中国経済新論:中国経済学

政府と法治

銭穎一
カリフォルニア大学バークレー校教授

「政府と法治」は拙著「市場と法治」(『経済社会体制比較』2000年第三号)の続編である。市場と法治との関係や、市場経済の評価基準を論じる際、政府は非常に重要な意義を持っている。市場と法治との相互関係において、政府は核心的であると言っても過言ではない。中国の経済発展と改革の目標が「小康社会」の全面的な建設と定められた今、理論的に法治、市場、政府、この三者の関係を深く研究し、市場と法治を背景にした政府の役割の転換を推進することは、単に学者達が関心を持つ問題に留まらず、われわれが直面している現実問題でもある。

一、良い市場経済と悪い市場経済

「良い市場経済と悪い市場経済」という概念は、2000年初め、中国の変化に鑑みて著者が前著にて提示したものである。1970年代末の改革・開放から90年代初めまで、学界は当時、経済における主要な矛盾であった「計画か、それとも市場か」という論争に最も注意を払っていた。理論及び政策論争の焦点は計画経済制度の弊害、成功した市場経済国家と地域の経験、さらに市場経済の潜在的な制度優位性などであった。

90年代になると、こうした情況は大きく変化した。計画経済は全世界において基本的に終結し、しかも最終的に失敗に終わった。前ソ連と東欧諸国は、全面的に市場経済へと移行し、1992年9月に中国も「社会主義市場経済」の建設を正式に決定した。次の問題は、いかにして計画経済から市場経済へと移行するのかということになる。しかし1990年代において、市場経済に対する人々の認識はまだ十分ではなかった。多くの経済問題は、改革が徹底されず、市場経済体制がまだ十分に整備されていないことに由来するという説が最も流行っていた。

しかし、こうした認識は、より深い理論の問題と現実の問題を理解するための妨げになってしまった。世界各国の市場経済を見れば、良い市場経済と悪い市場経済のいずれも存在していることに気づくであろう。良い市場経済では市場経済体制の優位性が現れるが、しかし同時に、成功していない市場経済もたくさんある。従って、われわれは、改革が徹底されていないという問題に留まらず、異なる市場経済の違いをさらに研究しなければならない。このとき、比較経済学が比較の対象に取り上げているのは、各種の市場経済の優劣である。

「良い市場経済と悪い市場経済」という概念に対して、殆どの人々の意見が共通し、そして良い市場経済の形成を望んでいる。しかし、良い市場経済と悪い市場経済を決定づける要因とは何かという問題は、簡単に答えられるものではない。従来の経済成長モデルは、貧しい国々の経済成長率は、先進諸国より高く、最終的にあらゆる国々の収入は同じレベルになることを予測しているが、現実はこれとは異なる。

経済成長の源泉は、二つのレベルに分けて考えることができる。新古典派の発展理論によると、経済成長の直接の源泉が資本と労働の投入、そして技術の進歩に代表される「その他の要素」にあるという。経済成長に関する最初の実証分析では、回帰式に基づいて経済の成長率を資本成長率と労働成長率に分解させ、そしてその残差が、技術の進歩率として見なされた。これはわれわれの経済成長への認識の第一のレベルである。しかし、資本と労働の投入、そして技術進歩を決定する要因はなにか、「その他の要因」には技術進歩の外にどのようなものが存在するのか、こうしたより深い問題が十分説明されていないという欠陥がある。現在、経済学者達は、経済成長(あるいは経済発展のレベル)を決定するこの第二レベルの潜在的要素を次の三つにまとめている。

第一は地理的要因である。ある国あるいは地域がどこに位置するかはその経済発展に影響を及ぼしている。緯度は気候を決め、そして気候は生産環境と人の生産力を決定する。また、地理条件は資源の賦存を決定する。さらに海との距離といった位置関係は運輸コストを決定する。従って、地理と経済発展とは緊密な関係を持っている。地理的要因は、基本的には人為的に変えることができないが、絶対的なものではない。例えば、国家の国境の変化は海港の状況に影響し、また、技術の進歩によって、気候が経済発展に与える影響を変えることになった。例えば、エアコンの発明は、熱帯地域の人々の生産力を大きく上昇させている。

