執筆者 | Peter VON STADEN (KEDGE Business School)/河村 徳士 (研究員) |
---|---|
研究プロジェクト | 経済産業政策の歴史的考察―国際的な視点から― |
ダウンロード/関連リンク |
このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。
政策史・政策評価プログラム (第三期:2011〜2015年度)
「経済産業政策の歴史的考察―国際的な視点から―」プロジェクト
この論文は、経済新聞によって経済危機がどのように説明されたのかについての比較研究である。特に、ウォールストリートジャーナル(WSJ)とフィナンシャルタイムズ(FT)が、それぞれどのように最近のアメリカの危機ならびにEUの危機を議論したのかを分析し、これらと日本経済新聞(日経)にみられる「失われた10年」の説明ぶりとを対照させる。
経済危機と呼ばれる現象を公衆が理解するためには何らかの説明がなされることが必要であり、このため、新聞における危機の説明の仕方が、公衆の理解および認識を形成する上で重要な役割を演じる。この意味で、経済危機は所与のものではなく、社会的に構築されるものである。このことは危機が実際に存在したことを否定するものではなく、経済活動の停滞は確かに実質的な効果をもたらしている。しかしながら、危機に対してどのような説明がなされるかは、経済危機が国家にとって意味するものは何であるかを、および国家が指摘された危機を解決するための答えを自ら探す力を決定する上で重要である。
日本の失われた10年の長期に及んだ性質を分析するにあたって、この論文では社会構成主義(コンストラクティビズム)の方法を採用する。1990年代の初頭から、国際政治経済学の分野において、社会構成主義は広く認められ受け入れられてきた。社会構成主義では、間主観性という見方が用いられる。ウェーバーによると、人間は文化的な存在であって、世界に対峙する姿勢を形成し何らかの意味付けをする。このことは、言わば自然界に由来する物事から区別されたところで事実が形成されることを促す(図を参照)。これら社会的事実の存在は、人々の間の間主観性、つまり、人々の間で共有されて信じられているものに基づいており、自然界ではそのようなことはあり得ない。このようにして、経済危機の実質的な意味は間主観的に構築されることになる。
経済危機に対するWSJとFTによる説明の仕方は、日経の場合と根本的に異なっている。三紙とも、基本的な事実を公衆に即座に伝えたという点は共通していたが、WSJとFTは、日経よりも早く危機をより深い問題として取り上げる記事を掲載し始めた。WSJとFTは、危機の発生後1年足らずで、危機を振り返るレポートを盛り込むようになったが、日経がそうしたのは10年経った後のことだった。このようなタイミングの違いの一因は、米国のサブプライム問題が発生した時点で、すでに日本の停滞は20年近くに及んでいたことだが、他の要因も存在する。FTやWSJはより速い時期に、狭い経済分析を超えた論説を展開していたのである。
この観察の重要性は、危機の際の経済改革が、労働者や社会に直接的な影響をもつ市場に対して、しばしば重要な変化を求めるという点にある。影響力のある経済新聞は、経済危機の間主観的な理解を確立する上で重要な役割を演じる。また、本格的な市場改革と関連した深遠な課題について考察し判断するうえで必要な思考過程へと読者を導いていく力を経済新聞は持っている。日経のような影響力のある新聞は、単に情報を伝達する媒体を超える役割を意識的に果たすことが必要である。