遂げた。中国は、低い政治参加と投資の拡大を組み合わせた発展戦略で、「低い生活レベル→低い貯蓄率→投資の低迷→低い生産性→低い生活レベル」という後発国家が直面する悪循環を、「投資の拡大→高い成長→生活レベルの向上→高い貯蓄率→投資の拡大」という好循環に転換させることに成功し、高成長を遂げたのである(蕭功秦、『中国的大転型』、新星出版社、2008年)。

中国における権威主義体制は、次の特徴を持っている。

まず、中国の経済改革は、特定のイデオロギーよりも、鄧小平が主張している「黒猫白猫論」(注)に象徴される現実主義に基づいたものである。それゆえに、冷戦の終焉を受けて東欧やロシアが進めた「ビッグバン・アプローチ」の代わりに、「実験から普及へ」、「部分的改革から全体的改革へ」、「易しいものから難しいものへ」、「旧体制の改革よりも新体制の育成に力を入れる」、「目標は調整しつつ次第に明確化させる」などに特徴づけられる、漸進的アプローチが採られている。

また、中国の経済発展は発展志向を持つ強大な政府によって導かれている。政府は、政治とマクロ経済の安定に努め、広範にわたる国内改革を行う。改革の立案と実施の担い手となる官僚たちは、能力やパフォーマンスを基準に選抜される。政府は、議会に制約されることなく、強制力を伴う資源の動員力を利用し、経済発展の基盤となる都市、空港、高速道路、ダムなどのインフラを積極的に整備してきた。

さらに、中国は近代化に向けて、先進国の経験を参考した。実際、中国政府は経済運営において、市場、企業家精神、グローバル化と国際貿易の重視など、ワシントン・コンセンサスの基本原則を採用している。しかしその一方で、一部の基幹産業に対する保護と一部の新興産業に対する援助を行い続けている。

これらの政策によってもたらされた目覚ましい経済発展は、共産党政権に新たな正当性を与えている。まさに鄧小平が指摘しているように、「改革・開放の成果がなかったら、われわれは「六・四」(天安門事件)という関所を突破できなかっただろう。突破できなければ混乱が生じ、混乱すれば内戦になっただろう。「文化大革命」は内戦にほかならなかった。「六・四」以後、わが国が安定を保てたのはなぜか。ほかでもなく、われわれが改革・開放を行い、経済の発展を促進し、人民の生活を改善したからだ。」(「武昌、深嘳、珠海、上海などでの談話の要点(1992年1月18日~2月21日)」、『鄧小平文選1982-1992』、テン・ブックス、1995年、p.372)。

権威主義体制の限界

権威主義体制は改革開放の初期における政治の安定と経済の発展に大きな役割を果たしたが、改革開放が進むにつれて、権力の腐敗と貧富の格差といった構造的問題が次第に顕在化してきた(蕭功秦、前掲書)。

まず、権威主義体制下の低い政治参加は権力の腐敗を助長している。権威主義体制は国民の政治への参加を制限することを通じて、改革の初期段階の政治的安定を保つことができる。しかし、有効な監督体制が欠如しているため、政府の権力者層と企業の経営者層の腐敗は避けられない。特に経済の市場化過程において、官僚が金銭の誘惑に晒される機会が増える中で、腐敗が急速に増えてきた。これに対して、国民の不満が噴出したが、一部の執政者、特に一部地方の官僚たちは自分たちの非合法的な利益を守るために、「政治的安定」を口実に、国民による官僚への批判や腐敗の告発を反体制の行動とみなし、これを弾圧しようとする。その結果、国民の政府への信認が低下している。

また、低い政治参加は貧富格差の拡大を招いている。希少資源(権力、富、地位と名声など)を握っている人はますます豊かになる一方で、資源を持たない人々は経済発展の恩恵から疎外されている。挫折感を覚えた彼らの中の一部が暴力を伴う反社会的行動に走ってしまう。

端的に言えば、中国が直面している多くの問題の根源は、「権威主義+市場経済」に特徴付けられる現体制下では、政府の権力と企業の資本の暴走を防ぐ仕組みが欠如していることにある。これは、労資の対立と官僚と大衆の対立を招いており、日増しに数が増え、規模が拡大していく労働者のストと集団暴動はまさにこれらの対立がますます激化していることの現れである。

