中国経済新論:中国経済学

制度の革新―豊かさへの道

茅于軾
天則経済研究所理事長

経済学の根本的な役割は社会が豊かになる道を探り当てることである。

1960年代に、経済学者の関心は第三世界へ移り始めた。それらの国々の国民たちは何千年にわたって貧困問題に苦しめられてきた。貧しいため、数多くの社会的弊害が明らかになっているものの、解決する能力に欠けている。貧しいことが原因で教育水準が低く、人口の無制限な増加などを招いてしまい、社会が再三にわたりマルサスの罠――人々がさらに貧しくなることにより過剰な人口が消滅する――に落ちた。とにかく、貧しさ自身が原因で貧困問題の解決が不可能になり、悪循環が形成された。

先進国家の経済学者たちは、同情心と社会の変遷の法則への探求心から、次第に貧困撲滅のための経済学、すなわち開発経済学を作り上げた。そもそも経済学はその祖アダム・スミスの時代から、どのように富を作り出すかを研究するものである。彼による不朽の名作『国富論』の原題は「An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations」(諸国民の富の性質と原因に関する研究)である。その大著には理論、歴史、政策が含まれ、完全な経済学の体系を形成していた。人々に繰り返し引用されるその著作の基本的な論点とは、「あらゆる個人が利己を動機に経済行為に従事するが、公正な法律の支配の下で見えざる手に導かれながら、私利と公益が調和されることになる」ことである。この結論は当時の人々を驚かせただけでなく、200年後の今日でも未だに受け入れられない人が数多くいる。利己が公益につながる。それが事実だとしたら、古くからの道徳規範や、人々に滅私奉公を勧めることなどは間違っているのだろうか。しかし、資本主義発展の事実はアダム・スミスの判断が正しいことを立証した。資本主義社会で人間の生産効率が何百倍にも高められたのは、「天下為公」(誰もが公のために奉仕する)の理想によるものではなく、個人の金持ちになりたいという心理によるものである。しがたって、アダム・スミスの理論は自由経済主義の根拠とされてきた。

マルクスも経済成長理論に大切な貢献をしている。生産関係が生産力の発展を制約する可能性があるという理論は生産力の発展に大きく貢献した。現代的な専門用語を用いれば、マルクスが指摘する生産関係とは基本的には経済制度のことである。確かに、経済発展が遅れた国はいずれも経済制度上大きな欠陥を抱えている。

よく目にする現象について「なぜか」というを質問すれば、経済制度の大切さが分かるようになる。同じようにレストランで皿洗いをする者でも、貧困国ではどうにか暮らしを立てられる程度であるのに対して、先進国では自動車に乗りマイホームが持てる。こうした現象により貧困国の若者たちは同じ労働でより高い報酬が得られるよう、先進国へ移住したがるようになる。社会環境の相違により同じ労働が違った報酬につながるのは制度の違いに由来するものである。制度が機能不全の社会では、大量の労働力が活かされず、人々が努力してもお互いの力が相殺しあって、結局社会全体の経済効率が低下してしまうことになる。しかも、そのような問題は根強く、努力してもなかなか改めにくい。または、政治的・文化的背景から問題の解決どころか議論さえ許されない。多くの人々はこれらの現象に慣れきったため、見れども見えずになる。マルクスの言い方を借りれば、「生産関係が生産力の発展を妨げてしまう」ことになる。

経済制度とは何か。それはどのように形成され、また変わっていくのか。それはどのように社会の経済効率に影響を及ぼすのか。1970年代以降、多くの西側学者がこうした問題について深く考えてきた。その間、多くのノーベル賞受賞の世界レベルの巨匠が生まれた。例えば、ハイエク(1974年受賞)、コース(1991年受賞)、ノースとフォーゲル(共に1993年受賞)らは経済制度に対し前人未到の問題に触れ、斬新な見方を示したことにより、経済制度という捕らえにくい問題についてより明確に理解させてくれた。