第二は開放要因である。国際貿易と投資は経済発展と関係している。開放は資源の効率的配分だけではなく、新しい思想との交流、新製品と競争の導入を促すことができる。開放は政府の政策にも、地理にも関係している。例えば、地理的に交通の要所に位置する島国は、国際市場と大きく離れた内陸国家より開放には有利である。また、開放の実際の効果は国内制度による制限を受けている。例えば、同じく開放政策を行う国家でも、外資導入に成功する国としない国はそれぞれあるが、その原因は国内制度の環境の違いによるものであると考えられる。

第三は制度要因である。広義での制度には、正式と非正式のルールが含まれる。こうしたルールは人々の行為を制約し、人々のインセンティブに影響を与え、そして資源配分の効率性に影響するゆえに、経済発展に大きく関連している。また、この要因は制度と地理、開放度とも関係している。例えば、経済発展に有利な地理環境では、有利な制度を形成しやすいが、そうではない場合は、形成しにくいのである。一方、開放により制度変遷は国際化の方向に向かうことになろう。

このように、制度は経済発展を決定付ける唯一の要素ではないが、非常に重要な要素である。これは本文において、「良い市場経済と悪い市場経済」を分析する焦点でもある。

二、政府と経済人を観察する三つの視点

制度はいかにして「良い市場経済と悪い市場経済」に決定的な役割を与えるのかという問題を論じる前に、われわれはまず政府と経済人の行為を認識しなければならない。問題を観察する出発点の違いによって、経済学者達の間には主に三つの視点が存在している。

第一の視点の出発点は、「良い政府、悪い経済人」である。すなわち、政府の動機は公的なもので、社会福祉の最大化を目的としている。しかし、これに対して、経済人の動機は利己的なだけではなく、その利己的な目的を達するには、他人の利益を損害する行為をも厭わない。従って、経済人は意思決定を行う際には、機会主義的となる。こうした観点に基づき、市場に対しては懐疑的であるが、政府行為に関しては、比較的楽観的であり、政府は人民のためにあり、その行為は本質的によいと信じている。このような視点を持つ人々は、経済における政府の役割をいかに発揮するかという論調に傾いている。

第二の視点の出発点は、「悪い政府、良い経済人」である。経済人には利己的な動機があっても、市場は彼らの機会主義的な行為を規範するため、良い結果をもたらすのである。これに対して、政府にはあまり期待できない。なぜなら政府行為の本質は、悪いかあるいは愚かなのであり、政府の失敗は普遍的だからである。こうした視点に基づき、政府の行為に関しては、非常に悲観的であるが、政府を排除した後の市場に対して楽観的である。こうした観点を持つ人々は、市場から政府が退場した後に、市場は自然にベストな状態に入ると考えている。

第三の視点の出発点は、「悪い政府、悪い経済人」である。すなわち、政府の行為と経済人の行為は、本質的に機会主義的である。従って、一定の制約を与えない限り、政府の行為と経済人の行為は共に望ましくないものになる。言い換えれば、政府、そして経済人の行為が善いものであるのは、一定の制約を受けた場合に限る。政府の行為に関して、第一より第三の視点のほうが悲観的である。なぜなら政府は善である仮定をしていないからである。経済人の行為に関しては、第二より第三の視点のほうが悲観的である。なぜなら、市場から政府が退場した後の状態がベストであると自動的に仮定しないからである。

現実と比べると、第一の視点は政府の動機と行為の仮定に対してあまりにも楽観的である。こうした視点は、政府の失敗という現実を解釈するには困難である。そして、第二の視点は、市場に対する信頼は、多くの場合正確であるが、市場がなぜ機能するのかについて、その原因を追求していないため、なぜ市場はある情況下ではうまく機能しないのかについて説明ができない。第三の視点は、より現実的である。もし政府は民衆のためであるなら、その前提条件をわれわれは理解しなければならない。もし市場は経済人の行為を規範化させるというなら、われわれは、単にこれを仮定するのではなく、前提条件をきちんと理解しなければならないのである。

三、制度が解決すべき市場経済の二大問題

これから、われわれは第三の視点に基づいて、制度が解決しなければならない市場経済の根本問題を分析する。こうした視点によると、政府、そして経済人の行為は本質的に利己的で機会主義的なものである。政府、そして経済人の行為が良い結果を導くように、それらの行為を制約しなければならない。

