中国経済新論:中国経済学

私欲を破壊力から進歩力へ転換させるカギ
―なぜ私有財産の保護が重要か

茅于軾
天則経済研究所理事長

従来、私欲は良くないものだと思われてきた。古今東西の哲学者、倫理学者たちは、私欲は人間関係の調和を壊す主な原因であると見なし、戦争、窃盗、人殺しなど社会動乱のすべては、人間の私欲によってもたされると考えていた。そのため、南宋の哲学者である朱憙は、「存天理、滅人欲」という哲理を、自分の信条とした。建国(1949年)以来の中国では、「私欲」は毒蛇猛獣のようなものとみなされ、逆に「公」の度合いが大きければ大きいほど、望ましいと考えられてきた。当時の人々は、私有制、私有財産などの言葉を口にすることすら怖がっていた。こうした事態は、改革開放後大きく変化した。個人は高収入の職業を求め、企業も利益の最大化を目指そうとしている。だが、公の場で私利や私欲を提唱することは、まだかなりの度胸が必要である。中国社会において、「公」の地位を揺るがすことは、未だに難しいのである。

改革は、これまですでに人々に巨大な経済的な利益をもたらした。様々な問題も残ってはいるが、絶対多数の人々の生活水準が上昇し、国家の力も増大した一方で、個人としての自由の範囲も大きく拡大した。中国の人々にとって、改革によって得た利益は、失ったものより大きい。今回の改革の根本的な原動力は、個人が自己利益を追求することにあった。世界規模から見ても、市場経済が成長したこの二、三百年間は、世界が根本的に変化した時期であった。その間、人々の生活水準の上昇は、それまでの何千年という歴史の中で、人類が成し遂げた成果を上回った。この成果もまた、個人が自己利益を追求したことに由来するものであり、決して何か特別な主義や信念によるものではない。ところが、私利こそが改革の根本的な推進力となっていたにもかかわらず、われわれは、未だに私利追求を正当な権利として、認めようとしないのである。

この問題はより深く議論する必要がある。なぜ市場経済が登場するまで人々の私欲は罪悪の源と見なされたのに、市場経済の時代以降、私欲は一転して社会の進歩にとって根本的な原動力に変わったのだろうか。

その答えは簡単である。市場経済が登場する以前の人間の私欲は、他人の利益を侵害すること、言い換えれば、他人の財を奪って自分のものにする、という「財の移転」によってもたされたのである。そのプロセスは、常に人間同士の争いを意味したため、結果として私欲は全社会の財を増加させるどころか、多くの生命財産の損失をもたらしたのである。一方市場経済の時代になると、個々の人の利益は保護され、自己利益を最大化するには他人の協力、即ち、「交換」を通じて、お互いの利益に対する要求を満たさなければならなくなった。このような人と人との関係は、全社会の財を絶えず拡大させていた。従って、私有財産を保護することは、人間の私欲を、破壊力から社会の進歩を推進する原動力に転換させたのである。

個人という視点からは、私有財産を保護することは、金持ちのスローガンに過ぎないように見える。しかし社会全体からは、私有財産を保護することは、金持ちや特権を握った人間が普通の人間を侵害することを、むしろ制限したことになる。このため、私有財産の保護は、道徳の神と言われている。人類の歴史から見ると、私有財産に対する保護が実施されて以来、人々はお互いの財産を侵害して、利益を獲得しようとする機会を大きく減少させた。協力し合うことこそ利益を獲得する前提条件であり、ゆえに市場経済体制が誕生したのである。こうした問題のとらえ方は、マルクスによる、公有制しか社会の基本矛盾を解決できないという考えとは、真っ向から対立している。同じ問題を、個人と社会といった異なる視点から考えた結果、結論がこれほど大きく異なることは、極めて意外であろう。

古今東西の多くの哲学者たちは、「私欲」はあらゆる罪悪の源と考えていた。従って、彼等が描いたユートピア社会は、「私欲」が完全に克服された社会でなければならなかった。これは問題を理解していない。「私欲」に反対することは必要のないことだけではなく、不可能なことでもある。われわれが反対すべきなのは、自己の「私欲」が膨らみ、とりわけ特権など好条件の立場にいる場合、それを悪用して、他人の利益を侵害することである。これこそあらゆる社会動乱の根本的な原因なのである。

2001年10月8日掲載

出所

「宏観論壇」(第90号、2001年3月30日)、天則経済研究所。原文は中国語。和文掲載に当たって、天則研究所の許可を頂いている。

2001年10月8日掲載