筆者の20数年にわたる西側の制度経済学の勉強と体得に基づき、その学説の精髄は以下のように理解している。

経済制度とは人々が物質的利益(貨幣的および非貨幣的)を得るためのルールのことである。それには明文化した法律や条例および明文化されていない習慣と道徳が含まれる。例えば、国家幹部が親方日の丸的な給料がもらえること、都市の住民が毎月いくらかの物価手当がもらえること、かつては出張時に飛行機や電車の特等席に乗るには一定の地位の者でなければいけないと定められていたこと、農民が都市へ職探しに行ってはならないまたは行っていいと定められたことなどは、いずれも経済制度に属する。なぜなら、これらのルールによって、一国で生産された富がそのメンバーの間に分配されるからだ。制度の違いは人々の経済活動の違いを決定付け、経済効率の良し悪しを決定付ける。効率が最も高い分配方式はあらゆる非要素的な貢献による収入分配を無くし、人々は労働、資金、資源(土地、鉱物資源、淡水などが含まれる)といった三種類の生産要素を提供するときのみ、それ相応の収入を得ることができる場合である。言い換えれば、人々は要素市場から収入を得なければならないのである。

その実現のための重要な前提は、財産の所有権を明確にすることである。要素が誰に帰属するかが明確でなければ、要素の提供者に報酬を支払うことなど不可能である。例えば、土地の所有権が明確でなければ、農民が地力を高めるよう有機肥料を与えたがらなくなる。投資者がプロジェクトに対して明確な所有権を有さなければ、プロジェクトの経済的利益に関心を持たなくなる。

経済制度を決定付けるもう一つの重要な要素は取引費用である。取引費用は経済活動において商品引渡し時の代金支払いを除いたその他のあらゆる費用と定義されている。具体的には、企業が自身の法人地位を獲得するための登録費、取引相手を探すための情報費、価格交渉をするための交渉費、契約履行を監督するための監督費、相手が契約を守らないことに起因する損失および訴訟費などが挙げられる。社会の経済効率が低い原因は取引費用が高過ぎることにある。人々は取引費用を下げるための方法を探し求め、それにより交際費、場合によって賄賂が発生する。財産の所有権を明確にすれば取引費用を引き下げることができる。例えば、農民が自分の土地で耕作することは人民公社制で労働点数を獲得することに比べ、監督コストを節約することができる。同様に、零細企業主は共同経営制度より監督コストが低いが、個人の零細企業主の資金力も弱いものとなる。人々の商業道徳水準が低下すると、(契約など、ルールが守られなくなり、その結果)社会の取引費用が上がり、効率が低下してしまうのである。

わが国の改革が成功したのは、根本的には制度転換の結果である。「資本主義のしっぽを切る」(資本主義的要素を全面的に否定し、取り締まること)という極めて非合理的な束縛が次第に取り除かれてきた。要素の流動と交換を妨げる「古い病巣」は少なくないが、要素市場が徐々に整備され、国民収入に占める割合が絶えず高まっている。また、価格メカニズムが次第に機能するようになり、低い公定価格で原材料を手に入れ、高い市場価格で転売して収入を得るといった役人による不正商取引が少なくなった。所有制の多様化により監督コストが低く効率が高い中小企業が生まれ、それらの企業が国民経済成長の中核となった。税収の標準化は不公平競争により利益を得る機会を減らし、各種の市場の整備は取引過程の透明性を高め、取引効率を高めた。

一方、人々が非要素市場から利益を獲得する機会が未だに多く存在することを見逃してはならない。コピー商品が暴利をむさぼる源になり、公金による飲食接待、買春、賭博さえまだ途絶えておらず、汚職賄賂はなおさらだ。現在、社会の道徳水準が低下し、経済的紛争が大幅に増えている。それらの機会は人々を誘惑して生産を怠け不正な手段を用いて利益を獲得する方向へと傾かせ、わが国の経済の更なる発展を妨げてしまう。最も憂慮すべきことは、それらの非要素収入のルートの制度化、定型化であり、それによりわが国の経済が誤った道に導かれる恐れがあり、それを正すことはとても困難である。インド、インドネシア、フィリピンなどの国々はその辺で貴重な経験を持っており、我々にとって勉強するに値するものも少なくない。

2006年4月7日掲載

出所

「制度創新-致富之道」、『中評網』2000年8月19日

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2006年4月7日掲載