市場経済の基礎は分権化した意思決定にある。経済人(企業と消費者)は、自分が把握した情報に基づき、自分の利益のために意思決定を行う。個人の利己的な行為の社会福祉への転換は、自明なものでも自然に完成するものでもない。アダム・スミスは市場を「見えざる手」と例えたが、それは個人の利己的な行為が共同の社会福祉を導く不思議な結果を指している。研究がさらに進むにつれ、われわれは市場に必ずこのような結果が生まれるとは限らないことに気づいた。市場に「見えざる手」の効果を実現させるのは、決して簡単ではなく、むしろ一定の前提条件が必要である。第三の視点に基づき、市場における「見えざる手」の形成条件を分析することができる。

まず、経済人の本質は機会主義的なものである。他の経済人の利益を損害しかねなくても、自らの利益を可能な限り拡大しようとしている。仮に強盗やスリといった行為が罰せられなければ、強盗やスリはそれなりに魅力的である。仮に約束違反が罰されることがなければ、信用を守ることに魅力がなくなるのである。自由競争はすべての問題を解決できるかといえば、必ずしもそうではない。なぜなら競争は、福祉を上昇させることもあれば、減少させることもありうるからである。後者は経済学者が描いている「レントシーキング」の現象である。どちらの結果になるかは、所有権と競争ルールの在り方に大きく依存している。

従って、市場における「見えざる手」の機能を実現するために、市場経済が解決しなければならない一つの大きな問題は、経済人に制約を加えることである。こうした制約には、少なくとも三つの内容が含まれている。所有権の確定と保護、契約の履行、そして適切な監督である。仮にこれが実現しなければ、経済人の行為は制約されず、市場は無秩序となり、経済人はひたすら自らの利益を求めることになり、互いに不利益を被ることになる。

では、経済人を誰によって制約すればいいのか。選択肢の一つは、経済人自身である。経済人は、自らの利益のために秩序を守ることになる。例えば、自らの「評判」に非常に注意している。なぜなら、悪い「評判」は、他人の非協力を招き、利益の獲得に不利となるからである。仮に短期的な利益が長期的な損失より小さければ、経済人は名誉を考慮し、秩序を守る。もう一つは、社会的には明文化されていない制度にあたる慣習である。慣習の中には、例えば、「信用」があり、それは一種の「社会資本」あるいは共有する信仰となっている。現在の市場経済において、個人の名誉と社会的信用は大きな意義を持っているが、それだけで大量かつ複雑な取引を維持することは非常に困難である。所有権の保護、契約の履行、適切な監督はルールを実行する第三者の存在を要請している。その第三者が政府である。市場の秩序を維持するには、政府の導入は当然のことである。

人々は政府の「番人」の役割を軽く見る傾向があるが、実際には、政府が市場の秩序を維持することは非常に困難である。所有権の侵害、とりわけ権力者による侵害から保護しなければならないし、契約の履行、とりわけ公正な履行を保障しなければならない。さらに、競争の秩序を保障するために、適切な監督をしなければならない。経済史学者達は、歴史上での大多数の国家―今日の多くの国々にも当てはまるが――の政府は「番人」の役割を十分に果さなかったため、経済的に大きな代価を支払うことを余儀なくされたと考えている。従って、政府の役割を最小限に制限すれば、市場経済がベストな状態になるとは限らないのである。仮に制度的な制約がなければ、経済人はいずれも機会主義者となる。企業経営者は生まれつき偉大かつ高尚であるのではなく、むしろ一連の制度的な制約の下ではじめて、単純に自己の利益のために起こした行動が、客観的に見ても社会的責任を果すという結果をもたらすのである。

しかし、強大な政府を導入しようとすると、新たな問題が生まれる。すなわち、こうした政府は、その権力を生かし、所有権を保護し、契約を履行し、そして市場に有利であるように監督することが可能であるが、同時に、その権力で所有権を侵害し、契約を不公平的に履行し、さらに市場に不利な規制を導入することも可能となる。人々が政府の権力濫用を恐れる背景には、二つの原因が潜んでいる。一つは、政府が強制力を独占していることである。本来、政府に「番人」としての機能を独占させる目的はコストを節約するためである。しかし、その結果、経済人は自然に政府の脅威にさらされることになる。もう一つは、政府が決して一人からなるものではなく、むしろ一つの巨大な組織であるという点である。仮に一部の官僚が公共の利益を考慮しても、あらゆる官僚が同じように行動するとは限らないのである。

