中国経済新論:中国経済学

分権化と法治を提唱する銭頴一

関志雄
経済産業研究所 コンサルティングフェロー

「法治の最初の役割とは、政府を制約することにあり、政府による経済活動への任意的介入が制約の対象となる。法治の第二の役割は経済人を制約することにあり、それには、所有権の確定と保護、契約と法律の執行、公平な裁判、市場競争の維持が含まれている。」

銭頴一、「市場と法治」、『経済社会制度比較』、2000年、第3期

はじめに

銭頴一は、1956年に北京で生まれた。1977年清華大学数学部に入学し、1982年に米国に留学した。1990年ハーバード大学にて経済学博士号を取得し、1990年から1999年スタンフォード大学の助教授、1999年から2001年メリーランド大学経済学部教授、さらに2001年カリフォルニア大学バークレー校経済学教授。2002年に清華大学経済管理学院の特別招聘教授として迎えられ、2006年10月に同院長に就任した。銭頴一は国際経済学界における移行期の経済学と比較制度経済学を研究する学者の代表であり、世界トップの学術誌で多くの論文を発表している。主な研究テーマは、組織と制度経済学、移行経済学および中国の経済改革と発展である。

数学から経済学への転向

北京で生まれ育った銭頴一は、文化大革命の時、8年間近くの時間を農村で過した。最初の4年間は親の下放に伴い農村に赴き、高校を卒業してからは、知識青年として自ら農村へ赴いた。そのため、大学入学前に社会、特に農村との接触があった。70年代末から80年代初頭にかけ、中国の国内の大学を経て海外へ留学した学者の中には、銭頴一のような経歴を持つ者が多くいた。

1977年11月、銭頴一は文化大革命が終わって初めて行われた大学入学試験に参加し、清華大学の数学学部に合格した。1978年3月に入学し、「77年組」の一員になった。77年組とは、大学の統一入試が中止となった1966年から1977年までの12学年から構成される特別な学年で、銭頴一の同級生は15才から30才と幅広く、年齢差が倍もある学生もいた。

指導教官の一人の戴新生教授は、60年代に台湾から米国へ留学し、70年代初頭からは北京の中国科学院数学研究所に勤めた。銭頴一は戴教授に高等代数、微分幾何を学んだが、用いられた教材は米国の教材であった。1980年、当時、最も優秀な華人数学学者であり、戴教授の恩師でもある、カリフォニア州大学バークレー校(UCB)の陳省身教授が北京大学の招きを受けて北京大学で微分幾何の授業を行った際、銭頴一はそれを聴講した。陳省身教授の授業で銭頴一は優秀な成績を修め、戴教授に推薦されて、米国の大学へ留学するための全額奨学金を清華大学に申請し、清華大学の早期卒業が認められ、1981年10月に渡米した。

渡米後の最初の1年間は、コロンビア大学の統計学部で学び、数理統計学修士の学位を取得した。翌年1982年9月、エール大学のマネジメント・スクールに移り、オペレーションズ・リサーチと管理科学の博士課程に入った。エール大学での2年間は、経済学部博士課程一年のミクロ経済学、マクロ経済学と計量経済学など基礎課程と専門課程を受講し、現代経済学に興味を持ち始めた。当時はちょうど中国の経済改革が幕を開けた時期であった。自身の数学基礎と中国改革への関心が結びつき、経済学に方向転換する動機となったのである。当時、銭頴一は博士論文を除いて、エール大学マネジメント・スクールでの博士資格試験をすべてクリアしていたが、それでも経済学へ方向転換の決意は変わらなかった。

1984年に銭頴一はハーバード大学経済学博士課程に入学した。80年代後半、ハーバード大学経済学部に在籍する中国人留学生はピーク時には十数名にも上った。その中には、後に各界で活躍している鄒恒甫(Zou Hengfu、世界銀行)、許成鋼(Xu Chenggang、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス)、李稲葵(David, Li Daokui、清華大学経済管理学院)、王一江(Wang Yijiang、ミネソタ大学)、白重恩(Bai Chongen、清華大学経済管理学院)、胡祖六(Fred, Wu Zulu、ゴールドマンサックス証券)が含まれている。同じ時期に、茅于軾、樊綱が相次いでビジティングフェローとしてハーバードに滞在し、中国人学者の間で盛んな交流が行われていた。

