中国経済新論:世界の中の中国

中国の台頭が世界にとって脅威にならないための条件
― 国家と政治家の利益よりも人民の利益を優先させること ―

茅于軾
天則経済研究所理事長

はじめに

人民の利益、国家の利益、政治家の利益という三つの利益のうち、最もよく耳にする言葉は人民の利益で、次が国家の利益である。政治家の利益についてはまだ誰も言及したことがない。この三者の間には、重複する部分もあるが、大きな違いがあり、しかもこの違いは非常に重要で、多くの政策決定過程において鍵を握る。しかし残念ながら、この重要な違いは無視されがちで、そして権力者は意図的にこの三者を混同し、まるで政治家が常に人民の利益を代表し、国家の利益は人民の利益に等しいように見せている。この意図的な混同は、多くの問題の是非を糊塗し、多くの人の見方を惑わせる。例を挙げてみよう。人々が国家の安全に関心を持っているが、国家の安全とは一体誰の安全なのかという点はとてもあいまいである。民衆の個人の安全なのか、それとも政治家あるいは指導者の安全なのか。民衆にとって最も重要な安全保障は戦争ではなく平和である。また、人権が侵害されず、争いごとになったときに正義を守ってくれる人がいて、財産に対する保障があり、行動の自由がある、などが重要である。しかし、われわれがよく議論している国家の安全にかかわる問題は、このようなことではなく、国家に対する転覆活動を指す。しかし、転覆は指導者にとっての問題であり、民衆にとっていわゆる転覆は存在しない。民衆はすでに最底辺にいるので、転覆されることはないからである。また、いわゆる敵対勢力も、あくまでも指導者にとってのことであり、わけもなくわれわれの民衆と敵対する人はいないはずである。

人民の利益と国家の利益

人民の利益の意味はとても広い。人々は良い生活、健康、安全を望んでいるが、これらがどの程度達成できるかは各個人のそれぞれの条件と運による。しかし、人民全体の利益でいえば、個人の条件や個人の運の話でなくなり、人民全体にとって安定した環境があり、戦争で社会が乱れることもなく、反社会的組織からの侵害もない、つまり個人の命や財産が保障されていることである。保障のある環境ができてはじめて、人々は心安らかに暮らし、楽しく働き、人生を楽しむことができる。

かつて、われわれは偉大なる祖国を作ろうというスローガンを掲げ、多くの人の基本的権利を侵害した。文化大革命はもちろん、大躍進(1958~60年)や、三年間の大災害(1959~61年)は民衆の基本的権利を広範囲にわたって侵害した。民衆を専制的な手段で扱い、理不尽に人を迫害し、言論やイデオロギーで断罪し、隔離して取調べ、人の自由を剥奪し、さらには労働改造所に送るなど、結局、国づくりに何も役立たず、逆に民衆に不安な生活を強い、経済は崩壊寸前にまで追い込まれた。改革開放以降、人民の基本的権利は徐々に保護されるようになり、権利が侵害されることも減少し、経済も良くなった。今日の経済にまだ問題が残されているというならば、それは、人民の基本的権利の保障面でまだ多くの欠点が残り、人民の基本的権利が最高の地位に置かれておらず、民衆の基本的権利を侵害する口実が依然として多いことである。

国家の利益と人民の利益が対立する最も典型的な例は戦争だ。大半の戦争は人民の利益のためではなく、いわゆる国家の利益、実際的には政治家の政治業績、彼らの野心と虚栄心を満足させるために、民衆の命が代償となる。現在、世界の国々は二種類に分けられる。一つは、国家の利益が人民の利益に従う国で、もう一つは逆に人民の利益が国家の利益に従う国である。前者は侵略戦争を発動することができない。戦争は人民の利益と合致しないからである。そして後者は、政治家の利益に合致するのであれば侵略戦争を発動することができる。歴史が証明するように、二度の世界大戦は国家の利益を優先する独裁国家が発動したのである。外交辞令として、どこそこの国の繁栄と発展は世界平和にとって有利であり、脅威にならないという言葉は良く使われる。だが、この言葉は、国家の利益よりも人民の利益を上位においた政体だけに適用できる。もしわれわれが、「人民は平和を愛し、戦争を好まない」ということに賛成するのであれば、次のような結論が得られる。国家の利益が人民の利益に従う政体の下では平和が保たれる。人民の利益に反して国家の利益のために戦争することができないからである。逆に、人民が国家の利益に従わなければならない政体の下では平和が脅かされる。国家(実際にはその国の政治家)の利益のために民衆を死なせるかもしれないからである。今後、世界の平和を守る唯一の方法は、国家の利益が人民の利益を超越している国々を、人民の利益を優先する政体に改造することである。