従って、市場における「見えざる手」の機能を実現するために、市場経済が解決しなければならないもう一つの問題は、政府が必ず何らかの形で制約されなければならないことである。仮に政府が制約されなければ、自ら権力を悪用して利益を追求し、結果的に社会に損害を与えてしまうことになる。政府の行為は非制度的要因、例えば、自らの名誉、イデオロギーならびに技術的条件などによって、制約されることになるが、こうした制約は非常に限定的である。制度を通じて政府を制約することは、現代社会における革新の一つである。この二つの大きな問題を解決することは決して容易ではない。それは、政府が強すぎても、弱すぎても困るというジレンマを反映している。あまりにも弱い政府は最初の問題を解決できないが、あまりにも強い政府は二番目の問題を解決することができないのである。

四、法治は有限政府と有効な政府をもたらす

どのような制度が、こうした問題を解決できるのであろうか。経済人に制約を与えることができるだけではなく、同時に政府が適切な役割を果たせるようにしながら、政府にも制約を与えることができるのであろうか。完璧な制度は存在せず、これまで人類が発明した最良の制度は、法治である。歴史上、イギリスによるこうした制度革新は、全世界に大きく貢献した。1215年のマグナ・カルタから、1688年の名誉革命まで、およそ四百年の間、多くの紆余曲折を経て、法治の枠組みがようやく形成されたのである。いわゆる法治とは、経済人と政府のいずれも法治の対象となり、法律の制約を受けることである。法律は政府を通じて、所有権を保護し、契約を実現し、市場の秩序を維持すると同時に、法律が政府を制約する。

政府に対する制約の有無は「法による支配」(rule by law)と「法の支配」(rule of law)を区別する試金石である。「法による支配」とは、政府が法律を道具に経済人を統治することである。しかし政府自身は法律の上に立ち、法律からの制約を受けない。従って、「法による支配」での政府は、本質的には無限政府である。これとは逆に、「法の支配」、すなわち本当の「法治」での政府は法律の制約を受けることから、有限政府である。私は「市場と法治」の中で、法治の最初の役割は、政府を制約することにあり、その次の役割は経済人を制約することにあるとわざわざ強調したのである。これは今までよく見かけた間違った認識を正すためにあえて書いたものである。重要なのは、法治は有限かつ有効な政府をもたらすことである。従って、法治は良い政府、良い市場経済を形成させるための制度的保証である。法治の下で、政府と経済は「距離」を置いた関係(arm's length relationship)となる。

現在、法律制度の経済への影響と政府のガバナンスという問題は、比較経済学のホットなテーマとなっている。これは中国国内における研究の方向にも反映されている。企業問題に関する研究は、1980年代初めに「管理問題」、1980年代後半に「所有権問題」、さらに1990年代になると、「体制問題」、そして今は「法律問題」となっている。これは問題に対する認識の深化を表している。かつて、政府と企業との関係を正確に処理することは非常に困難であった。政府の企業に対する関与は多すぎるか、逆に企業は何の制約も受けないかのいずれかであった。法律と法治という枠組みの中でこの問題を議論すると、新たな発想が得られる。それは、有限かつ有効な政府は、中立的立場で市場を支持する役目を果すという事である。これこそ、政府の機能の転換を実現するカギである。

法治は事前に規定したルールによって、政府と個人の権力範囲を確定し、意思決定と紛争解決のプロセスを形成する。こうした方式によって、政府は制約を受けることになる。もちろん、法治は政府を制約する唯一の方式ではない。公民社会と民主主義も政府を制約することになる。公民社会は非政府組織、世論、メディアなどのルートで政府を制約することができる。民主主義は投票という方式で、少数が多数に服従するという原則に基づき、政府の人員と方案を選ぶことを通じて、政府に対する制約を果すのである。

法治と民主主義との相関性は非常に高いにもかかわらず、完全に対応しているわけではない。歴史上、イギリスでは法治の枠組みは、現代的な意味での民主主義より先に形成された。前者は1215年から1688年までの間に、後者は1832年の選挙法改正以降に形成され、選挙権は19世紀後半に次第に拡大した。1919年になると、あらゆる男子に投票権が与えられ、そして1928年になると、すべての女性も投票権を獲得したのである。

