中国経済新論:中国の経済改革

問われる鄧小平路線の功罪
― 社会主義初級段階論を超えて ―

関志雄
経済産業研究所 コンサルティングフェロー

「白猫でも黒猫でも、ねずみを捕る猫が良い猫だ」鄧小平

鄧小平路線とは

中国における改革開放は、鄧小平の主導の下で、1978年12月に行われた中国共産党第11期中央委員会第三回全体会議(三中全会)から始まった。それ以来、中国は、政治の面では共産党の一党独裁を維持しながら、経済の面では市場メカニズムや民営企業など、資本主義的要素を積極的に導入した。この戦略が功を奏し、中国経済はそれまでの低迷から脱出し、年平均10%に近い高成長を遂げてきた。その間、改革開放は、1989年の天安門事件を受けて一時停滞したが、1992年の鄧小平の「南巡講話」(「武昌、深圳、珠海、上海などでの談話の要点」、1992年1月18日~2月21日)をきっかけに再び加速した。1997年2月19日に鄧小平が亡くなったが、「鄧小平理論」は、同年9月に開かれた中国共産党第15回全国代表大会(党大会)において党規約に盛り込まれ、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想とともに中国共産党の指針となり、それに基づく鄧小平路線が、いまも受け継がれている(注1)。鄧小平没後10周年、南巡講話15周年を機に、中国経済のその後の変化を踏まえて、鄧小平路線の功罪を検討する。

中国共産党の規約では、鄧小平理論は、「マルクス・レーニン主義の基本原理を現代中国の実践および時代の特徴と結びつけた産物である」とされているが、その内容は、次のように要約することができる。すなわち、中国が生産力をはじめ、まだ後れている発展途上国である(「社会主義の初級段階」にある)という「環境」を前提に、「経済建設」という「目標」を遂げるためには、「改革開放」と「四つの基本原則」の堅持という「手段」を活かさなければならない(図1)。「経済建設」と、「改革開放」と「四つの基本原則」は、合わせて「一つの中心、二つの基本点」と呼ばれ、「社会主義の初級段階」における共産党の基本路線となっている。

図1 鄧小平理論・戦略の体系
図1 鄧小平理論・戦略の体系
(出所)筆者作成

戦略環境:社会主義の初級段階という中国の国情

本来、マルクスの考え方では、工業化が進み生産性がすでに高いレベルに達することは社会主義に移行する国に必要とされる条件である。しかしながら、ロシアにしても中国にしても高度工業化社会を経ておらず、生産性が非常に低いまま、社会主義を目指すことになったのである。改革開放の時点に至って、鄧小平は大躍進や文化大革命時に行なわれた「左」の政策に対する反省に立って、まだ社会主義の初級段階にある中国としては、まず生産性を向上させてから、社会主義の高級段階とも言うべき本格的な社会主義を目指すべきだという考え方に改めた。

具体的に、1987年8月29日に鄧小平は「社会主義そのものは共産主義の初級段階だが、わが国は社会主義の初級段階にある。何事もこの現実に立って、この現実に基づいて計画を立てなければならない」と指摘した(1987年8月29日)(注2)。これを受けて、その二ヶ月後に開催された第13回党大会において、趙紫陽総書記(当時)は、「社会主義初級段階論」について、「中国の社会主義は半植民地半封建社会から生まれたもので、生産力のレベルは先進資本主義国よりもずっと後れている。したがって、中国はかなり長期にわたる初級段階を経て、他の多くの国が資本主義の条件の下で成し遂げた工業化と生産の商品化、社会化、現代化を実現しなければならない。」と述べた。「社会主義初級段階論」の提起により、社会主義が遠い将来の「理想」として棚上げされる一方、資本主義的要素の導入が正当化されたのである。

戦略目標:経済建設

鄧小平は、1978年の三中全会において、文化大革命の階級闘争を軸とする路線を否定し、経済建設を軸とする路線に転換した。それ以来、「発展こそ硬い道理だ」(発展才是硬道理)という有名な言葉に象徴されるように、一貫して、経済建設を最優先課題と位置づけてきた。南巡講話において、「社会主義の本質は生産力を解放し、発展させ、搾取と両極分化をなくし、最終的にはともに豊かになることである」とした上、「資本主義のものか、それとも社会主義のものか…を判断する時、主として社会主義社会の生産力の発展に有利かどうか、社会主義国の総合国力の増強に有利かどうか、人民生活水準の向上に有利かどうかをその基準とすべきである」という認識を示した。