ハーバード大学博士課程在学中、銭頴一は比較経済制度と中国で進行中の経済改革に強い興味を持つと同時に、自身の数学基礎から経済理論における研究をすることも望んだ。この2つは自然に接びつき、銭頴一は制度改革理論の研究を始めた。銭頴一の指導教官は、ハンガリー人で、社会主義国経済体制研究の権威であるヤーノシュ・コルナイ(Janos Kornai)教授、経済理論、特にメカニズム設計とゲーム理論の研究における大家であるエリック・マスキン(Eric Maskin)教授、スペイン人で、一般均衡理論研究のトップ、現在米国博士課程一年生高級ミクロ経済学で使われる教材「ミクロ経済学」の執筆者の一人であるアンドリュー・マスコレル(Andreu Mas-Colell)教授の三人であった。銭頴一は、博士論文において、ゲーム理論を使って、コルナイ教授がはじめて提出したソフトな予算制約(国有企業が赤字になっても政府によって補填されるという社会主義経済で一般的に見られる仕組み)と物不足の関係を理論的に解明した。

1990年にハーバード大学の経済学博士学位を取得してから、銭頴一はスタンフォード大学、メリーランド大学、カリフォニア州大学バークレー校で通算10年以上にわたって教鞭を取った。その間も、彼は中国国内の経済学界と密接な関係を保ち、研究プロジェクトや学術活動への参加などで殆んど毎年のように帰国した。

米国の大学での仕事は教学と研究である。銭頴一が行う授業は主に契約と組織理論、ゲーム理論と情報経済学を含むミクロ経済学、東欧や中国の改革を含む体制移行及び制度経済学であった。1990年以降、東欧とソ連では大きな変化が生じ、全般的に市場経済へ移行し始めた。それと並行して、銭頴一は現代経済学の理論を応用して、中国における制度の変遷を分析し、提言を行ってきた。中でも、地方分権の役割と法治の重要性が焦点となった。

政府の地方分権化改革

銭頴一は、改革開放以来の中国における高成長の原動力を分権化に求めている。中国の憲法には、中国が中央集権国家であることは明記されているが、実際には中央政府と地方政府の関係は、多くの面で連邦国家の機能に近い。

早くも1979年に中国は中央から地方への政府の権限の委譲を開始した。地方政府はそれぞれの地域にある国有企業の約4分の3を管轄し、国家の半分以上の固定資産投資を行っている。郷と村レベルの地方政府は、郷鎮企業を直接管理し、地方経済の統制機関として、企業の事業認可書を発行し、地方の産業発展を調整し、経済紛争を解決し、租税政策に関与した。また、地方政府は地方の歳出構成を決定する権限も有し、学校、医療、公益施設などの地方公共財を提供する責任を負い、特に地域内への外資導入について重要な役割を果たした。

従来の連邦制度に関する理論では、地方分権化によってもたらされた情報面のメリットが強調されていた。地域に密着している地方政府は、情報が入手しやすく、地域内消費者の嗜好をよく把握しているため、地方公共財の提供においては、中央政府よりも有利な立場にあるとされる。実際、中国の改革アプローチの顕著な特色の一つは地域内における実験であるが、これはまさに地方分権化によって可能となった。改革は不確実性が高く、改革についての知識も非常に限られているため、実験を行うことは有益である。改革には既成の青写真がないのが普通であり、仮にそのような青写真が存在するとしても、その実施にはなお多くの問題が伴う。高度な不確実性が存在する場合、実験はコストを最小化する方法となる。中国における農業改革、農村部の請負制の導入はその成功例である。安徽省鳳陽県では、1978年に、従来の人民公社という集団農業方式から、世帯ベースで農業を行う契約を農民と地方政府の間で結ぶ方式に転換した。1984年までには、中国全国のほとんどすべての農業世帯がこの方法を取り入れた。もう一つ有名の例は経済特区に関するものである。1980年代に設置された深?、珠海、汕頭、厦門の四つの経済特区では新しい会計方式、雇用形態、マーケティング手法などが実験され、後ほど他の地区に広げられた。