民主主義の基本原則では、49%の人々は51%の人々の意思に従わなければならないことである。従って、民主主義の下では、政府の行為は大多数の人々の意思に左右される。51%の人々が49%の人々の財産を奪おうとすれば、所有権が侵害されることになる。これはハイエクが法治を非常に強調する原因である。彼は、単純な民主原則、すなわち、多数決原則によれば、所有権が必ず侵害されると考えている。法治によって、民主主義のプロセスで決定してはならないものが決められているのである。この点は非常に重要である。例えば、コーポレート・ガバナンスにおいて法律は小株主達の利益を大株主に侵害されないように守ろうとしている。小株主を保護することは、弱者の権利を保護することである。法治の重要な内容の一つは、弱者を強権による侵害から守ることにある。従って、民主主義は法治と一緒になってこそ、初めて所有権の保護と経済発展に有効となる。

中南米のアルゼンチンはその一例である。20世紀初め、アルゼンチンの経済発展は(1人当たり収入で見て)、全世界においても、上位から十位以内にあった。その資源は豊富で、ヨーロッパからの移民国家でもある。その条件はアメリカほどではないが、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドより劣ることはなかった。しかし、20世紀末になると、こうした国々に後れをとってしまった。その原因の一つは、法治が絶えず侵害されたことである。とりわけ、40年代末、選挙で選ばれたポピュリズムに基づいた政府は、多数の投票者を獲得するために、所有権を侵害する一連の政策を実行し、経済発展を妨げた。法治の低下は、最終的に民主主義を損害し、不安定な政治情勢をもたらしたのである。

法治、公民社会と民主主義という政府の機能を制約する三つのメカニズムの中で、われわれが特に法治を強調したのは、決して公民社会と民主主義の役割を否定しようとするものではなく、むしろ制度建設の中での一種の最適な順序を協調したいからである。わが国の現在の経済発展段階では、法治は、比較的に直接かつ有効に市場経済の形成を推進することができる。政府を制約するにあたって、法治は最優先順位に取り上げられるべきである。法治は、公民社会と民主主義と独立し、政府を制約する方式であり、必ずしも民主主義なしでは法治ができないわけではない。三者は、確かに深く関わっているが、こうしたつながりは、民主主義と公民社会が法治の前提であることを必ずしも意味しない。現実では、法治を推進する余地が多く、法治の建設を大いに推進させることは、非常に意義のあることであると考えられる。

五、有限政府に違反する二つのケース

法治下の政府は、有限政府であり、政府を制約することが法治の重要な役割の一つである。なぜ、政府を制約することがこれほど重要なのか。これはわが国の歴史と現状に関係している。計画経済から出発したことがわれわれの歴史であって、発展途上国というのが、われわれの現状である。機能と体制から言うと、政府はあらゆることを支配することに慣れている。しかも、われわれのこれまでの歴史に、有限政府の概念が殆ど存在せず、政府の行為が制約されること自体が殆ど存在しなかった。従って、政府を制約することを法治の重点として取り上げるべきである。

現実では、法治に違反する最も明らかな例は、政府が法治によって制約されず、有限政府になっていないことである。これには、次の二つのケースが存在する。

第一のケースとは、政府が経済人の活動空間を制限するために、あまりにも多くの法律を発行することである。法律のある国が必ずしも法治国家であり、法律が多い国ほど立派な法治国家であるとは限らない。経済人の活動を制約する多くの法律は、悪い市場経済を生み出す主要な原因であることが、これまでの事実で証明されている。中国にとっては、新しい問題であるが、その他の諸国においては、むしろ従来から存在していた問題である。われわれも、それを警戒し、参考にすべきである。いわゆる「ラテンアメリカ病」と「インド病」は、その好例である。中国と比較すると、ラテンアメリカ諸国とインドの法律は比較的「健全」であるが、しかしわれわれはそれを法治国家と見なしていない。

ラテンアメリカの国々は1820年代にすでに独立を遂げていた。ペルー人Hernando de Sotoは、1989年に出版されたThe Other Pathの中で書いているように、ペルーのあまりにも多い法律と規制は、政府に様々な権力を与え、民間企業の設立及び市場参入に、様々な障害を作り出した。その結果、全体的にレントシーキング的な社会が形成され、ペルーの経済発展の活力が窒息してしまったのである。一枚の個人経営の許可書を申請するにあたって、たくさんの機関と無数の手続きを通過しなければならず、何年もの歳月を要していたのである。あまりにも多くの法律は、生産性のある経済領域への新規参入を完全に妨げ、企業家の意欲を著しく低下させていたのである。