(1)生産力重視
その中でも、次の発言のように、鄧小平は生産力の発展を最も重視した。

「我々が言う社会主義とは共産主義の第一段階であり、共産主義の高次のレベルでは、各人が能力に応じて働き、必要に応じて分配を受けることが実現される。そのためには、社会的生産力が高度に発展し、社会の物質的富が極めて豊富になることが求められる。したがって、社会主義の最も根本的任務は生産力を発展させることにほかならない。社会主義の優位性は、結局、その生産力が資本主義に比べてより速く、より高く発展することにあり、また発展した生産力の土台の上で人民の物質的、文化的生活を次第に改善することにある。もし建国後、われわれに欠陥があったとすれば、生産力の発展に対し、ある種の軽視をしたことであろう。社会主義は貧困を根絶する。貧困は社会主義ではなく、ましてや共産主義ではない。」(1984年6月30日)。

生産力を語る際、鄧小平は「経済発展を速めるには、科学技術と教育に頼らなければならない。私は、科学技術が第一の生産力と言っている。」(南巡講話)と強調した。

(2)共同富裕論
「一部の人、一部の地域が先に豊かになれ」という鄧小平の「先富論」は有名だが、これは、「一部の人、一部の地域が先に豊かになることによって、最終的に共に豊かになる」ことを目指す「共同富裕論」の一部にすぎない。

実際、鄧小平は、「南巡講話」において、「先富」から「共同富裕」への道筋について、次のように述べた。

「社会主義の道を歩むのは、ともに豊かになることを逐次実現するためである。ともに豊かになる構想は次のようなものである。つまり、条件を備えている一部の地区が先に発展し、他の一部の地区の発展がやや遅く、先に発展した地区が後から発展する地区の発展を助けて、最後にはともに豊かになるということである。もし富めるものがますます富み、貧しいものがますます貧しくなれば、両極分化が生じるだろう。社会主義制度は両極分化を避けるべきであり、またそれが可能である。解決方法の1つは、先に豊かになった地区が利潤と税金を多く納めて貧困地区の発展を支持することである。もちろん、それを急ぎすぎたら失敗してしまう。いまは発展地区の活力を弱めてはならず、「大釜のメシ(悪平等)」を奨励してもならない。いつこの問題をとりたてて提起し、解決するか、どのような基礎の上で提起し解決するかは検討する必要がある。今世紀末にまずまずの水準に達したとき、この問題をとりたてて提起し、解決することが考えられる。その時になれば、発展地区は引き続き発展し、利潤と税金を多く納め、技術を移転するなどの方式で未発達地区を大いに支持すべきである。未発達地区はたいてい資源に恵まれており、発展の潜在力は極めて大きい。要するに、全国的範囲に考えて、われわれは必ず沿海と内陸部の貧富の格差という問題を一歩一歩スムーズに解決できる。」

(3)現代化に向けての「三つのステップ構想」
1987年に鄧小平は、現代化という目標に向けて三つのステップ構想を打ち出した。同構想は、第一のステップとして1990年には一人当たりGDPを1980年から倍増させ、「温飽問題」(衣食問題)を解決し、第二のステップとして、2000年にそれをさらに倍増させ、「小康水準」を達成し、さらに第三のステップとして21世紀半ばまでにさらに一人当たりGDPを四倍にすることを目標とした。

戦略手段のその一:改革開放の推進

鄧小平は、生産力の向上をはじめとする経済建設という目標を達成するために、何よりも改革に取り組まなければならないと訴えた。改革に際して、従来の計画経済と生産手段の公有制ではなく、資本主義の要素を導入することを基本発想においた。これを根拠にして、その後、「社会主義市場経済」が導入され、私有財産も認められるようになった。

(1)改革開放の必要性
鄧小平は、計画経済の時代の経済建設が失敗したという反省に立って、改革の必要性について、次のように述べた。

「改革をしなければ活路はない。一連のやり方が成功しなかったことは、数十年の実践によって立証されている。以前われわれは他国(ソビエト)のモデルを引き写したが、生産力の発展を妨げ、思想面の硬直化を招き、人民と基層組織の積極性の発揮を妨げた。われわれ自身にもその他の誤りがあった。例えば、「大躍進」や「文化大革命」は他の国のモデルを引き写したものではない。1957年以降、われわれは主として極左の誤りを犯したが、「文化大革命」は極左である。中国の社会は、1958年から1978年までの20年間は、実のところ足踏みと低迷状態におかれ、国の経済と人民の生活にそれほどの発展も向上も見られなかった。このような状況では、改革せずにおられるだろうか。」(1987年6月12日)。