このように、人民の利益の判断基準と国家の利益の判断基準には違いがあることが分かる。しかし、昔から国家の利益だけが宣伝され、人民の利益はまるで国家の利益であるかのように混同されている。国家が人民を戦争に招集するとき、さまざまな理由が使われている。解放のためだという人がいる。たとえば、解放戦争(1940年代後半の共産党と国民党の内戦)のために農村から数百万の青年を招集したとき、このスローガンが使われた。結局、周知のとおり、農民は解放されず、彼らは今でも最も虐げられている社会的弱者である。三年間の大災害はいうまでもない。二、三千万人が餓死し、そのうちの大半が農民である。また、家と国を守るためだという人もいる。抗米援朝(1950年代の朝鮮戦争のことで、米国を抵抗し北朝鮮を支援するという意味)のときはこの理由が使われた。しかし、これは、前述した人民の利益とあまりにもかけ離れている。また、中印戦争の時は、数万平方キロのほとんど人が住んでいない荒地のために戦ったが、このような土地のために戦うだけの価値があるのか。はたして、われわれの一人ひとりの民衆にどのような影響があり、命を犠牲するに値するのか。なぜ自国を良く治めることもせずに、ほとんど価値のない荒地を争奪するのか。自衛のための反撃戦を超えて、他国に行ってほかの人を苦しめることは民衆が望むことではない。しかし、政治家は問題の見方が違う。彼らは自分たちの観点から、民衆の命を犠牲にすることも辞さない。彼ら自身は前線に行くことは決してないため、多くの人が死んでもその順番は自分に回ってこない。これらのことから分かるように、政治家の利益は人民の利益とは大きく異なっている。そして、この差異が戦争の原因となる。双方の政治家が本当に民衆の利益を自分自身の利益とすれば、戦争は起きない。原子爆弾が発明されたことにより、政治家も戦争の最前線にさらされるようになったため、戦争勃発の可能性が減少したという人がいる。だが、政治家たちは、自分たちのために原子爆弾を防御するトーチカを作ったため、この推論も成り立たなくなった。

政治家たちの宣伝は非常に効果的だといえる。政治家たちは、民衆を騙す重要な理論を作り、国家主権、完全な領土を守ることを至上の命題とする。民衆は、領土の主権を守るため自らの命を犠牲にすることを惜しまない。一体、完全な領土が重要なのか、それとも民衆の命と財産が重要なのか。私は、民衆の命と財産の方が重要だと思う。領土が完全でなく、一部欠けていても、私と何の関係があるのか。むろん、われわれの同胞がその土地に住み、土地が奪われた後にこれら同胞が奴隷になるのであれば、国土を守る義務がある。しかし、もしそれが無人島であれば、この領土をめぐる争いにはなんの意味もない。あるいは、この土地の民衆がほかの人の管理下におかれた後、彼らの生活水準がむしろ上昇し、自由度が向上するのであれば、このような領土主権の移譲は反対するどころか、むしろ歓迎すべきである。改革開放前には、毎年大勢の人が泳いで香港への密入国を図り、捕まって戻された人は重い刑に処された。今でも多くの人が命の危険を冒してまでより裕福な国に密入国しようとしている。これらは、民衆がどのように主権と領土を判断し、どのように国家の利益と人民の利益を判断するかという好例である。