近年の連邦制度に関する理論は、経済パフォーマンスにおける政府のインセンティブの役割を系統的に研究することによって、伝統的なアプローチの枠を広げている。「市場保護的連邦制度」理論では、規制の権限を中央政府から地方政府に委譲することによって、干渉主義的な中央政府の役割を制限できるとしている。この理論は、地方政府の利益を市場化促進と一致させるために考えられる二つのメカニズムを示している。一つは、生産要素と財が移動可能という状況のもとで地域間競争が行われることで、地方政府の干渉主義を抑制できるということである。もう一つは、地方政府の歳出を当期の歳入と連結させることで、地方政府の意志決定がもたらす結果に自ら直面せざるをえなくすることである。

中国においての地方への権限委譲には、財政上のインセンティブも伴っていたため、地方政府は自らの地方経済の振興に努め、その活性化を図る見返りを得ることができた。1980年から正式の財政収入に関しては、「財政請負制」が導入され、地方政府は一つ上のレベルの政府と長期の(通常は五年間)財政契約を結ぶことになり、「財政請負制」はそれ以前の「大鍋の飯を食う」(吃大鍋飯)と例えられた「統収統支」(国による財政収入と支出の一元管理)システムに取って代わった。多くの地方政府は、税収の増分を100%支配できる「残余請求権者」になった。加えて、地方政府は、上のレベルの政府と分配する必要のない「予算外資金」、また予算プロセスに組み込まれることもない、それ故に記録もされない簿外収入なども得ていた。

銭頴一は、共著者とともに、1982年から1992年までの各省のパネルデータを用いて、中央政府と省政府との関係における地方分権化と財政インセンティブの役割に関して三つの事実を見出している(Hehui Jin, Yingyi Qian, and Barry R. Weingast, "Regional Decentralization and Fiscal Incentives: Federalism, Chinese Style," Journal of Public Economics, September 2005) 。第一に、財政請負制のもとでは、70年代と比較して財政収入の増分と財政支出の増分との間の相関関係が非常に強くになったことが判明した。中国の財政請負制は、地方政府に強力な(限界)財政インセンティブを与えたのである。第二に、一人当たりの予算支出における水平的分配は実際には時を経つにつれて改善されたことが判明した。強力な限界的インセンティブが与えられる一方で、限界の内側では財政収入の再分配が行われたからである。第三に、財政インセンティブが強まるにつれ、非国有企業のより急速な発展、および国有企業の改革の進展(全国営企業の雇用における契約労働者のシェアの急速な増大など)がみられることがわかった。

興味深いことに、中国の地方分権化と財政請負制は、これまで経済学者たちに批判されることが多かった。従来の見解では、経済改革とは、市場自由化および企業や農家の自主権拡大を意味するものであり、政府内部の地方分権化を意味するものではなかった。特に、中国の経済学者の多くは、地方分権化が毛沢東時代の「行政的地方分権化」に類似していると考えたため、地方分権化は改革にとっては誤った方向であると見ていた。地方財政の自給自足性に重点を置いた中国の財政における地方分権は、財政専門家からはおおいに疑問視され、機能不全に陥ると見られていた。これらの専門家は、地方分権化が資源配分を歪め、地域間の不平等をもたらし、中央政府の財政政策を危うくすると確信していた。彼らの批判のなかには正当なものもあるが、地方分権化は地域的実験を可能にし、さらに重要なことには、政府にインセンティブを与えたという点で、経済改革に重要かつ積極的な貢献をしたという点を認める必要がある。

市場経済の前提条件となる法治

市場経済では、政府や、企業などの行為は本質的に利己的で機会主義的なものである。彼らの行為が良い結果を導くように、それらの行為を制約しなければならないと銭穎一は主張している。(「市場と法治」、『経済社会制度比較』、2000年、第3期、および「政府与法治」、『比較』、第五号、2003年)。

企業と個人といった経済人に加えなければならない制約には、少なくとも三つの内容が含まれている。所有権の確定と保護、契約の履行、そして適切な監督である。仮にこれが実現しなければ、経済人の行為は制約されず、市場は無秩序となり、経済人はひたすら自らの利益を求めることになり、人々は互いに不利益を被ることになる。