インドにおける最初の法律体系は、イギリスから移植されたものである。独立以降のインドの労働立法は、労働市場に極めて強い規制を課している。中国では、かつての国有企業の雇用は終身制であったが、その後、比較的柔軟になってきた。インドの法律によると、民間企業においてさえ、雇用者数は50人を超えると、解雇ができなくなるという。インドの労働市場における複雑な法律は、経済発展に非常に不利である。こうした情況は今になって、ようやく変わろうとしている。

ペルーの例は、法律が企業の新規参入を規制すれば、企業の起業が困難になり、経済の活力が窒息してしまうことを明らかに示している。インドの例では、法律が労働市場を規制し、経済発展を妨げていた。従って、法律の制定は経済発展に有利かどうかが、最も重要である。現在、わが国では、一部の政府部門が法律と規制を道具にし、他人を束縛することで、自らの権力を拡大している。法律を道具に政府の権力を拡大させることは、従来の慣行に一致するだけではなく、現在の一部の政府部門とも利益が一致している。従って、こうした傾向に警戒すべきである。

第二のケースとは、政府の権力を制約する法律があまりにも欠けていることである。計画経済の時代では、何でも政府が勝手に決めることができ、政府の裁量で行使できる権力は無限であった。現在、法治が強化されたといっても、政府の裁量で行使できる権力を制限する法律はいまだに十分ではない。政府の裁量権は各方面に現れている。例えば、企業が設立されると、各種の妨害を受け、費用の負担、寄付が絶えず求められる。それを制限する法律がいまだに整備されていない。また、法律の執行も、脱税を取り締まるキャンペーンが周期的に行われるように規範化されていない。また、2002年末の中国電信の値上げは政府による権力の濫用の一例である。まず、海外からの国際電話料金を突然値上げし、その後、圧力を受けて値下げを余儀なくされた。この事件は、政府が電信サービスの価格を監督することが制度的にできていないことを物語っている。政府の裁量権があまりにも大きく、やり放題の有様である。実際、政府の監督部門が電信会社の「言いなり」となり、企業の目標が政府の目標へと変身してしまうのである。政府の裁量権を制限する法律が殆ど存在していないため、政府の価格調整の意思決定は市場における無秩序をもたらしている。

政府の裁量権によって、政府の政策に一貫性がなく、常に変化するものであるという認識が人々に与えられてしまうことは、経済発展に非常に不利である。法治の下では、認可の順序が必要である。例えば、電信価格は政府に規制される価格であり、それを調整するときに、調査会を開き、電信会社の一方的な話だけではなく、民衆の意見もちゃんと聞き入れなければならない。これによって、政府の裁量権が制限されるのである。政府は、一定のルールに従わなければならず、ほしいままに行動してはいけない。しかし、現在、わが国では、政府の裁量権を制限する法律が非常に欠如している。例えば、これまで行政独占権力を制限し、公平性と民衆に開かれた意思決定を保障する行政手続きに関する法律はいまだに整備されていない。それによって、調査の順序、公聴会での手順、そして意思決定の手続きの法律根拠は、いまだに確立されていない。

この二つのケースでは、一つは政府が経済人にあまりにも多い制限を与えることであり、もう一つは、政府の裁量権に対する制限が足りないことである。そのいずれも有限政府の実現を妨げ、良い市場経済の形成に不利である。こうした問題を分けて論じることは非常に意義がある。両者の形は異なるが、いずれも法治による政府への制限が不十分であることを表している。従来、わが国の法律整備が不十分であった。その反動で、法律が多ければ多いほど良いという発想が自然に生まれてくる。実際には、これは法治建設における一つの落とし穴である。多くの国では、あまりにも多い法律は、市場経済発展を妨げる制度的な障害となっているのである。中国も法律の不健全さから更に多くの法律を作ってしまいかねないリスクに直面している。中国はラテンアメリカとインドのような過ちを繰り返さないように警戒しなければならない。しかし、経済人を制約する法律があまりにも多い反面、政府の裁量権を制限する法律はいまだに欠けている。従って、政府が経済発展に与える不利な影響は主に二つある。一つは、法律があまりにも多いという問題であって、政府が法律を根拠に、企業の生存と発展に困難をもたらしている。もう一つは、政府が手続きに従わず、介入の恣意性が依然として大きいことである。