主権に対するこのような疑問は、愛国的でなく、さらには売国あるいは低俗的な個人主義、享楽主義であり、社会的責任感がないと批判されるかもしれない。本文の目的はまさに、この数千年の間に本末転倒した道を正常に戻すことにある。売国は深刻な過ちではない。人民を裏切ることこそ深刻な過ちである。私は、一般の人々にとって人生を楽しむことは最大の目標であると考える。良い社会あるいは調和の取れた社会(「和諧社会」)はまさにみんなが喜んで楽しみを探すと同時に、他人が楽しみを得るのを手伝うような社会である。どんな口実の闘争もせず、階級の闘争や、完全なる領土、主権の独立、正義の主張などよりも、民衆が良い生活を追い求めることを優先させなければならない。世界中のテロリストはこの点を間違えている。彼らは、良い生活を求めることは過ちで、国のための犠牲こそ光栄だと考える。爆弾を身につけて自分とほかの人を爆破するなど、人に害を与え、自分の利益にもならないようなばかなことをして、死んでも非を悟らない。このような誤った思想が世の中を支配しているのであれば、人類は袋小路に入り込んでしまう。しかし、逆に、人類がみな良い生活と快楽を求めるのであれば、世界は平和になり、民衆は安心して生活することができる。安心して生活することが重要なのか、それとも主権独立が重要なのか、どちらを優先すべきであろう。

ここでは、主権や独立などの考えを完全に否定しているのではない。だが、民衆にかかわる利益にとってメリットがあるときのみ追い求めるに値するのであり、主権や独立を盲目的に最優先させるべきではない。国家の利益は必ずしも人民の利益と一致しないからである。もし二者の間に相反が生じれば、国家の利益は人民の利益に従わなければならない。国家の利益を人民の利益よりも優先するような逆のことをしてはならない。

人民の利益と政治家の利益

政治家の最大の利益は執政を継続することである。米国の大統領は、一期目を終えた後に次期選挙を自ら放棄することはほとんどない。米国大統領は多くの制約を受け、プライベートの男女関係まで世論に監視されるにもかかわらず、なお執政に未練がある。制約を受けない執政の地位であれば、その魅力がさらに高いことは言うまでもない。執政者は、民衆の利益が自分の執政の継続と対立していれば、執政を放棄するのではなく、必ず民衆の利益を犠牲にする。典型的な例は、為政者と基本的な政策に対する批判を許さないことである。だが、政策に大きなずれが生じたとき、適切な批判がなければ、ずれがますます大きくなり、最終的に収拾がつかない状況に陥る。三年間の大災害は典型的な例である。当時、多くの良心的な人や、うそを言いたくない人は農村の食糧不足の真実を語ったが、彼らはみんな右傾の日和見主義さらに反党分子と弾圧され、降格や給与の引き下げを強いられ、一部は労働改造所に送られた。批判を許さないのは自分が執政を続けるためであるにもかかわらず、社会の安定と進歩のために不安定要因の芽を摘まなければならないと言う。この言い方はとても人を惑わす。安定と進歩は民衆が期待することでもあるからだ。しかし、安定とは批判してはならないという解釈は飛躍しすぎである。むしろ、批判が許されなければ、社会全体が後退し、社会が動揺する。批判を聞かない、さらには異なる意見を聞かないのは独裁者の一般的な心理状況であり、人民の利益よりも個人の利益を優先する典型的な現われである。

国家指導者の最大の利益は執政の継続である。彼らは、執政の継続を妨げるあらゆる要因を取り除き、発生可能性のあるすべてのリスクを防がなければならない。一般的に、リスクは二つの面で生じる。ひとつは党内の異分子による宮廷クーデターで、もうひとつは統治に対する民衆の反乱である。どちらにしても、全力かつ迅速に撲滅しなければならない。これが、よく言われる「不安定要因の芽を取り除く」ことである。政治家がよく使う概念のすり替えの手法は、国家と人民を混同し、政治家に反対することを国家転覆、国家分裂と称するものである。このとき、彼らは自分自身を国家とする。法律では確かに国家を転覆させ、国家を分裂させることが禁じられているが、政治家に反対してはならないという法律はない。このため、政治家は国家を自分にすり替えるのである。人民の利益のために頑張る人たち、国家指導者を批判する人たちは、国家転覆罪などの罪名で投獄された。文化大革命の時には、毛沢東を人民と定め、毛沢東を批判するだけで罪になる。改革開放の後も、毛沢東の頭像にインク瓶を投げつけた人が無期懲役を言い渡された。毛沢東が亡くなった後に、このようなことが続いたのは、明らかに毛沢東の執政地位を固めるのが目的ではなく、その後の指導者の執政の地位を固めるためであり、国家指導者を軽視するいかなる観点も絶対に許さないことを民衆に印象付けたのである。