また、対外開放の必要性について、鄧小平は、「歴史の経験を総括して、中国が長期にわたって停滞と立ち後れの状況におかれた重要な原因は、閉鎖的だったことにある。門を閉ざして建設したのでは成功しない。中国の発展は世界から離れられないことを経験が立証している。…対外的に開放し、外国の資金と技術を導入し、われわれの発展を手伝ってもらう必要がある。」と述べた(1984年10月6日)。

(2)市場経済と私有財産といった資本主義的手段の活用
毛沢東の時代において、社会主義は、「計画による資源配分」、「国有企業を中心とする公有制」という二本の柱からなるものであり、「市場による資源配分」、「私有財産」に特徴付けられる資本主義と相反するものであると認識されていた。これに対して、鄧小平は、前述の「社会主義の本質論」や、「三つの有利論」、「社会主義初級段階論」などを根拠に、「計画か市場か」、また「公有制か私有制か」は、社会主義と資本主義を区別する基準にはならないと主張し、市場メカニズムと私有制の導入に正当性を与えた。

とくに、南巡講話において、「計画が多いか、それとも市場が多いかどうかでは、社会主義と資本主義の本質的な区別にはならない。計画経済イコール社会主義ではなく、資本主義にも計画はある。市場経済イコール資本主義ではなく、社会主義にも市場がある。計画と市場はどちらも経済手段である。」と指摘した。これは、1992年10月に開催された第14回党大会において「社会主義市場経済」が体制改革の目標として確立される決め手となった。

戦略手段のその二:四つの基本原則の堅持

鄧小平は、経済の面では一貫して積極的に自由化を進めたのとは対照的に、「四つの基本原則の堅持」に象徴されるように、政治改革には消極的であった。ここでいう四つの基本原則とは、「社会主義、人民民主主義独裁、共産党の指導およびマルクス・レーニン主義と毛沢東思想の堅持」のことである。これは、彼が心から共産主義を信奉しているというよりも、経済建設の前提条件となる政治の安定を保つためには、共産党による一党独裁を維持することの必要性を認識していたからであろう。

実際、西側諸国をモデルとする政治改革の推進について、鄧小平は、「われわれのような大国、人口がこんなに多く、また地域間が不均衡になっており、その上、こんなに多民族のところでは、上部のクラス(中央のレベル)の直接選挙を行なう条件は現在まだ熟していない。まず、(国民の)文化的素養がダメである」(1987年6月12日)ことを理由に、反対している。また、アメリカのカーター大統領と会見した際にも、「もし中国が貴国の複数政党制や三権分立といったやり方をそのまま持ち込むならば、必ず動乱を招くことになる。今日はこちらで一部の人々の、明日はあちらの人々のデモが行なわれたら、10億の人口を有する中国では、一年365日間毎日騒ぎが起こることになる。そうなれば、やっていけるはずがない。建設のエネルギーもなくなってしまう。」(1987年6月29日)と慎重論を繰り返した。

もっとも、鄧小平は、政治改革の必要性を完全に否定したわけではない。1978年には、「人民民主を保障するために、指導者と、指導者の考え方と関心が変わっても、制度と法律が変わらないように、法制を強化し、民主を制度化し、法律化しなければならなければならない。」と述べた(1978年12月13日)。また、1986年に、彼は、「我々は改革を打ち出した時、そこに政治体制の改革も含めた。いま、経済体制改革で一歩前進するごとに、政治体制改革の必要なことを痛感している。政治体制を改革しなければ、経済体制の成果を保証することはできず、経済体制改革を引き続き前進させることもできないので、生産力の発展が妨げられ、四つの現代化の実現も妨げられるだろう。」と指摘した(1986年9月3日)。しかし、その内容に関しては、指導部幹部の若年化を通じて党と国家の活力を維持すること、官僚主義を克服し、仕事の効率を高めること、そして、分権化によって、基層組織や労働者、農民、知識層の積極性を引き出すことにとどまっていた(1986年11月9日)。