あまりにも多い法律と政府介入の恣意性は、有限政府から乖離する二つの側面である。それらの形は異なっても、同じ根本的な観念の誤りを反映している。この誤りとは、法律を政府が経済を管理する道具と見なす、すなわち法律の「政府道具論」である。このような観点は、普遍的に存在しているが、これこそ、政府が法治に違反する二つのケースの根源である。法治の実質は政府と経済人に法律の制約を与えることにある。従って、法律の「政府道具論」の観念を徹底的に見直して、初めて有限政府が実現され、本当の法治が実現できるのである。

六、有効な政府と政府監督

法治国家では、政府の行為は法律の制約を受ける。こうした条件の下で、政府がいかに有効な政府となるのかは、良い市場経済を形成できるかどうかを左右する重要な要素である。

所有権の保護と契約の履行は、経済学者が一致して認める政府機能である。それ以外に、市場における経済人の行為を「規制」または「監督」(regulation)する必要があるかどうかに関しては、異なる見解がある。規制は果たして必要かどうかに関して、政府と経済人を観察する三つの異なる視点によって、三つの異なる答えと提言が提示されている。

「良い政府、悪い経済人」という視点に基づけば、市場における経済人の行為は広い範囲にわたって制限されることが求められる。従って、政府は監督を強化すべきである。それは結果的に社会福祉の上昇につながる。しかし、「悪い政府、良い経済人」という視点を持つ人々は、全く逆な答えと提言を持っている。彼らにとって、政府による規制は、経済人から利益を得るために設けた障害であり、「レントシーキング」の行為そのものである。公のためではなく、利己的な動機に基づいて、政府は過当な監督に走る傾向がある。その結果、政府は被監督者の「言いなり」となり、後者の意思に「監督」されてしまうため、効率が低下し、社会福祉が損なわれることになる。一方、彼らは、仮に政府による制約がなくても、市場における経済人に対する行為の規範が自然に形成されるはずであると考えている。従って、彼らは、政府による監督が少なければ少ないほどよく、何の監督もない場合がベストであるという。

「悪い政府、悪い経済人」とする第三の視点によれば、所有権の保護と契約の履行だけを頼りに、経済人の行為を制約することには限界がある。例えば、製品市場において、競争秩序の維持と消費者権益(例えば製品の安全性)の保護を果すには、生産者に対する規制が必要である。金融市場では、投資家の権益を保護するには、資金の利用者に対する規制が必要である。こうした情況の下では、政府による規制が望ましい。この問題に関して、第三の視点と第一の視点との間に、共通性がある。一方、第三の視点と第二の視点との間にも、共通点が存在している。それは政府行為に対する懐疑である。「過当な規制」と監督者が被監督者の言いなりになってしまうことのいずれも、政府が人民の利益のために機能していないことを物語っている。従って、このような視点を持つ人々は、決して規制が多ければ多いほどがいいという意見を持たず、むしろ具体的な情況に関して、個別に対応すべきだと主張している。規制のコスト(政府の失敗のコストが重要なコストの一つである)がその収益より少ない場合のみ、規制の意義が現れる。従って、規制者-政府-に制限を加えるべきであって、有効な政府は有限政府という条件だけで実現できるのである。

第一と第二の視点の共通性は、異なる市場と情況を考慮せず、常に規制の強化あるいはその緩和を一方的に主張する点にある。しかし、第三の視点は異なる。それには、適切な規制、とりわけ各市場において、異なる問題に関して、規制内容の調整が主張されている。製品市場において、監督と管理の重要な内容の一つは、競争秩序の形成と維持にある。電信、航空などの産業はその例である。まず、人々が思いつくのは、簡単な反独占である。現在、経済学者達の「独占に対する規制」という言い方に対して改めようとしている。なぜなら、規制は介入であるかのように誤解されやすく、しかもこうした言い方は比較的に静態的である。現在、多くの場合、政府による「競争政策」(competition policy)という言い方がよく利用されている。これは一種の前向きな言い方であって、市場競争を促すことを強調している。競争を促すという側面から言うと、将来に向けて、将来の技術変化を考慮し、一種の開放的な態度を見せている。