政治家は、自らの執政の継続に対する脅威を防ぐため、執政能力を強化し、人事に対する支配を強化し、世論をコントロールし、独自の観点をもつ社会団体の出現を防ぎ、むろん自分の政権の権威に公然と挑む組織の存在を許さない。そして、このようなやり方は人民の利益とまったく関係がなく、為政者自らの利益のためである。しかし、彼らは公には決してこのようなやり方が自分の利益のためであるとは認めず、民衆の利益のためだと言う。もちろん、良い政治家による執政は、民衆にとって利点がある。だが、大抵の場合、施政に大きな過ちが生じ、民衆が深刻な損害を受けても、為政者は依然としてその地位にしがみ付き退陣しない。

実際には、政治家も民衆と同じ人間である。前述のような政治家に対する批判は、政治家が特に悪いからではなく、制度がもたらした問題なのだ。多くの政治家は民衆からなったのであり、前述のような政治家の悪いところを防ぐには、人民のために奉仕すると毎日唱えたり、党の本質について教育したりするのではなく、政治制度を変えなければならない。特権を撤廃し、彼らの握る公権が人民のためにしか使えないようにする。これが民主政治である。民主政治の下では、政治家の権力は監督と制約を受け、政治家は罷免あるいは交替される。また、彼らが結託して特権階級を作るのに十分な時間を与えないように、一定の任期が設けられている。

執政者は常に人民の利益が最優先だと言うが、実際には、人民の利益は空っぽで、国家の利益あるいは政治家自身の利益に適うことだけが実行される。たとえば、ある国に対する恨みや不信任を挑発する、雰囲気を悪くするために他人の動機を悪いほうに推測する、古い歴史のことをしつこく蒸返す、比較的解決しやすい経済問題を政治問題にすり替える、など様々ないざこざを引き起こす。結局、最終的に民衆が責任を取らされ、民衆の財産さらには民衆の命が犠牲になる。これらのことからも、いわゆる国家の利益は人民の利益と違うことがよく分かる。

国家の利益を人民の利益よりも優先するという逆転をもたらしたのは、数千年にわたった政治家の意図的な宣伝である。この逆転した理論をさらに逆転させることは容易でない。数千年もかかるということはないが、少なくとも数十年あるいは百年位はかかる。この新しい考え方を隅々まで浸透させれば、この世界に戦争がなくなり、大同世界(ユートピア)も実現できる。現在の世界には、依然として対立があり、戦争があり、大同世界とかけ離れているが、戦争のない世界が早く到来するように様々な作業に取り組まなければならない。最も重要なことは、前述した三つの利益を明確化し、人民の利益を揺るぎ無く最優先させることである。これには社会全体が一緒になって努力する必要がある。

民衆の真の利益を理解し、正当な国家の利益とはなにか、誤った国家の利益とはなにかについて、権力者を教育することは簡単でない。たとえ彼らが理解しても、個人の利益の対立により、人民の利益に基づいて行動するとは限らない。権力者は、大きな権力を握っているため、彼らの利益を損なういかなる見方も打ち滅ぼし、似て非なりの理論であいまいにする。実際、このような国では、理論の闘争が絶えない。民衆が自分の権利のために訴える一方で、政治家の利益を代表する理論は絶えずに作り出され、さらに行政の力や専制の力を使って民間の声を踏みにじる。民間の力は専制の力に比べて常に弱い立場にあるが、世界の大きな流れから見て、民間の力は最終的に必ず専制に打ち勝つ。民主化の勢いには逆らえないのである。

2008年10月23日掲載

出所

中評網「人民の利益、国家の利益、政治家の利益
※和訳(抄訳)の掲載にあたり著者の許可を頂いている。

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