ノンテクニカルサマリー

健康保険料は賃金にどれだけ転嫁されているか?:組合別パネルデータを用いた実証分析

執筆者 濱秋 純哉 (法政大学)
研究プロジェクト 経済活力と生活の質を向上させる社会保障制度
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このノンテクニカルサマリーは、分析結果を踏まえつつ、政策的含意を中心に大胆に記述したもので、DP・PDPの一部分ではありません。分析内容の詳細はDP・PDP本文をお読みください。また、ここに述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織および(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。

社会保障・税財政プログラム (第三期:2011〜2015年度)
「経済活力と生活の質を向上させる社会保障制度」プロジェクト

本論文の目的は、近年増加の一途を辿る社会保険料負担が、賃金に与える影響を明らかにすることである。社会保険料の多くは、名目保険料率でみれば労使折半で負担されているが、労働市場での需給の調整を踏まえた「実質」で見れば、保険料負担の賃金への転嫁を通じて負担が労働者側に偏っている可能性がある。たとえば、企業の保険料負担が増加した場合、企業はこれを人件費の増加と認識し、雇用を減らそうとするかもしれない。このとき、労働者が雇用を失うよりも、賃金の低下を受け入れた方が得策と判断すれば、企業の保険料負担の増加は賃金の低下につながり、雇用の減少はほとんど起こらない。この状況は、労働市場の需要曲線と供給曲線を描いた以下の図で示すことができる。

図:労働市場における保険料負担の帰着
図:労働市場における保険料負担の帰着

保険料負担の増加は企業にとっては人件費の増加なので、労働需要は減少するため需要曲線は左にシフトする。労働供給曲線が賃金に対して非弾力的なら、(企業の負担増加後の)新たな市場賃金は、当初の市場賃金よりも保険料負担の増加分だけ低下しているはずである。このことは、企業の保険料負担が賃金の低下という形で実質的には労働者の負担になっていることを意味する。

近年、社会保険料の実質的な負担者が誰なのかを明らかにするために、保険料の企業負担が賃金に与える影響を推定した論文が国内外で多く蓄積されている。これらの実証研究では、企業の保険料負担が賃金に与える影響が推定されている。わが国を対象とした研究では、企業の保険料負担の多くが賃金に転嫁されていると考えるのが有力となっている。

しかし、企業の保険料率は、賃金などの被保険者の属性に影響を受けると考えられる。たとえば、他の条件が一定であれば、賃金水準の高い企業では保険料率を低く設定しても十分な保険料収入を得ることができる。企業の保険料負担の賃金への転嫁の大きさを正確に推定するためには、このような賃金から保険料率への逆の因果を取り除く必要がある。本論文では、2003年4月の総報酬制導入により、健康保険料率の賦課対象が月収だけでなく賞与にも広がった際に、財政状況が悪い健康保険組合(以下、健保組合)では保険料率を実質的に引き上げた可能性があることに着目して分析を行った。つまり、保険料率を賦課対象の拡大に見合う分だけ引き下げないことで、実質的に保険料率の引き上げを行うことができたわけである。もともと財政状況が悪く、保険料率を引き上げたいと考えていた健保組合で、総報酬制導入という(各健保組合の被保険者の属性とは無関係の)外生的な出来事を契機に引き上げられた保険料率の変化を用いて推定を行えば、上記の逆の因果の問題をクリアできる可能性がある。

本論文では、2001年から2007年までの健保組合別のパネルデータを用いて分析を行った。すると、総報酬制導入を契機とした保険料負担の増加は、時間をかけて徐々に賃金に転嫁されたことを示唆する結果が得られた。本論文の分析対象期間は物価上昇率の低い時期であり、このような状況下では実質賃金の引き下げによる賃金の調整が難しいため、賃金への転嫁に時間がかかるのかもしれない。もしそうなら、少なくとも短期的には保険料負担の増加分は企業の負担となっていた可能性がある。したがって、近年の医療保険制度改革による健保組合に対する拠出金負担の引き上げは、企業活動を短期的には阻害することもあり得るため、このような影響も踏まえて制度改革を行っていく必要があるといえる。