鄧小平は晩年、特に1989年の天安門事件と90年代初めのソ連の崩壊を受けて、政治主張がますます保守的になった。南巡講話では、「改革開放の全過程では、終始四つの基本原則の堅持に留意しなければならない」、「プロレタリアート独裁に頼って社会主義制度を守ることは、マルクス主義の基本的観点である」、「人民民主主義独裁の力を運用して人民の政権を強固にすることは正義であり、道理のうえで負けることはない」など、共産党による一党独裁の必要性を繰り返し強調した。

改革開放の新段階:社会主義初級段階論を超えて

鄧小平は、改革開放当初、「もしも資本主義の道を歩むのなら、中国の数%の人を豊かにすることはできても、90数%の人に豊かな生活をさせるという問題を解決することは絶対にできない。しかし、社会主義を堅持し、労働に応じた分配という原則を実行するなら、貧富の極端な格差は生まれない。あと20年、30年経って、わが国の生産が発展しても、両極分化は起こらないだろう。」と述べた(1984年6月30日)。

しかし、20年以上経った現在の中国では、「農村」と「都市」、「西部」と「東部」、「貧困層」と「富裕層」の間で、所得の二極分化が進んでいる。このような状況は、鄧小平路線を徹底した結果であるか、それとも徹底できなかった結果なのかについては、意見が分かれているが、中国の現状が、鄧小平が想定した社会主義の初級段階よりも、資本家階級と無産階級が同時に創出される「原始資本主義の段階」に類似している点については、もはや議論の余地がない。特に沿海地域における、内陸部の出稼ぎ労働者の「搾取」の上に成り立っている工業化や、土地の実質上の私有化と集中化(土地の囲い込み)がもたらしている住宅建設ブームは、まさに資本主義形成期のイギリスを思わせる風景である。

中国が「社会主義の初級段階」よりも「原始資本主義の段階」にあるとすれば、その目指すべき目標は、社会主義の高級段階ではなく、成熟した資本主義であることは明らかである(注3)。成熟した資本主義は、市場経済と私有財産はもとより、所得の再分配による貧富の格差を是正するための制度の整備と、法治と民主化を前提としている。中国としては、「先富論」から「共同富裕論」に前進しながら、「四つの基本原則」の放棄を視野に、政治改革に取り組まなければならない。

2007年3月30日掲載

脚注
  1. ^ 共産党の規約では、鄧小平の功績を次のように称えている。「第11期三中全会以来、鄧小平同志を主な代表とする中国の共産主義者は、建国以来の成功と失敗の両方の経験を総括し、思想を解放し、実事求是を旨として、全党の活動の中心の経済建設への移行を実現し、改革開放を実行し、社会主義事業の発展の新たな時期を切り開き、中国の特色のある社会主義を建設する路線、方針、政策を逐次形成し、中国で社会主義を建設し、社会主義を強固にし、発展させる基本問題を解明し、鄧小平理論を打ち立てた。鄧小平理論はマルクス・レーニン主義の基本原理を現代中国の実践および時代の特徴と結びつけた産物であり、新たな歴史的条件において毛沢東思想を継承、発展させたものであり、中国におけるマルクス主義の新たな発展段階であり、現代中国のマルクス主義であり、中国共産党の集団の英知の結晶であり、わが国の社会主義現代化の事業を絶えず前進させるように導いている。」
  2. ^ 鄧小平の発言の引用は、『鄧小平文選』(全三巻、人民出版社)に拠る。和訳に際しては、『鄧小平文選1982-1992』(テンブックス、1995年)を参考にした。
  3. ^ 元中国社会科学院経済研究所の董輔?所長(1927-2004)は、1997年に発表した論文の中で、「社会主義初級段階論」に異議を唱えている(「社会主義市場経済と国有企業改革」、『唯実』、1997年3-4期)。すなわち、中国はまだ生産力が後進的である社会主義の初級段階にあるため、市場経済を実施せざるをえないという考えに従えば、中国は生産力が向上し、初級段階を過ぎると、再び計画経済にもどらなければならないという結論が導かれることになる。このようなロジックは明らかに間違っている。経済が発展し、社会分業がますます複雑かつ細かくなり、国と国の経済関係がますます緊密化すると、市場経済もますます発達するため、再び計画経済に戻ることはあり得ないという。

2007年3月30日掲載