金融市場における監督の状況はこれとは異なる。ここでの主な問題は、いかにして企業と金融機構(銀行、基金、証券、保険会社)の経営者に「儲けたお金」を投資家に返還させるかを監督することにある。その監督の対象となるのは、自らの手に握る金を投資家に返還することを嫌がる経営者達である。何らかの制約がなければ、詐欺行為を含むあらゆる手段で投資家への借金の返済を阻むだろう。これは経営者の一種の天性であり、しかも、万国共通の現象である。金融市場に関する実証研究によると、政府による監督がない情況の下で、金融市場の発展は決して成功しない。例えば、90年代、チェコの金融市場の発展は、ポーランドの成功よりはるかに遅れていた。チェコ政府が実行したのは、まさしく監督なしの政策である。強制的な情報の公開とインサイダー取引の規制といった政府による適切な監督は、金融市場の発展を促す役割を持っている。

現実では、政府による規制または監督は、どの国においても、「ゼロ」か「1」という世界ではない。先進諸国においても、「振り子」は常に規制の強化と緩和との間で変動している。80、90年代、規制緩和が主流となったが、その原因には、70年代にあまりにも厳しい規制が経済発展を抑制したことが挙げられる。21世紀に入ってから、コーポレート・ガバナンスの問題、会計の問題、電力市場の問題など一連の問題が発生したことをきっかけに、規制強化を求める声が高まっている。こうした問題は、政府が退場さえすれば、市場は自動的に問題を解決してくれるという仮定は成り立たず、むしろ有効かつ小さな政府は、きわめて重要であることを物語っている。

七、法治を押し進める動力

法治社会の建設を推進する動力は果たしてどこから来るのか。それは、内部利益、外部圧力と知識という三つ方面からなるのである。

まず、内部利益については経済人と政府両方の側面から見ることができる。消費者と生産者は自らの利益から法治を求めている。経済の発展に伴って、こうしたニーズは今、拡大しつつある。短期的には利益が低下しても、長期的な利益から、経済人は自らと他人が同時に規制されることを希望している。経済人も政府の行為が制限されることを望んでいる。しかし法治の実現は、政府によって実現されなければならない。経済人を制限することは、通常政府の利益に一致するが、政府が自らを制限する結果はどうであろうか。経済発展の結果は、「ゼロ・サム・ゲーム」ではなく、むしろ「ウィン・ウィン・ゲーム」である。従って、パイを大きくすることは、経済人と政府のいずれにも有益である。従って、政府は自らの利益(例えば、税収、経済発展、社会安定)のためにも、安定的かつ予測可能である上に、透明性の高い制度のルールを必要としている。パイを大きくすることを通じて、法治は経済発展に直接的な影響を持っている。従って、政府の権力を制限することは政府に利益をもたらすという「権力のパラドックス」という問題が発生するのである。

第二に外部の環境による圧力は法治社会の形成を促している。上述した内部利益のほかに、われわれは外部の圧力が法治と有限政府を促す役割を無視することができない。例えば、中国のWTO加盟は非常に重要である。WTOのルールは、法治のルールそのものである。WTOのこれほど多くのルールのいずれも、政府を制約するためのものである。開放によってもたらされた新たな競争ルールは、世界共通の原理である。これまでの政府の多くのやり方はもはや通用しなくなっている。例えば、労働の制限に関する法律がその一例である。開放という新しい環境の下では、これまでの競争の優位性が失われ、改革のインセンティブがそれゆえに生まれるのである。

第三は知識の力である。経済学者と法学者達は、全体の利益をより重視し、弱者の声により注意する。彼らの優位性は、人類の知識を推進することにある。社会は、「公共利益」を代表する存在を必要とし、それは法治社会を築き上げる重要な要素である。人々はいずれも自らの利益を追求するが、多くの場合、それらの利益はその他の要素と絡み合っているため、自らの利益をきちんと把握できていない。経済学者と法学者は精密な分析によって、これらの利害関係を明示することができる。彼らは、法治こそ人類の制度革新であり、政府と経済人を制約する有効な方式であると同時に、良い市場経済の制度基盤であることをわれわれに教えてくれる。長期的に見れば、人々の全体的な経済利益は法治の下で最大限に実現できる。従って、知識は法治を推進する一種の独立した力である。

以上の三つの力――内部利益、外部圧力と知識――そのいずれも法治の推進力である。法治は決して法律部門と法学界だけの問題ではない。各政府部門、消費者、知識人は、わが国における法治建設の推進に参加すべきである。

2003年6月2日掲載

出所

「政府与法治」、『比較』(第五号)2003年

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2003年6月2日掲載

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