では、経済人を誰によって制約すればいいのかという問題が出てくる。選択肢の一つは、経済人自身である。経済人は、自らの利益のために秩序を守ることになる。例えば、自らの「評判」に非常に注意している。なぜなら、悪い「評判」は、他人の非協力を招き、利益の獲得に不利となるからである。仮に、ルールや約束を守らないことによって得られる短期的な利益よりも長期的な損失の方が大きければ、経済人は名誉を考慮し、秩序を守る。もう一つは、社会的には明文化されていない制度に当たる慣習である。慣習のなかには、例えば、「信用」があり、それは一種の「社会資本」あるいは共有する信仰となっている。現在の市場経済において、個人の名誉と社会的信用は大きな意義を持っているが、それだけで大量かつ複雑な取引を維持することは非常に困難である。所有権の保護、契約の履行、適切な監督はルールを実行する第三者の存在を要請している。その第三者が政府である。市場の秩序を維持するには、政府の導入は当然のことである。

人々は政府の「番人」としての役割を軽く見る傾向があるが、実際には、政府が市場の秩序を維持することは非常に困難である。所有権の侵害、とりわけ権力者による侵害から保護しなければならないし、契約の履行、とりわけ公正な履行を保障しなければならない。さらに、競争の秩序を保障するために、適切な監督をしなければならない。歴史上での大多数の国家―今日の多くの国々にも当てはまるが―の政府は「番人」の役割を十分に果たさなかったため、経済的に大きな代価を支払うことを余儀なくされた。したがって、政府の役割を最小限に制限したとしても、市場経済がベストな状態になるとは限らないのである。仮に制度的な制約がなければ、経済人はいずれも機会主義者となる。企業経営者は生まれつき偉大かつ高尚であるのではなく、むしろ一連の制度的な制約の下ではじめて、単純に自己の利益のために起こした行動が、客観的に見ても社会的責任を果たすという結果をもたらすのである。

しかし、強大な政府を導入しようとすると、新たな問題が生まれる。すなわち、こうした政府は、その権力を活かし、所有権を保護し、契約を履行し、そして市場に有利であるように監督することが可能であるが、同時に、その権力で所有権を侵害し、契約を不公平的に履行し、さらに市場に不利な規制を導入することも可能となる。人々が政府の権力濫用を恐れる背景には、二つの原因が潜んでいる。一つは、政府が強制力を独占していることである。本来、政府に「番人」としての機能を独占させる目的はコストを節約するためである。しかし、その結果、経済人は自然に政府の脅威にさらされることになる。もう一つは、政府が決して一人からなるものではなく、一つの巨大な組織であるという点である。仮に一部の官僚が公共の利益を考慮しても、あらゆる官僚が同じように行動するとは限らない。

したがって、市場における「見えざる手」の機能を実現するために、市場経済が解決しなければならないもう一つの問題は、政府が必ず何らかの形で制約されなければならないことである。仮に政府が制約されなければ、自ら権力を悪用して利益を追求し、結果的に社会に損害を与えてしまうことになる。政府の行為は非制度的要因、例えば、自らの名誉、イデオロギーならびに技術的条件などによって、制約されることになるが、こうした制約は非常に限定的である。制度を通じて政府を制約することは、現代社会における革新のひとつである。この二つの大きな問題を解決することは決して容易ではない。それは、政府が強過ぎても、弱過ぎても困るというジレンマを反映している。あまりにも弱い政府は最初の問題を解決できないが、あまりにも強い政府は二番目の問題を解決することができない。

経済人に制約を与えるだけでなく、政府が適切な役割を果たせるようにしながら、政府にも制約を与える最も有効な制度が法律に基づいた統治にほかならない。法律は政府を通じて、所有権を保護し、契約を守らせ、市場秩序を維持すると同時に、政府を制約するのである。

もちろん、法治は政府を制約する唯一の方式ではない。民主主義は投票という方式で、少数が多数に服従するという原則に基づき、政府の人員と方案を選ぶことを通じて、政府に対する制約を果たすのである。民主主義の基本原則では、49%の人々は51%の人々の意思に従わなければならない。民主主義の下では、政府の行為は多数派の人々の意思に左右されるのである。51%の人々が49%の人々の財産を奪おうとすれば、所有権が侵害されることになる。法治によって、多数決だけで決定してはならないものが明示されている。

2006年12月27日掲載

関連記事

2006年12月27日掲載