権威主義体制から民主主義体制へ

これらの問題を解決し、社会の安定を維持するために、政治改革が必要である。多くの新興国が経験したように、中国も民主主義体制への移行を迫られている。

1970年代中期以降、民主化の「第三の波」と呼ばれた権威主義体制から民主主義体制への移行という流れが世界的範囲で加速した(Samuel P. Huntington, The Third Wave: Democratization in the Late Twentieth Century, University of Oklahoma Press, 1991.坪郷實・中道寿一・藪野祐三訳『第三の波―20世紀後半の民主化―』、三嶺書房、1995)。アジアにおいても、フィリピン、台湾、韓国、タイ、インドネシアなどが、相次いで権威主義体制から民主主義体制に移行した。中でも、次の分野における変化が顕著である。

まず、政治体制の制度化が次第に向上し、憲法の権威が高められた。与野党間の政権交代が行われ、政治運営においては法律が重視されるようになった。その上、1986年のフィリピン、1992年のタイ、そして、1993年の韓国のように、軍事政権は文民政権に移行し、政治における軍隊の役割は次第に弱まった。

また、一党制の代わりに、競争的選挙を前提とする多党制が確立された。たとえば、台湾において、1980年代半ばから「党禁」(政党の新規結成禁止)が解かれた。また、韓国においても金泳三、金大中らは相次いで野党から立候補し、大統領に当選した。

さらに、議会は名実ともに社会の各種の利益団体の代表者たちの議論の場となった。その結果、行政府の権力が制限されるようになり、立法府の地位が高まった。

アジア各国が権威主義体制から民主主義体制へ移行したこのような経験は、まさに中国が目指すべき方向性を示している。

1980年代後半の中国において、権威主義体制の是非を巡って論争が起きたが、それを支持する論者たちは、権威主義体制を、全体主義体制から民主主義体制への移行期に適する体制だと考えていた(BOX参照)。彼らは、全体主義体制を市場化を通じて権威主義体制に変えることができ、更なる改革の推進を通じてそれを民主主義体制に変えることもできるという仮説を提示した。当時の代表的権威主義論者の一人で、胡耀邦と趙紫陽のブレインでもあった呉稼祥氏が後に振り返っているように、「今までの改革は、すでにこの仮説の前半の部分を証明しており、これからの改革は後半の部分を証明できるかに期待したい」(呉稼祥、「新権威から民主へ」、SOHO小報、2008年第二期、http://blog.sina.com.cn/s/blog_489808d2010098nr.html)。現に、中国では、権威主義体制下の目覚しい経済発展は、国民の教育水準の向上や、中産階級の形成、価値観と利害関係の多様化、法制度の整備などを通じて、民主主義体制へ移行するための前提条件を創出してきている。

BOX 1980年代後半の中国における権威主義体制の是非を巡る論争

中国では、1980年代後半に、民主化の加速などの政治体制改革を通じて経済体制改革を推進すべきか、それとも政府、中でも中央政府の権威を強化することで市場化改革を加速させるべきかを巡って、「権威主義者」と「自由主義者」の間で大論争が起きていた。(中国では、従来の全体主義のことを「権威主義」、権威主義のことを「新権威主義」と呼ばれているが、ここでは、本文の議論との整合性を取るために、「新権威主義」という表現を使わない。)

権威主義者によると、社会の安定を維持しながら、計画経済から市場経済への移行と経済発展を実現するために、権威主義体制は他の体制と比べて最も優れているという。民主主義体制は、市場経済や、私有財産、多様な利害関係、市民社会、法治などを前提条件としており、権威主義体制は民主主義体制にこのような条件を与えるものである。民主化に取り組む際、全体主義体制から権威主義体制へ、さらに、民主主義体制へという順で進めていくべきである。この順序を無視し、一気に権威主義体制の段階を飛び越えて、民主主義体制に移行しようとすると、社会が不安定化する恐れがあるという。

権威主義者のこのような考え方に対して、自由主義者は、次のような疑問を投げかけた。まず、権威主義体制は権威を個人に与えることで、「人治」に正当性を提供している。また、個人の権威を強調しすぎると、全体主義体制の復権につながる恐れがあり、権力の乱用と腐敗問題の深刻化をもたらす。自由主義者たちは、権威主義体制の代わりに、経済体制改革と同時に、普通選挙制、三権分立、議会民主ないし多党制の実施など、積極的に政治体制改革と民主化を推進しなければならないと提案している。

このように、自由主義者は、個人の権利、民主化を強調し、一方の権威主義者は、秩序と権威を強調している。しかし、中国は最終的に民主主義体制の確立を目指すべきという点については、双方の間に根本的な相違は存在しない。違いは、それを短期目標にすべきか、それとも長期目標にすべきかである。

2010年7月30日掲載

脚注
  • ^ 白猫でも黒猫でも、ねずみを捕る猫が良い猫だ。資本主義か社会主義かという手段にこだわるのではなく、結果的に経済発展に結びつけばよいとする考え方。
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2010年7月30日掲載